スキップしてメイン コンテンツに移動

死んで葬られたイエス(マルコの福音書15:33~47)


「死んで葬られたイエスさま」

マルコの福音書15章33~47節

 

天の父なる神さま、尊いお名前を心から賛美します。今日も十字架のできごとを追っていきます。どうぞ、十字架をただ眺める観客、傍観者になるのではなく、十字架のもとに私たちを置いてくださって、十字架を見上げる者としてください。イエスさまの御名によってお祈りします。アーメン

 

今日はイエスさまがいよいよ十字架にかかって死んで葬られる場面です。先週の説教でも触れましたが、使徒信条では、「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、死にて葬られ」と続きます。この「死にて葬られ」というのが、非常に重要です。Ⅰコリントの15章3~5節では、こんな風に書かれています。

15:3 私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書に書いてあるとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおりに、三日目によみがえられたこと、また、ケファに現れ、それから十二弟子に現れたことです。」

ここには、最も大切なことは、イエスさまが死なれたこと、葬られたこと、よみがえられたこと、人々の前に現れたことだと書いてあります。キリスト教会2000年の歴史の中では、多くの異端が現れては消えていきましたが、中には、霊肉二元論に立つギリシア哲学の影響を受けてイエスの死を否定する人たちも現れました。物質的・身体的なものは悪であり、必ず滅びる。他方、霊的・精神的なものは善であり、永遠に存在する。だから「聖い神の御子イエスに人間の罪深い肉体などなく、従って、死ぬこともない。体のように見えたのは幻のようなものだったのだ」と主張しました。けれども、イエスさまは、真の人でした。100%神でしたが、100%人でもあったのです。イエスさまの肉体が本当に死んだのでなければ、復活もないということになります。イエスさまの復活がなければ、私たちの復活の望みもありません。ですから、今日の個所で確認したいことは、イエスさまは本当に死なれたということ、そして葬られたということです。

さて、イエスさまが十字架にかかられると、やがて闇が全地をおおいました。「闇」というのは、神不在を意味します。ある人は、これは、「光あれ」と言われた神が、この地上から目を背けられた結果だと言いました。そうなのかもしれません。とにかくこの暗闇は12時から3時まで、3時間続きました。

そして午後3時にイエスさまは、大声で叫ばれました。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」(詩篇22篇、アラム語)訳すと「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか」という意味です。御子イエスさまは、父なる神に捨てられました。捨てられたような気がするとか、捨てられたかもしれない、ではなく、本当に捨てられたのです。創世記の人の創造のところを学んだ時、神はどうして人を作ったか、それは、父と御子、聖霊の交わりがあまりに豊かですばらしかったから、人をその交わりに加えたかったのだと話しました。そんな麗しい、豊かな交わりが、父と子の間にあったのに、父は御子を見捨てたのです。なぜでしょうか。それはイエスさまが、人の罪を一身に背負われていたからです。だから、父なる神さまは、御子から目を背けられ、見捨てたのです。前にもお話しましたが、イエスさまは、父なる神さまのことを、いつも親しく「父よ」と呼んでいました。ところが、ここでは「わが神」と呼んでいます。神との距離があるのです。こうしてイエスは、人に捨てられただけではない、父なる神にも背を向けられ、拒絶され、捨てられたのです。

人々は、「ほら、エリヤを呼んでいる」と言いました。「エロイ、エロイ」を「エリヤ」と聞き間違えたのでしょうか。あるいは、当時の人々は、苦境の時に、エリヤを呼ぶ習慣があったからだという人もいます。とにかく、イエスさまは、その後大声をあげて、息を引き取られたのです。異例の早さでした。44節を見ると、イエスが死んだという知らせを受けて、ピラトは「イエスがもう死んだのかと驚いた」とあります。十字架刑がもっとも残酷な刑だと言われる理由の一つは、死ぬまで時間がかかるからです。真綿で首を絞めるように、じわじわと、長いときには、死ぬまで48時間もかかると言われています。それが、ほんの6時間で死んでしまった。イエスさまの苦しみの大きさが、からだと心の強い痛みが想像できるでしょう。

