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5月, 2025の投稿を表示しています

真に欲すべきもの(出エジプト記20:17)

「真に欲すべきもの」~第十戒:「欲しがること(むさぼり)」の禁止~(出エジプト 20:17 )   1.     第十戒が特別なものであること  十戒の学びも、本日の十番目の戒めをもって最終回です。  第十戒、 17 節「あなたの隣人の家を欲してはならない。あなたの隣人の妻、男奴隷、女奴隷、牛、ろば、すべてあなたの隣人のものを欲してはならない」。  この戒めは、十戒全体のまとめであるため、他の九つの戒めとは大きく性格が異なっています。何が違うのかと申しますと、第一から第九戒は、それを破るなら、いずれも罪が明らかな行為として表に出てくるものばかりなのです。表に出れば、誰の目にも戒めの違反、つまり「罪」があったことを確認することができるものばかりです。たとえば第一戒「あなたには、わたし以外に、ほかの神があってはならない」。この「ほかの神」を心の中だけに秘めておくこともできるのでしょうけれど、多くの場合、それが外に出てきてしまうのです。すると誰が見ても、その信仰者が戒めを破っていると分かるのです。他の戒めもすべてそうです。例えば第六戒「殺してはならない」を学んだとき、心の中の憎しみも隠れた殺人であるとお伝えしましたが、それが表に出てくることがあります。人は、文字通りに肉体の命を奪うだけでなく、言葉や態度でも、肉体を殺すのと変わらないほどの深い傷を相手に負わせることができるのです。そうすると、第六戒が破られたと確認することができます。  このように第一から第九戒はいずれも、表に出てくることのある罪を扱うのですが、第十戒は違う。これは専ら心の中だけのことなのです。  「あなたの隣人の家を欲してはならない」。これは「むさぼり」「貪欲」等とも言われ、本来自分のものではないもの、そして自分のものにしてはいけないものを欲する心の中の罪です。ですから第十戒は、ひたすらに心の中だけを問題にします。なぜなら、外に出てくれば、それは他の戒めを破った罪になってしまう。例えば「隣人の家を欲しい」と思って、実際に盗ってしまったら、それは第八戒「盗んではならない」を破ったことになりますね。そのように第十戒はただ心の中だけを問題にします。そのため、他の人には分からない。たとえ私が皆さんのものをひそかに欲しいと思っても、皆さんには決して分...

契約のしるし(創世記17:1~27)

アブラムとサライの女奴隷ハガルとの間に、イシュマエルが生まれたとき、アブラムは86歳でした。それからさらに13年が経ち、アブラムは99歳、サライも89歳になっていました。ローマ書4章19節には、こうあります。「彼は、およそ百歳になり、自分のからだがすでに死んだも同然であること、またサラの胎が死んでいることを認めても、その信仰は弱まりませんでした。」 二人の生殖能力はすでに死んだも同然、いや、サラに至っては死んでいたとあります。彼らは、おそらくハガルによってもうけた一人息子イシュマエルが跡を継ぐと思っていたことでしょう。本論とは関係ないかもしれませんが、アブラムとサラは、代理母でさらに子をもうけようという考えはもうなかったようです。ハガルの一件で、ほとほと懲りたのでしょうね。 さて、そんなアブラムに神が13年ぶりに語りかけます。1節後半 「わたしは全能の神である。」  「私は全能の神」、ヘブライ語では「エルシャダイ」。私たちにとっては、よく聞く主の呼び名ですが、神さまが、この呼び名でご自身をあらわすのは、この時が初めてです。「全能の神」、その呼び名が今の彼らに必要だったからです。死んだも同然のアブラムとサライ。17節では、神さまがサライを通して子どもを与えると告げたのですが、アブラムは、その時、ひれ伏して笑いました。形はひれ伏すという敬虔な態度でしたが、内心笑っていたのです。けれども、神さまは言います。「わたしは全能の神である!」私たち人間の能力は関係ない。私たちがたとえ死んだも同然の罪深い人間であろうと関係ない。救われるに値しない、神から遠く離れてしまっているようなものでも関係ない。いや、不可能であればあるほど、人間の能力がゼロに近くなればなるほど、全能の神は力を発揮するのだというのです。サライの死んだ胎にいのちを宿すことのできる神は、死に向かい滅びるばかりの私たちを救い、新しいいのちを与えることができるお方です。 「あなたはわたしの前に歩み、全き者であれ。」 この意味は、神の前を堂々と胸を張って歩めるように、道徳的に完璧でありなさいという意味ではありません。聖書で、神さまが全き者であれと言われるときは、いつも神さまとの関係において、まっすぐであるようにという意味です。神の前に誠実に生きるようにということです。神のまなざしはいつも私たちに注がれています。そう...

