アブラムとサライの女奴隷ハガルとの間に、イシュマエルが生まれたとき、アブラムは86歳でした。それからさらに13年が経ち、アブラムは99歳、サライも89歳になっていました。ローマ書4章19節には、こうあります。「彼は、およそ百歳になり、自分のからだがすでに死んだも同然であること、またサラの胎が死んでいることを認めても、その信仰は弱まりませんでした。」
二人の生殖能力はすでに死んだも同然、いや、サラに至っては死んでいたとあります。彼らは、おそらくハガルによってもうけた一人息子イシュマエルが跡を継ぐと思っていたことでしょう。本論とは関係ないかもしれませんが、アブラムとサラは、代理母でさらに子をもうけようという考えはもうなかったようです。ハガルの一件で、ほとほと懲りたのでしょうね。
さて、そんなアブラムに神が13年ぶりに語りかけます。1節後半「わたしは全能の神である。」 「私は全能の神」、ヘブライ語では「エルシャダイ」。私たちにとっては、よく聞く主の呼び名ですが、神さまが、この呼び名でご自身をあらわすのは、この時が初めてです。「全能の神」、その呼び名が今の彼らに必要だったからです。死んだも同然のアブラムとサライ。17節では、神さまがサライを通して子どもを与えると告げたのですが、アブラムは、その時、ひれ伏して笑いました。形はひれ伏すという敬虔な態度でしたが、内心笑っていたのです。けれども、神さまは言います。「わたしは全能の神である!」私たち人間の能力は関係ない。私たちがたとえ死んだも同然の罪深い人間であろうと関係ない。救われるに値しない、神から遠く離れてしまっているようなものでも関係ない。いや、不可能であればあるほど、人間の能力がゼロに近くなればなるほど、全能の神は力を発揮するのだというのです。サライの死んだ胎にいのちを宿すことのできる神は、死に向かい滅びるばかりの私たちを救い、新しいいのちを与えることができるお方です。
「あなたはわたしの前に歩み、全き者であれ。」この意味は、神の前を堂々と胸を張って歩めるように、道徳的に完璧でありなさいという意味ではありません。聖書で、神さまが全き者であれと言われるときは、いつも神さまとの関係において、まっすぐであるようにという意味です。神の前に誠実に生きるようにということです。神のまなざしはいつも私たちに注がれています。そういう意味で、私たちはいつも、神の前を歩んでいるのです。ですから神のまなざしの中にあることに安心し、信頼し、私たちは真心を込めて、主に従うのです。
さて、「契約のしるし」の一つは、改名でした。名前をつける、つけられるという関係は特別です。昨年、私たちには二人の孫が与えられました。北海道の息子夫婦は、生まれた男の子に「恵留(めぐる)」という名をつけました。神さまの恵みに留まるという意味です。また、アメリカにいる娘夫婦は、「礼登(れいと)」という名前です。聖書では山で礼拝をささげる場面がよく出てきます。また、詩篇121篇では、「私は山に向かって目を上げる。」と、詩人は山に向かって、主を思い礼拝しています。そこから礼登と名付けたということです。なかなかセンスの良い名前をつけるものだと、私たちは感心したものです。名前には、親の願いが込められているのは言うまでもありませんが、それ以上に、名前はアイデンティティそのものです。自分は何者かということを表しているのです。
神さまは、アブラムに、新しい名、アブラハムを与えました。そして、サライには、サラと名付けました。どちらもヘブライ語の「へー」が入っただけで、意味においては大差はないということです。ここで大事なのは、神が名を与えたということです。4節、5節を見ると、アブラハムという名は、「多くの国民の父」という意味です。サラという名も16節に「国々の母」、「もろもろの民の王たちが彼女から出てくる」とあり、「王妃、女主人」との意味を持ちます。そうして、神さまが、この地を彼らに与え、彼らの子孫をご自分の民とする、必ず祝福するとの契約のしるしとして、新しい名をお与えになったのです。ちなみにアブラハムとサラの間に生まれる子どもの名前は「イサク」です。このイサクの名前は、「彼は笑う」という意味です。もちろん、この笑いは喜びの笑いですね。
さて、もう一つの契約のしるしは「割礼」でした。「割礼(ムール)」というのは、「切り取る」「切り捨てる」という意味です。男の子が生まれると、8日目に、性器の包皮の一部を切開するというのが割礼です。ずいぶん原始的で野蛮な儀式だなと、私たち現代人は思うのですが、この割礼の儀式というのは、当時エジプトなどでは、男子が成人するときの通過儀礼として行われていたようです。また、衛生的な意味も持つようですね。神さまは、その方法をきよめて、新しい意味付けをしたと言ってもいいでしょう。その新しい意味というのは、7節、8節にあるように「わたしは、あなたの神、あなたの後の子孫の神となる」というものです。つまり、割礼を「神の民」であることの証拠としたのです。12節、13節を見ると、何もアブラハムの直系の子孫だけではなく、家で生まれたしもべも、異国人から金で買い取られた者も、この契約の範疇にあると言っています。実際、23~27節を見ると、99歳のアブラハムはもちろん、この時に13歳になっていたイシュマエルも、家のしもべも、もっと身分の低い奴隷も、外国人の奴隷でさえも、この祝福の契約の対象とされました。