イエスさまが息を引き取られると、神殿の幕がいきなり、上から下まで真っ二つに裂けました。神殿には、聖所と至聖所があり、至聖所は大祭司しか入ることができませんでした。その幕が真っ二つに裂けたということは、もう、人が神に近づくことを阻んでいた仕切りが取り除けられたことを意味します。イエスさまが、人の罪を背負い、神に捨てられ、その刑罰を受けてくださったので、私たちと神さまの間にあった仕切りは、完全に取り除けられたのです。私たちは、このことによって、大胆に神に近づくことができるようになったのです。

一連の様子を間近で見ていた百人隊長は、「この方は本当に神の子であった。」と言いました。どうして、彼がそう告白するに至ったのかはわかりません。けれども、「ユダヤ人の王」という罪状で、虫けらのように殺されたイエスさまの6時間を一番間近で見ていた百人隊長が、「この方は本当に神の子だった」と告白したのです。

 

イエスさまの遺体が取り下ろされました。通常は、死刑にされた犯罪人は、野外に放置するか、囚人の墓地に葬られたそうです。ところが、アリマタヤ出身のヨセフという、ユダヤの最高議会の議員ヨセフが、イエスさまのからだの下げ渡しを願い出ました。「勇気を出して」とあります。おそらく、ピラトの裁判の前日のユダヤ人最高議会の時も彼はそこにいました。けれども何もできないまま、イエスさまが連れ去られていくのを見送ったのでしょう。その時に何もできなかった後悔が、彼をして勇気を出させたのかもしれません。こうしてイエスさまの遺体は、アリマタヤのヨセフに引き取とられました。そして亜麻布でイエスを包んで、岩をくりぬいた洞穴の中に、イエスまの体を治め、そして、墓の入り口には、石を転がしておきました。「転がして」というと簡単な作業に聞こえますが、この石は、男二人でやっと動かせるものだったのです。そして、その様子を、マグダラのマリアとヨセの母マリアは、「よく見て」いました。この「よく見て」の原語は、「注意深く見る」という意味を持っています。彼女たちは40節にも登場しており、同じく「女たちは遠くから見ていた」とあります。同じ「注意深く見る」という意味の言葉です。当時、の女性の「見た」という証言は、何の法的な説得力もありませんでした。女の法廷での証言は、認められなかったのです。けれども仕方がない、男の弟子たちはみな、逃げてしまったのですから。

 

先週の説教でわたしは、私の中に見るピラトということを言いました。私たちは十字架の記事を読むときに、傍観者になってはいけないこと、登場してくる人物に、自分を重ねてみることが大事だと、話しました。そうすると、私たちはきっと、イエスさまかわいそう…などと感傷的になることはできないでしょう。なぜなら、私たちは、イエスを苦しめ、十字架にかけた当事者の一人なのだからだと、話しました。今日も、登場人物に自分を重ねましょう。誰に重ねますか?…イエスさまに重ねてほしいのです。なぜなら、十字架にかかるべきは、本来、私であり、あなただからです。イエスさまは、何も罪を犯さず、その口になんの偽りもなかったのに、イエスさまは、私たちの罪を負って、身代わりに、罪の罰を受けてくださったのです。ですから、私たちは、イエスさまに自分を重ねて、自分を十字架につけましょう。ガラテヤ人への手紙の2章19節から20節にはこうあります。「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」私たちは、キリストとともに十字架につけられたのです。そして、キリストとともに死にました。古い自分は死んだのです。神に背を向けて、自分のしたいように生き、まわりを傷つけ、自分を傷つけてきた罪人の私は、十字架につけられ、罰を受け死にました。イエスさまが私たちの代わりにそれをしてくださったのです。そして、イエスさまとともに死んだ私たちは、イエスさまとともによみがえりました。ですから、もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。

Ⅱコリント5:17にはこんなみことばがあります。「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」古いものは過ぎ去りました。古い私は、キリストとともに十字架につけられて死んだのです。今生きているのは、キリストとともによみがえった新しい自分です。見よ、すべてが新しくなりました!

