「私を見てくださる方」
創世記16:1~16
15章では、アブラハムが神さまから、彼の子孫を空の星のように増やすとの再度の祝福のお約束をいただいています。その時、アブラムは質問します。「ご覧ください。あなたが子孫を私に下さらなかったので、私の家のしもべが私の跡取りになるでしょう。」(15:3)すると神さまは、言われます。「その者があなたの跡を継いではならない。ただ、あなた自身から生まれ出てくる者が、あなたの跡を継がなければならない。」(15:4)アブラムは、神さまのこの言葉を聞いて、素直に信じました。「それが彼の義と認められた」(15:7)と聖書にあります。アブラムはこの時、もう一つ突っ込んで質問すればよかったのにと思います。「神さま、私自身から生まれ出てくる者とおっしゃいましたが、それはサライとの子どもという意味ですか?」けれども、アブラムはそれを確認しませんでした。おそらく、アブラムは、サライ以外の女性との間に子どもをもうけるなどということは思いもよらなかったのではないかと思います。
彼らがエジプトからカナンの地に住んで、すでに10年が経ちました。アブラムは85歳、サライも75歳でした。サライは、自分が子を宿す能力が衰えていることに焦りを覚えます。そしてサライは思うのです。子を授かるという神さまのお約束は、「アブラム自身から生まれ出てくる者」ではあるけれども、「私から」ではないのではないか。ひょっとしたら、別の女が、アブラムに子を産むという可能性はないだろうか。だとしたら、私が子を産むというところにこだわっていることは、神さまの約束の実現を阻んでいることにはならないだろうか。いったんそう思いだしたら、もうその考えで頭が占領されたことでしょう。きっとそうにちがいない、そういうことだ。それしかありえない。そして、サライは夫アブラムに言うのです。「ご覧ください。【主】は私が子を産めないようにしておられます。どうぞ、私の女奴隷のところにお入りください。おそらく、彼女によって、私は子を得られるでしょう。」これは私の考えではあるが、私が産めなくしているのは、神さまなのだから、まんざら外れではないでしょう。そう言っているかのようです。当時の文化的背景からすると、それは常識的な判断でした。女は子を産んでなんぼのものでしたし、子どもを産めないということは「三行半(みくだりはん)」、離縁されても仕方ないぐらい恥ずべきことだったのです。みんなそうしてる。子を産めない女はみんなそうしているのだ。当時の世界では、裕福な家の主(あるじ)はみんなやっていること。これは、夫婦だけの問題ではない。お家(いえ)の問題なのだ。私がここで、心を広く持って、自分の女奴隷ハガルを差し出せば、万事うまくいくのではないか。さあ、アブラムは、何と答えたのでしょう。はじめは、何を馬鹿げたことをと一蹴(いっしゅう)に付したと思うのですが、毎日のように、「ねえ、あなた考えてみて」などと言い寄られるうちに、心がぐらつきました。そしてとうとう、「お前がそういうなら…」とサライの言うことを聞き入れ、ハガルを寝室に招き入れたのです。
今、祈祷会では、「互いに助け合う」(ポール・トリップ著)というテキストを学んでいます。先週は、「もう一人のカウンセラー」というタイトルの章を学びました。私たち人間は、もともとカウンセラーが必要だということ、それは人の堕落以前から、誰かの助言を受けて生きるように創られているということです。神さまは人を、ご自分のカウンセリングを受けるように創られました。神さまが人を創られた当初、人は、毎日神さまのカウンセリング、アドバイスを受けながら、正しい生き方を選び取って幸せに生きていました。ところが、もう一人のカウンセラーが現れました。そして、言葉巧みに、エバをだまし、神がこの木の実を食べることを禁じているのは、これを食べるとあなた方は神のようになれるのだとそそのかし、彼女は、神が禁じておられる木の実を取って食べ、それを夫にも与え、アダムも食べたのでした。
