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すべての栄光を主に(創世記14:1~24)


「すべての栄光を主に」

創世記14:1~24

【戦争が起こる】

創世記第14章前半には、古代中近東世界における戦争のことが書かれています。この戦争は、多くの民族、国を巻き込んだ戦争でした。この戦いは、4人の王によるメソポタミア大連合軍と、カナンの5人の王によってなるカナン連合軍との戦いです。メソポタミア地方エラムの王ケドルラオメルは、12年にわたって、カナンの5つの王を支配していましたが、その圧政と貢物の負担に耐えかねたカナンの王たちは、13年目に独立を試みます。

地図を見てみましょう。エラムの王ケドルラオメルは、広くメソポタミア地方を統治していましたが、強国というのはいつもそうですが、彼らは飽くことなく、近隣の諸国に支配の手を伸ばします。カナンの小国は、ソドム、ゴモラ、アデマ、ツェボイム、ツォアルで、これらの国々は、今日のパレスチナの南部、死海の周辺にありました。ロトがアブラムと分かれ住んだところです。肥沃な低地だったとありました。けれども今、これらの国は死海の底に沈んでいると言われています。

さて、十三年目にカナンの諸民族が同盟を結んで反乱を起したと聞いたエラムの王ケドルラオメルは、他の3人の王と組んで、反乱軍の鎮圧のために遠征して来ました。彼らは、直接カナン地方に行くのではなく、ヨルダン川の東側を北から南へと、途中幾つかの諸民族を撃ち従えながら進み、それから向きを変えてヨルダンの西側を回って戻って来たようです。恐ろしい勢いです。そしていよいよ5人の王たち反乱軍と、シディムの谷という所で戦いになりました。5人の王たちの軍勢は、そこで撃ち破られ、敗走することになります。そして当時の戦争の常として、ソドムとゴモラの町は略奪を受けたのです。戦争に負けた国、町は徹底的に略奪され、人々は捕虜として連れ去られて奴隷となるというのが当時の戦争です。そして、その時ソドムに住んでいたアブラムの甥のロトと家族、財産も略奪されたのです。

 

【ロト救出大作戦】

これが、世界の現実です。今と大して変わりません。今、日本は戦争の渦中にありませんが、まだ終戦から80年しか経っていません。この平和が100年保つかどうか、誰も保証できません。問題は、その時、私たちは、どうするかです。私たちの教会はどんな態度でこの事態に臨むかということです。こうしてアブラムも戦争に巻き込まれていきます。なぜなら、息子同然のロトとその家族が略奪されたからです。アブラムは、その時マムレの樫の木のところに住んでいて、そこはアモリ人の土地だったので、彼らと盟約を結んでいたようです。アブラムはそこから情報を得て、おそらく彼らと共に戦略を立て、メソポタミアの大国に挑んでいきます。

アブラムは318人の兵を持っていました。彼らは流浪の民でしたから、絶えず危険にさらされていたので、このような兵を日ごろから訓練し、有事に備えていたのでしょう。けれども相手は大軍です。勝てるわけがありません。そこでアブラムは奇襲を試みます。アブラムは兵を率いてダンまで追跡し、夜を待って、兵を二手に分け、挟み撃ちをしたのです。勝利に酔いしれて油断していた大軍は、アブラム軍に打ち負かされてしまいます。こうしてアブラムは、すべての捕虜と財産を取り戻しました。もちろんロトとその家族、財産も取り戻しました。

 

【すべての栄光を主に】

アブラムたち一行が帰還すると、ソドムの王が彼を迎えに出ます。そして言うのです。「人々は私に返し、財産はあなたが取ってください。」(21節)今回大勝利をおさめた戦いにおいて、ソドムの王や他のカナンの4国は、全く何も貢献していないのに、まるで自分が主導権を握っているかのような対応です。けれどもこの時のアブラムの対応は秀逸です!アブラムはソドムの王に言いました。「私は、いと高き神、天と地を造られた方、【主】に誓う。糸一本、履き物のひも一本さえ、私はあなたの所有物から何一つ取らない。それは、『アブラムを富ませたのは、この私だ』とあなたが言わないようにするためだ。」(22-23節)

実は、アブラムが軍を率いて戦ったのは、彼の生涯の中でこの時だけです。ですから、この箇所は、何も戦争を肯定するために使われるべき箇所ではありません。けれども、捕虜となったロトは、どんな扱いをされるのか?妻や娘は取り上げられ、男たちは奴隷にされるか、殺されるか…。そんなことを思うと、彼にはこの選択しかなかったというのも理解できます。けれども、アブラムは戦利品には一切手を出しませんでした。本来、人も財もすべてアブラムのものだと主張してもよかったにも関わらず、見向きもしませんでした。ロトさえ取り戻そうとはしません。無事に救出できた、それで十分だったのです。なぜか、理由は「『アブラムを富ませたのは、この私だ』とあなたが言わないようにするため」です。この戦いの目的は、多くの国がそうであるように、自分の利益のためではない、ただ一点、「ロトの救出」だったのだと。そして、318人という小さな軍で勝利できたのは、他でもない神が我々と共にいてくださり、神が戦ってくださったのだといいたかったのでしょう。