サタンは、私たちにささやきます。お前はクリスチャンだって言うけど、何も変わっていないじゃないか。相変わらず罪も犯すし、失敗もする。神に反抗することだってある。そんなんでクリスチャンなんて言えるのか。 けれども、そんなサタンの嘘が聞こえてきたら、言ってやればいいのです。黙れ、サタン!イエスさまが私の罪のさばきをその身に負われて死んでくださったのだ。イエスさまの死を無効にするつもりか!?イエスさまが死んで葬られた。それは、古い私が死んで葬られたのと同じこと。そして、イエスさまがよみがえられたのは、私が新しい自分によみがえったのと同じこと。もはや、古いものは過ぎ去った。今は、私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きているのだ!

イエスさまは、死んで葬られました。古い自分も、死んで葬られました。それが事実です。敵に騙されてはいけません。敵の言うことに耳を傾けてはいけません。新しく生まれたこのいのちは、永遠のいのちです。私たちは神の子どもとして、この地上を生き、御国においても、よみがえって、先に御国で待っていてくださるイエスさまと永遠に生きるのです。 

天の父なる神さま、イエスさまの十字架をと罪の贖いを感謝します。私たちは、イエスさまとともに十字架につけられました。もはや、私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きていおられるのです。もう、私の罪への裁きは終わったのです。死と滅びに向かう人生は、もう終わったのです。私は、死んで、イエスさまとともによみがえりました。ハレルヤ! もう何も恐れることはありません。前だけを見て、主とともなる人生を喜びと平安のうちに生きることができますように。イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン


コメント

このブログの人気の投稿

人生の分かれ道(創世記13:1~18)

「人生の分かれ道」 創世記13:1~18 さて、エジプト王ファラオから、多くの家畜や金銀をもらったアブラムは、非常に豊かになって、ネゲブに帰って来ました。実は甥っ子ロトもエジプトへ同行していたことが1節の記述でわかります。なるほど、エジプトで妻サライを妹だと偽って、自分の命を守ろうとしたのは、ロトのこともあったのだなと思いました。エジプトでアブラムが殺されたら、ロトは、実の親ばかりではなく、育ての親であるアブラムまでも失ってしまうことになります。アブラムは何としてもそれは避けなければ…と考えたのかもしれません。 とにかくアブラム夫妻とロトは経済的に非常に裕福になって帰って来ました。そして、ネゲブから更に北に進み、ベテルまで来ました。ここは、以前カナンの地に着いた時に、神さまからこの地を与えると約束をいただいて、礼拝をしたところでした。彼はそこで、もう一度祭壇を築き、「主の御名を呼び求めた」、つまり祈りをささげたのです。そして彼らは、その地に滞在することになりました。 ところが、ここで問題が起こります。アブラムの家畜の牧者たちと、ロトの家畜の牧者たちとの間に争いが起こったのです。理由は、彼らの所有するものが多過ぎたということでした。確かに、たくさんの家畜を持っていると、牧草の問題、水の問題などが出てきます。しかも、その地にはすでに、カナン人とペリジ人という先住民がいたので、牧草や水の優先権はそちらにあります。先住民に気を遣いながら、二つの大所帯が分け合って、仲良く暮らすというのは、現実問題難しかったということでしょう。そこで、アブラムはロトに提案するのです。「別れて行ってくれないか」と。 多くの財産を持ったことがないので、私にはわかりませんが、お金持ちにはお金持ちの悩みがあるようです。遺産相続で兄弟や親族の間に諍いが起こるというのは、よくある話ですし、財産管理のために、多くの時間と労力を費やさなければならないようです。また、絶えず、所有物についての不安が付きまとうとも聞いたことがあります。お金持は、傍から見るほど幸せではないのかもしれません。 1900年初頭にドイツの社会学者、マックス・ウェーバーという人が、『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』、略して『プロ倫』という論文を出しました。そこに書かれていることを簡単にまとめると、プロテス...