妻の声に聴きしたがうアブラムと、創世記のアダムが重なります。サライは、女奴隷によって子をもうけるよう夫に提案し、夫も「お前がそういうなら…」と、それに従ったのです。彼らは、彼らを愛し、適切な助言をくださる神さまではなく、この世の常識、知恵に聞き従ったのです。
健康な若いエジプト人女性ハガルは、ほどなく妊娠します。何十年も待っても与えられなかった子どもが、あっさりと与えられました。アブラム夫妻は、もっと早くに見切りをつけて、はじめからこうすればよかったと、はじめは思ったかもしれません。けれども、神さまのみこころでない選択には、必ず落とし穴があります。家庭の中がギクシャクしてきました。自分が身ごもったことを知ったハガルは、主人のサライを見下げるようになったのです。例えばこんな感じでしょうか。サライが言います。「ハガル、ちょっとこの甕(かめ)に水を汲んできて。」「えっ、無理。重いものを持って流産したらどうするの?ご主人様の大事なお子ですから。他の人に頼んでくださらない?あるいは、ご自分でお持ちになれば~」
ここで確認したいのは、何もハガルは、アブラムの第二夫人になったわけでもないし、側室という立場が与えられたわけでもあません。今の言葉で言うと、ハガルは「代理母」でした。2節では「彼女によって、私は子を得られるでしょう」とありますし、後にラケルがやはり女奴隷ビルハを代理母にしていますが、こう言っています。「私の召し使いのビルハのところに入ってください。彼女が子どもを産み、私がその子を膝の上に迎えれば、彼女によってわたしも子どもを持つことができます」。「膝の上に子どもを産む」というのは、あくまで子どもの母親は、赤ちゃんを膝に受け取った女主人であり、産んだ本人は、子どもを産む道具なのだということを表しています。この箇所で、奴隷制度の問題や差別、人権のことについては論じることは控えますが、確かにハガルの態度は、自分の立場をわきまえない、逸脱した態度だったことは否めないでしょう。だとしたら、ハガルをいじめたサライは、当然の仕打ちをしたと言えるでしょうか。それは言えません。今でも「いじめ」については、いろいろと議論されますが、「いじめられっ子にも原因がある」「あの子は虐められても仕方のないことをしたのだ」と「いじめ」を正当化する発言は、どれも、人をいじめていい理由にはなりません。どんな理由があろうと、いじめはよくないのです。
そして、ここでもっと問題なのがアブラムだと私は思います。サライは夫アブラムに訴えました。5節「私に対するこの横暴なふるまいは、あなたの上に降りかかればよいのです。この私が自分の女奴隷をあなたの懐に与えたのに、彼女は自分が身ごもったのを知って、私を軽く見るようになりました。【主】が、私とあなたの間をおさばきになりますように。」すると、アブラムは答えるのです。6節「見なさい。あなたの女奴隷は、あなたの手の中にある。あなたの好きなようにしなさい。」夫の大事な子を宿しているハガルなので、さすがのサライも夫の許可なく、自分の感情に任せて、彼女をいじめることはできませんでした。そこでアブラムに許可を求めたのです。そして、アブラムは、それに対して責任転嫁、責任放棄をしました。またも創世記3章で、「あなたが私のもとに置いたこの女が誘惑したので、私は食べたのです!」と、見苦しい責任転嫁をしているアダムを思い出します。サライの言うことを聞いて、ハガルで子をもうける最終決定をしたのは、アブラムです。この家では、アブラムが最高責任者なのです。彼の発言は、やはり責任転嫁、責任放棄なのです。
家族の中の罪は、いつも一番弱い人が苦しむところに出ます。現代社会もそうです。先日、ある講演を聞いていたら、一番最近の調査で、10歳から15歳の子どもを対象に、この1週間で、自傷行為(リストカット、オーバードーズを含む)をしたことがあるかとアンケートをとると、なんと17.8パーセントの子どもが「ある」と答えているのです。彼らが所属しているコミュニティー(家族や学校)の問題は、一番弱いところに出るということです。