この割礼が象徴していることは何でしょうか。いろいろあると思うのですが、一番大事なことは、「割礼」は、肉に記されるということです。神さまは、今までも何度も、アブラムに子孫を与えるとの約束を示してきました。ある時は、地のちりを見せて、ある時は、空の星を見せて、それを数えてみなさいと、あなたの子孫をこのように増やすと、そして祝福すると言われました。そして15章では、切り裂いた動物の間を主ご自身が通り、命がけでこの契約を守るよと、一方的な祝福の約束をくださったのです。
ところが今、神さまは「割礼を受けなさい」とおっしゃる。つまり、今度は双方向の契約を結ぼうとおっしゃられたのです。その意図は何でしょうか。一つは、恵みの約束への人間の側の応答です。神さまがどんなに私たちを祝福したいと思っていても、それを拒否、拒絶するならば、神さまは私たちを祝福することはできません。この割礼は、神さまの祝福の約束への受領証、受け取り印の意味を持ちます。
また、割礼を受けることによって、「神の民」という特別な共同体に入れられます。例えば、結婚するとき、キリスト教式の場合は、誓約を交わします。また、キリスト教でなくても、婚姻届けを出して、公的に夫婦となります。二人は結婚することによって、他の人が入って来ることができない、排他的な関係を持つことになります。もし、この二人の関係に第三者が割り込めば、この夫婦関係、家庭は、壊れるのです。私たちと神さまも、排他的な関係です。割礼によって、当時の信仰者は、「あなただけが神です」と告白しているのです。そして、同じ神を信じる者たちが、信仰の共同体を形成するのです。
そしてもう一つは、13節の終わり、「わたしの契約は、永遠の契約として、あなた方の肉に記さなければならない」とあるように、「肉に記す」ということです。肉に刻み付ける、傷跡を残すと言ってもいいでしょう。この傷は、「神の民」のしるしです。神の民は、この傷跡を見る度に、自分たちの「神の民」としてのアイデンティティを思い出すのです。自分たちは選びの民、神の特別の愛と恵みを受けた者であることを思い出すのです。そして、この傷跡は、肉に記されているので、一生消えません。紙面の契約書は、なくなったり、破り捨てられたり、忘れられたりすることもありますが、肉に刻まれた契約書は、一生有効です。破棄されることがないのです。
察しのいい方は、もうお気づきでしょう。この「割礼」は、新約聖書の時代には、「洗礼(バプテスマ)」に置き換えることができます。この「割礼」との連続性は「幼児洗礼」の根拠とされることが多いのですが、「幼児洗礼」に限らず、成人洗礼にも当てはまることです。先ほどの「割礼」が持つ3つの意味に当てはめてみましょう。
洗礼は、神さまの恵みの救いの約束への私たちの応答です。イエスさまは、十字架によって私たちに代わって、私たちの罪のさばきを受けてくださいました。私たちは、この十字架の贖いを信じて受け取ることによって救われます。洗礼は、私たちがこの救いを受け取るという決心のあらわれであり、私たちの側の応答です。
また洗礼は、神の民、神の子どもになるということです。これからは、キリストを頭とする、神の家族の一員となるということを表しています。つまり、他の神々を退け、天地万物を創られたこの神だけを愛し、kの神さまだけに仕えるということを公に表明した者たちの共同体、それが教会なのです。私たちは、教会に属することによって、目に見える神の家族を形成し、その中で、ともに励まし合い、信仰を育むのです。
そして洗礼は、肉に刻まれた消えないしるしです。私たちは、イエスさまの十字架の贖いを信じるだけで救われます。けれども、口約束だけでは、私たちの信仰を保つのが難しいときもあるのではないでしょうか。何か信仰上の困難が起こったときや、誘惑にあったとき、洗礼を受けているかいないかは、大きな違いを生みます。私は、小学校3年生の時にイエスさまを信じましたが、洗礼を受けたのは中学3年の時でした。私は、今でも、もっと早く洗礼を受ければよかったと思っています。なぜでしょうか。誘惑にあったとき、信仰の戦いの中で、「私はクリスチャンです」と言えなかったばかりに、信仰の戦いに負けてきた経験を持つからです。
「しるし」や「かたち」が軽んじられる時代です。先ほど挙げた結婚を例に挙げても、結婚する前からの同棲、結婚という形を取らない事実婚。しるしやかたちは、人を縛ると、自由がなくなると思われています。けれども実はそうではないのです。「しるし」や「かたち」は、弱い私たちを守ります。私たちがこうして今、信仰が保たれているのも、洗礼を受けたからではないでしょうか。教会生活から離れているあの人、この人。でもいつか必ず帰ってくる。そう信じられるのは、彼らが洗礼を受けているからではないでしょうか。「割礼」も「洗礼」も、神さまの恵の契約のしるしなのです。お祈りしましょう。
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