まいごのひつじ(ルカの福音書15:1~7)

①「不良ひつじのジョニー」 みことば:ルカの福音書15: 1~7   ②ひつじ園という羊の牧場があります。 ここで羊たちは毎日遊んだり勉強したりお仕事したりしながら暮らしています。 お仕事と言っても、毛を刈ってもらったり、お乳を搾ってもらったり、お世話されることがお仕事です。 強いて言えば、もぐもぐたくさん食べることが、ひつじさんたちの一番のお仕事かもしれません。 ここには羊飼いのおじさんがいて、いつも悪いオオカミから守ってくれて、おいしい草がたくさんあるところに連れて行ってくれるので安心です。 ときどき、ひつじ同士ケンカすることもあるけれど、おじさんが助けてくれるので、みんな平和に暮らすことができます。   ③ひつじ園には一匹の不良羊がいます。 名前はジョニーです。 ジョニーはいつもイライラしています。 だから他の羊たちはジョニーが苦手です。 ジョニーに近づくといじめられてしまうので、みんなジョニーから遠くに離れてしまいます。   ④ジョニーは自分よりも力の弱い羊をいじめたり、仕事をさぼったり、他の羊のお菓子をとったり、いつも自分勝手です。 「フン!強い者が一番偉いんだぜ! お利口さんなんてかっこ悪いぜ! 俺は別に友だちなんかいらないぜ!」 ジョニーはそう言って暴れます。   ⑤ある日、羊飼いのおじさんが羊たちに言いました。 「今日はみんなで隣の草原に遠足に行きまーす。 みんな列になってついてきてくださーい。」 わーい。羊たちは大喜びです。 隣の草原には、とっても美味しいクルクル草があるのです。 でもジョニーは… 「ケッ。かったるいなー」 またブツブツ文句を言っています。 ⑥みんなでゾロゾロと列になって隣の草原に向かいます。 しかしジョニーは、 「みんなでチンタラ歩きたくねーぜ! 俺はバイクで行くぜ!」と言って、 自分だけバイクに乗ってビューンと行ってしまいました。 「おーい!ジョニー!道はちゃんと分かるのか~?」 ひつじかいのおじさんは叫びますが、 「へっ。隣の草原なんてしょっちゅう一人で行ってるんだぜ。 道ぐらい分かるに決まってるぜ!」 ジョニーはそう言って走って行ってしまいました。 ...

心から歌って賛美する(エペソ人への手紙5:19)

「心から歌って賛美する」 エペソ人への手紙5:19 今年の年間テーマは、「賛美する教会」で、聖句は、今日の聖書箇所です。昨年2024年は「分かち合う教会」、2023年は「福音に立つ教会」、2022年や「世の光としての教会」、2021年は「祈る教会」、 20 20年は「聖書に親しむ教会」でした。このように振り返ってみると、全体的にバランスのとれたよいテーマだったと思います。そして、私たちが、神さまから与えられたテーマを1年間心に留め、実践しようとするときに、主は豊かに祝福してくださいました。 今年「賛美する教会」に決めたきっかけは二つあります。一つは、ゴスペルクラスです。昨年一年は人数的には振るわなかったのですが、個人的には、ゴスペルの歌と歌詞に感動し、励ましを得た一年でもありました。私の家から教会までは車で45分なのですが、自分のパートを練習するために、片道はゴスペルのCDを聞き、片道は「聞くドラマ聖書」を聞いて過ごしました。たとえば春期のゴスペルクラスで歌った「 He can do anything !」は、何度も私の頭と心でリピートされました。 I cant do anything but He can do anything! 私にはできない、でも神にはなんでもできる。賛美は力です。信仰告白です。そして私たちが信仰を告白するときに、神さまは必ず応答してくださいます。 もう一つのきっかけは、クリスマスコンサートのときの内藤容子さんの賛美です。改めて賛美の力を感じました。彼女の歌う歌は「歌うみことば」「歌う信仰告白」とよく言われるのですが、まさに、みことばと彼女の信仰告白が、私たちの心に強く訴えかけました。   さて、今日の聖書箇所をもう一度読みましょう。エペソ人への手紙 5 章 19 節、 「詩と賛美と霊の歌をもって互いに語り合い、主に向かって心から賛美し、歌いなさい。」 「詩と賛美と霊の歌」というのは何でしょうか。「詩」というのは、「詩篇」のことです。初代教会の礼拝では詩篇の朗読は欠かせませんでした。しかも礼拝の中で詩篇を歌うのです。確かにもともと詩篇は、楽器と共に歌われましたから、本来的な用いられ方なのでしょう。今でも礼拝の中で詩篇歌を用いる教会があります。 二つ目の「賛美」は、信仰告白の歌のことです。私たちは礼拝の中...