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総督ピラト(マルコの福音書15:1~15)


皆さんは、「冤罪」という言葉を知っておられると思います。冤罪とは、「無実の罪」を意味する言葉です。実際には犯罪者でないのに犯罪者として扱われることを指す、いわゆる「ぬれぎぬ」です。最近の有名な冤罪としては、袴田事件(はかまたじけん)があります。1966年(昭和41年)6月30日に日本の静岡県清水市の民家で発生した強盗殺人・放火事件。現場の家に住んでいた味噌製造会社専務の一家4人が殺害されて金品を奪われ、家に放火されました。そして後日、同社の従業員だった袴田巌が逮捕・起訴され、後に死刑判決が確定しましたが、その取り調べは過酷を極め、炎天下で一日平均12時間、最長17時間にも及び、水も与えずトイレにも行かせず、精神的・肉体的拷問が繰り返されたと言います。そして、この冤罪の汚名を晴らすために60年もの月日を費やして戦ってきた姉、ひで子さんは、もう92歳になるそうです。そうして、彼女はカトリック信者です。きっと、神さまはすべてをご存じだという信仰、そしてきっと無実を晴らしてくださるという信仰が、彼女を支えたのではないかと思うのです。

今日の聖書箇所には、冤罪によって、死刑に処せられた一人の男が出てきます。イエス・キリストです。そして、無実だと知りつつ、死刑を言い渡した裁判官、総督ピラトが出てきます。今日は、そんなピラトの心の動きを、彼の言葉から追っていきたいと思います。

    あなたはユダヤ人の王なのか(2節)

前の晩、ユダヤ人の最高法院による協議が行われました。協議とは名ばかり。そこでは、はじめに判決ありの、でっちあげの証言がなされ、まずは、イエスの宗教上の罪が確定しました。大祭司がイエスさまにした質問します。14章61節「おまえは、ほむべき方の子、キリストなのか。」つまり、「おまえは、この天地万物の創造主であり、今も統べ治める王の王である神の子、やがてはイスラエルを救う救世主、メシアなのか?」という問いです。するとどうでしょう、それまで、いくら不利な証言をされても何もお答えにならなかったイエスさまは口を開きます。「わたしが、それです。あなたがたは、人の子が力ある方の右の座に着き、そして天の雲とともに来るのを見ることになります。」(62節)そして、その最高法院でイエスは、死に値するということになりました。けれども、当時のユダヤはローマの属州で、彼らは罪人を死刑に処する権利は与えられていませんでした。ですから彼らは、イエスをローマ総督ピラトのもとに連れて行ったのです。

大祭司らは、ローマ総督ピラトに、どのように訴えたのでしょうか。イエスが、ご自分のことを神の子、メシアだと言ったとしても、ローマ法には抵触しません。当時ローマは多くの属州を持っていましたが、彼らの宗教に関しては寛容でした。ローマに反逆しなければ、信仰、信条の自由が認められていたのです。ですから、ユダヤ人の指導者たちは、イエスにローマへの反逆罪の汚名を着せようとしました。ルカの福音書(23:2)を参照すると、彼らはこう訴えたとあります。「この者はわが民を惑わし、カエサルに税金を納めることを禁じ、自分は王キリストだと言っていることが分かりました。」これも偽証です。イエスさまはむしろ、ローマに収めるための税金のことで質問を受けた時に、「カエサルのものはカエサルに返しなさい。神のものは神に返しなさい」と言い、自ら税金を納めたのです。ピラトはこの訴えを受けて、イエスに質問しました。「あなたはユダヤ人の王なのか」。するとイエスは、「あなたがそう言っています。」と答えました。どういう意味でしょうか。一つは、この質問に答えることを拒否していると考えられます。そしてもう一つは、否定の答えを暗示しています。実際、イエスさまは、自分はユダヤ人の政治的な王だと言ったことはありません。そして、それ以降、全く口を閉ざしてしまいました。

    何も答えないのか。見なさい。彼らはあんなにまであなたを訴えているが。(4節)

ユダヤ人の宗教指導者たちは、なおも数々の偽証を並べたてました。けれども、イエスは口を開きませんでした。イザヤ書53章7節のメシア預言が思い出されます。「彼は痛めつけられ、苦しんだ。だが、口を開かない。屠り場に引かれて行く羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。」

「摂理 (キリスト教福音宣教会)」という異端があります。世界77カ国に数万人の信徒がおり、日本では27教会3支部(計34)を有しているそうです。教祖である鄭明錫(チョン・ミョンソク)は、自らをキリストの再来だとし、多くの信者を集めましたが、1999年に起きた元信者女性の拉致・監禁事件について、鄭による女性信者への性的暴行が告発されました。海外にいた鄭は2007年に北京で拘束され、2009年に女性信者への強姦及び準強姦罪で懲役10年の実刑判決を受けました。2023Netflixのドキュメンタリー『すべては神のために:裏切られた信仰』が放映され、彼の法廷での様子が、描かれたようです。そこではチョンは、気がふれたふりをしたり、気絶したふりをしたりしたそうです。そして、裁判官が「あなたは、キリスト、メシアなのか」と聞くと、「とんでもない、そんなこと言ったこともありません」と答えたそうです。これが偽メシアです。最後の最後には、恥も外聞もなく、保身に走るのです。

総督ピラトにとっては不思議でした。あんなに自分に不利な証言をされているのに、イエスは一切口を開かない。自分を守ろうとしない。ピラト自身、後に自分の地位を守るために、イエスは無実だと知りつつ、死刑を言い渡すのです。ピラトにとって、イエスは不可解でした。普通の人間ではない何かをすでに感じていました。