私を見てくださる方(創世記16:1~16)

「私を見てくださる方」 創世記16:1~16  15章では、アブラハムが神さまから、彼の子孫を空の星のように増やすとの再度の祝福のお約束をいただいています。その時、アブラムは質問します。「ご覧ください。あなたが子孫を私に下さらなかったので、私の家のしもべが私の跡取りになるでしょう。」(15:3)すると神さまは、言われます。「その者があなたの跡を継いではならない。ただ、あなた自身から生まれ出てくる者が、あなたの跡を継がなければならない。」(15:4)アブラムは、神さまのこの言葉を聞いて、素直に信じました。「それが彼の義と認められた」(15:7)と聖書にあります。アブラムはこの時、もう一つ突っ込んで質問すればよかったのにと思います。「神さま、私自身から生まれ出てくる者とおっしゃいましたが、それはサライとの子どもという意味ですか?」けれども、アブラムはそれを確認しませんでした。おそらく、アブラムは、サライ以外の女性との間に子どもをもうけるなどということは思いもよらなかったのではないかと思います。 彼らがエジプトからカナンの地に住んで、すでに10年が経ちました。アブラムは85歳、サライも75歳でした。サライは、自分が子を宿す能力が衰えていることに焦りを覚えます。そしてサライは思うのです。子を授かるという神さまのお約束は、「アブラム自身から生まれ出てくる者」ではあるけれども、「私から」ではないのではないか。ひょっとしたら、別の女が、アブラムに子を産むという可能性はないだろうか。だとしたら、私が子を産むというところにこだわっていることは、神さまの約束の実現を阻んでいることにはならないだろうか。いったんそう思いだしたら、もうその考えで頭が占領されたことでしょう。きっとそうにちがいない、そういうことだ。それしかありえない。そして、サライは夫アブラムに言うのです。「ご覧ください。【主】は私が子を産めないようにしておられます。どうぞ、私の女奴隷のところにお入りください。おそらく、彼女によって、私は子を得られるでしょう。」これは私の考えではあるが、私が産めなくしているのは、神さまなのだから、まんざら外れではないでしょう。そう言っているかのようです。当時の文化的背景からすると、それは常識的な判断でした。女は子を産んでなんぼのものでしたし、子どもを産めないということは「三行半(み...

わたしの羊を飼いなさい(ヨハネの福音書21:15~19)

「わたしの羊を飼いなさい」(ヨハネ 21:15-19 )   1.     新たな派遣のために   14 節(読む)  主イエスと弟子たちは、三度目の再会をともにしていました。場所は、主と弟子たちが最初に出会った思い出のガリラヤの湖畔。そこは確かに思い出の場所なのですが、先週、私たちは学びました。弟子たちは、思い出ではなくて、復活し、今も生きてともにおられる主イエスと出会う必要があったのです。それがこのガリラヤ湖畔で実現したのです。  このように湖の畔で食事を共にするのは、以前もよくあったことだと思います。ペテロ、ヤコブ、ヨハネは漁師出身の弟子たちで、炭火で魚を焼いての朝食は、いわゆる「漁師めし」だそうです。そのように食事をしながら、彼らはかつて、ガリラヤで神の国の福音を伝えた日々を振り返っていたかもしれません。神の国を宣べ伝え始めたのは三年前のこと。この三年は密度の濃い日々でした。主イエスと寝食を共にし働く中、弟子たちはしばしば主の御業に驚き、その教えに学びながら過ごしたのです。でも、そんな日々の最後に挫折があったのでしたね。弟子のひとりが裏切り、主イエスは十字架に引き渡され、弟子たちは、主を見捨てて皆が逃げてしまった。振り返るほどに、苦々しい、心に痛みを覚える挫折でした。  しかし、そんな弟子たちを主イエスは再び、復活の後、最初に出会ったこのガリラヤに招いたのです。もう一度、このガリラヤから、という再出発。そして彼らは新たな派遣のときを迎えていたのでした。  しかし、ここに一つだけ、新たな派遣の前にどうしても取り扱わなければならないことがありました。それはまるで、喉に刺さった魚の骨のよう。それを抜かないと食事も喉を通らない。この朝食の炭火がそれを象徴的に物語っています。この「炭火」という言葉、実は新約聖書に二回しか出てこない珍しい言葉。一回目、つまりそれが最初に出てきたのはどこでしたか。それは18章18節、十字架前夜の大祭司の中庭での炭火でした。その炭火を前にペテロは、「自分はイエスを知らない」と三度にわたって否定してしまう。そう、あの忌まわしい傷が、ついに、このガリラヤ湖畔で取り扱われていくのです。この取り扱いの中で、一つのことにご注目ください。主はペテロに三度問うのですが、ただ同じ問いを繰り返...