ですから、19節に突如現れたかのように見えるサレムの王メルキゼデクの存在は重要です。サレムというのは、ヘブル語でシャローム(平安、平和)です。そして、サレムの王というのは、エルサレムの王と理解されています。彼はエルサレムの王でもあり、祭司でもありました。メルキゼデクは、パンとぶどう酒でアブラムの勝利を祝い、そして彼を祝福します。「アブラムに祝福あれ。いと高き神、天と地を造られた方より。」(19節)こうして、まずは神さまからアブラムへの祝福を祈ります。祝祷です。そして次に、「いと高き神に誉れあれ。あなたの敵をあなたの手に渡された方に。」(20節)と、アブラムから神への感謝と賛美を神さまに届け、勝利の栄光を主にお返ししたのです。祭司は、こうして神さまからの祝福と人からの感謝と賛美を取り次ぐ仲介者なのです。へブル書の5~7章には、この時の祭司メルキゼデクを引用して、永遠の大祭司であるイエス・キリストに言及しています。神さまは、前提として、私たちを祝福したいと願っておられます。けれども、罪ある人間は、神さまのすばらしい祝福を受け取るには、ふさわしくありません。また、人は神に感謝と賛美をささげるために造られたのに、人は罪ゆえに、真の神にささげられるべき感謝と賛美、栄光を、他のむなしい偶像や人や自分や物に向けます。けれども、真の神さまと人との仲介者イエス・キリストは、ご自分を犠牲にして、神さまと私たちを隔てている罪を取り除き、神さまと人との正しい関係をもう一度取り戻せるようにしてくださったのです。こうして私たちは、神さまから祝福を受けるにふさわしいものとされ、私たちの感謝と賛美も神に届くようになったのです。

 

【結び】

最後にいさぎよいアブラムの告白に戻りましょう。「アブラムはソドムの王に言った。「私は、いと高き神、天と地を造られた方、【主】に誓う。糸一本、履き物のひも一本さえ、私はあなたの所有物から何一つ取らない。それは、『アブラムを富ませたのは、この私だ』とあなたが言わないようにするためだ。」(22-23節)

 

私たちは、自分の功績でないものでも、何とかして自分の手柄にしようとします。けれども、神さまの祝福に、私たちの側の根拠、理由はないのです。私が経済的に豊かなのは私が優秀だからですか?子どもがよく育ったのは、私の教育が良かったからですか?私の祝福は、私がまじめに教会生活をして、献金を忠実にささげ、奉仕をしているからですか?そうではありません。全ては神さまのあわれみです。一方的な恵みです。私たちは、だれ一人、神さまの祝福を受けるにふさわしい者はいないからです。なぜなら、私たちの罪が、神さまの祝福を遮っているからです。私たちが罪人だった時にも、神さまはそれぞれに祝福をくださいました。けれども、イエスさまの十字架によって罪贖われた今、私たちは、神さまから祝福を受けるにふさわしいものとみなされています。神さまの子どもですから、神さまの祝福はあなたのものです。ですから、私たちは大胆に主の祝福を求めましょう。主は私たちを豊かに祝福してくださいます。ただし、一切の祝福、一切の良いものは、主からの恵みだということを忘れないでください。何ものにも「アブラハムを富ませたのは、この私だ!」と言わせないでください。環境が良かったから、親がよかったから、時期がよかったから、自分に能力があるから、自分の性格がいいから、強いから…。そうではありません。それらを与えたのも神さまだからです。神さまの栄光を横取りしないでください。全ては主の憐れみ、主の一方的な恵みです。私たちは、全ての栄光を主に帰すのです。

台湾のクリスチャンたちには、とてもいい習慣があります。例えば、会話の中で褒められたりすると、ほめられた人は、「感謝主!」と言います。「試験合格したんだって?おめでとう!」「感謝主!」、「結婚したんだって?相手はすてきな人みたいね」「感謝主!」、「わ~、いい車ね!」「感謝主!」。これが口癖なのです。また、お祈りの最後には、必ず、「全栄光帰給神(すべての栄光を神さまにお返しします)!」と言うのです。習慣になってしまうと、心が伴わなくなってしまう危険性もあるのですが、これを意識して、いつも主に感謝し、主に栄光を帰すなら、神さまは、それこそ、天の窓を開いて、もっと多くの祝福で、私たちを満たしてくださるでしょう。全ての栄光を主に! お祈りします。


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