ハガルは、サライのいじめに耐えられなくなり、逃亡しました。奴隷が逃亡する、しかも女奴隷が逃亡するというのは、よっぽどのことです。彼女は逃亡しても行くところはなく、また生きていくための手段も持っていません。逃亡=死を意味します。よっぽど壮絶ないじめが行われたのだと思います。ある本に「自己憐憫は自分のすることを正当化する」とありました。サライは、自分こそ被害者だと自己憐憫に陥っていました。そして、自分が女奴隷をいじめるのは、正当な理由があるとしたのです。自己憐憫は、簡単に人を加害者にします。私たちも自戒する必要があります。
さて、ハガルはおそらく旅支度もできないまま、身重の体で家を飛び出しました。そして、荒野をさまよい、泉のほとりを見つけ、そこで休んでいました。すいたお腹を水でごまかして、これからどうしたらいいのか、途方に暮れていたでしょう。そこに主の使いが現れました。8節「サライの女奴隷ハガル。あなたはどこから来て、どこへ行くのか。」「どこから来たのか」という問いには答えられました。「私の女主人サライのもとから逃げているのです」。けれども「どこへ行くのか」という問いには答えられません。すると、み使いは、「あなたの女主人のもとに帰りなさい。そして、彼女のもとで身を低くしなさい」と言いました。私たちを愛して、私たちのことを良く知って、答えを持っておられる善いお方、真のカウンセラーからのアドバイスでした。そのカウンセラーが言うのです。「大丈夫、あなたは生きるよ。あなたのお腹の赤ちゃんも生きるよ。そしてその子孫は数えきれないほど多くなるよ」と。そしてさらに言います。「見よ。あなたは身ごもって男の子を産もうとしている。その子をイシュマエルと名づけなさい。【主】が、あなたの苦しみを聞き入れられたから。」「イシュマエル」は「主は聞かれる」という意味です。そして、その子のたどる人生についても語ります。12節「彼は、野生のろばのような人となり、その手は、すべての人に逆らい、すべての人の手も、彼に逆らう。彼は、すべての兄弟に敵対して住む。」「すべての兄弟」、アブラムには他にも子が生まれることが、暗示されています。
彼女は、主の語りかけを聞き、信仰の告白をします。「エル・ロイ」それは、「私を見てくださる方」という意味です。「私を顧みてくださる方」という訳もできるでしょう。その御姿を見ると、人は死ぬと言われている聖いお方が、そのうしろ姿を私に現してくださった。私なんかに。代理母に過ぎない、ただの子を産む道具に過ぎない私に。彼女は、感動のあまりその場にひれ伏したことでしょう。そして主が現れてくださったその場所を「ベエル・ラハル・ロイ」と呼んだのです。「私を見られ、生きておられる方の井戸」という意味です。
彼女は、アブラムとサライのもとに帰りました。そして、それ以降は、身を低くして、サライに仕えたのです。私は、身分の低い奴隷、主人の意志によって、生きも死にもするような者。けれども、主が私を泉のほとりで見つけ出してくださった。そして、私に現れ、声をかけてくださった。私は主の前に尊い存在なのだ。私は愛されている。主は私を大切に思ってくださる。それで十分。この厳しい人生も生きていける。サライのいじめが止んだかどうかはわかりません。けれども、彼女は、自分のことを愛して、見ていてくださり、顧みてくださる主を信じ、この後は、きっと謙虚に、でも誇りをもって、自分の人生を肯定しながら、生きて行ったのではないかと思うのです。私たちも厳しい人生を歩んでいるでしょうか。けれども、私たちの真のカウンセラーは、愛のまなざしをもって、私たちを見つけてくださり、ともに歩んでくださり、私たちが求める時に、みことばによって、また聖霊の内なる語りかけをもって、手を取り道案内をしてくださるお方です。このお方について行きましょう。
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