      おまえたちはユダヤ人の王を釈放してほしいのか

イエスさまが、何も語らないので、ピラトは民衆の方に向きます。そして、彼らに提案するのです。「私は祭りのたびに、人々の願う囚人一人を釈放している。そこでどうか、このイエスを釈放しては。」ピラトは、イエスさまが民衆の間でメシアとして期待され人気者であることを知っていました。ほんの少し前に人々が、エルサレムに入場するイエスを歓迎し、自分のたちの上着を敷いて花道を作り、棕櫚の葉を振りながら「ダビデの子、ホサナ!」と大歓迎していたのです。祭司長たちは、イエスをねたみ、憎んでいるらしい。けれども、民衆は違うはず。ならば民衆の意見を聞いてみようと、この提案をしたのです。ところが、民衆のイエスへの期待は、すでに失望に変わっていました。イエスは、我々が期待するような解放者、革命的リーダーではないと知ったのです。そして、祭司長たちは、群衆を扇動します。「バラバの釈放を願え」と。バラバは、それこそユダヤ人解放軍のリーダー、ローマへの反逆を企て、暴動を起こした張本人でした。群衆は、イエスではなく、このバラバを釈放するように願うのです。

     では、お前たちがユダヤ人の王と呼ぶあの人を、私にどうしてほしいのか。

すると、群衆は叫び始めます。「十字架につけろ!」そのシュプレヒコールの波は、どんどん大きくなり、怒りと憎悪に満ちた叫びに、ピラトは恐怖を感じます。それでも、この時はまだ、ピラトの良心のかけらが生きていたのでしょう。彼は群衆に向かって言います。

     あの人がどんな悪いことをしたのか。

ピラトは、イエスが無罪だと確信していました。「ユダヤ人の宗教のことはわからない。しかし、ローマ法に照らすなら、彼は何も法を犯すことはしていない。私は彼を罪に定めることはできない。ましてや、十字架刑はローマの死刑の中でも、もっとも残酷な刑だ。どうして、無実の人をそんな極刑に定めることができよう!」そんな心の叫びから出た言葉です。しかし、群衆はますます激しく叫び続けます。「十字架につけろ!」「十字架につけろ!」 とうとう、ピラトの良心は、恐怖に負けました。彼は、バラバを釈放し、イエスは鞭で打ってから、十字架につけるために引き渡しました。こうして取り返しのつかない冤罪が公然と行われました。

私たちは今朝も使徒信条を告白しました。この使徒信条には3人の名前が出てきます。一人は、イエス・キリスト。そしてマリア、そしてもう一人が、ポンテオ・ピラトです。彼は罪のない者を罪に定め、民衆に引き渡し、見殺しにした代償を、今もこうしてキリスト教会で覚えられることによって、払い続けているのです。そして、この短い使徒信条に残さなければならないほど、彼のしたことは大きかったことを、私たちは知るのです。

一つは、ピラトがイエスを十字架刑に処するという判決を言い渡したことは、イエス・キリストの十字架が、歴史上の紛れもない事実だということを確証しています。ウィキペディアで、ポンテオ・ピラトと検索すると以下のように出てきます。「ポンテオ・ピラト(古典ラテン語: Pontius Pilatus(ポンティウス・ピーラートゥス)、生没年不詳)は、ローマ帝国の第5代ユダヤ属州総督(タキトゥスによれば皇帝属領長官、在任:26-36年)。新約聖書で、イエスの処刑に関与した総督として登場することで有名。新約聖書の福音書の登場のほか、少し後の時代のユダヤ人の歴史家であるフィロンやフラウィウス・ヨセフスなどの歴史書においては、アグリッパ1世以前のユダヤ総督で唯一詳しい説明が存在する。」ポンテオ・ピラトは、確かに歴史上の人物です。そして彼の判決によって、ナザレ人イエスは、確かに十字架刑に処せられて死んだのです。

二つ目は、イエスさまは確かに無実だったということです。少なくとも、ローマ法には全く抵触していなかった。ましてや十字架刑に処せられるような罪はなかったことをピラト自身が証明しています。

そして三つめは、15章の終わりに、再びピラトが登場するのですが、彼は、イエスさまが本当に死んで葬られたことを確証しています。仮死状態ではない、完全に死んだとしています。

この3つを証明する意味で、ピラトの存在は非常に貴重です。彼は大切な役割を果たしたのです。

ピラトは悪い奴だと思いますか?保身のために、一人の命を死におとしめたひどい奴だと思いますか?しかし、私は、ピラトに自分自身が重なってみえます。ピラトは、自分で答えを出さないで逃げました。民衆に「この人をどうしたいのか?」と聞いたのです。裁判官がそんなことしますか!? そして、ピラトは、群衆に判断を任せます。責任放棄、責任転嫁です。アダムが禁断の実を食べて、神さまに問われたときに、「この女が!」と言いました。人間の罪はこうして始まったのです。 そしてピラトは、自分の良心の声に聴き従わず、間違っていると知りしりながら、そちらを選びました。人を恐れると罠にかかる。とみことばにもあります。ピラトは人を恐れて、一度も罪を犯したことのないイエスさまを十字架刑に処したのです。そうです、私たちの中のピラトが、イエスさまを十字架につけたのです。

ピラトはイエスさまに5つの質問をしました。そう、ピラトは質問しかしてない。「あなたはユダヤ人の王なのか?」「何も答えないのか?」「おまえたちはユダヤ人の王を釈放してほしいのか?」「お前たちは、私にどうしてほしいのか?」「あの人がどんな悪いことをしたのか?」人にばかり問うピラト。しかし、イエスさまは言うのです。「あなたがそう言っています。」あなたの中に答えがあるでしょう。あなたはわかっているでしょう。問題は、あなたがそれに従うかどうかです。私たちは、主に信頼して、イエスを主と告白しましょう。そして私たちの王として、従いましょう。


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