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サラに男の子が!(創世記18:1~15)


「サラに男の子が!」
創世記18:1~15

アブラハム一族は、13章で甥のロトと別れた後、ヘブロンにあるマムレの木の下に天幕を張って、生活を営んでいました。きっと大きな木で、木陰も大きく、日照りや雨風もある程度しのぐことができたと思われます。それでも、昼間は暑かったのでしょう。アブラムは、風の抜ける天幕の入り口で、座って涼んでいました。ふと気配を感じて、目を上げると、3人の人がこちらに向かって歩いてくるではありませんか。「旅のお方だろうか。こんな暑い時間に、外を歩くなんてどうしたことだろう。うちで休んでいっていただこう!」こうしてアブラハムは、3人に声をかけます。それにしても丁寧なお出迎えで驚きます。2節後半から。 

「アブラハムはそれを見るなり、彼らを迎えようと天幕の入り口から走って行き、地にひれ伏した。彼は言った。『主よ。もしもよろしければ、どうか、しもべのところを素通りなさらないでください。水を少しばかり持って来させますから、足を洗って、この木の下でお休みください。私は食べ物を少し持って参ります。それで元気をつけて、それから旅をお続けください。せっかく、しもべのところをお通りになるのですから。』」まるで頼み込むようにして、客人を迎えます。こうして、サラに頼んで、3セア(約23リットル?)の小麦粉でパン菓子を作ってもらい、牛の群れのところへ走って行き、柔らかくておいしそうな子牛を自ら選び、召し使いに渡し、急いで料理させました。また、凝乳(ヨーグルト)、牛乳、パン菓子、子牛料理を運び、彼らの前に並べ、彼らが食事をしている間、そばに立って給仕をしたというのです。

まるでどこかの国の王族の接待をしているかような丁重ぶりです。私たちはこんなおもてなしを受けたことがあるでしょうか。私は、この接待のごちそうもさることながら、アブラハムの相手に気を遣わせまいとする配慮に満ちた振る舞いに敬服します。あなたがたを私がこうしてお迎えするのは、当たり前のことなのです。私はなすべきことをしているにすぎません、という態度です。

私はそんなアブラハムを見ながら、私たちがアメリカにいた頃に出会った、神学校の職員さんのことを思い出しました。イナ・デモアさんという女性です。私たちは、子どもを3人連れてアメリカに行きました。その時長女は小学二年生、長男は幼稚園の年長さんの年齢でした。アメリカでは年長さんから義務教育に入ります。ですから長男もキンダーガーデンに入れる必要がありました。外国に住むという経験は初めてですから、右も左もわかりません。でもとりあえず入学手続きを済ませました。学校からは入学前にそろえておく物のリストが配られました。中には、これは何だろう?というものもあります。主人は神学校の留学生担当のイナさんに相談しました。すると、その方が、長女と長男のために、バックパック(学校に持っていくリュックサック)をプレゼントしてくれたのです。主人はびっくりして、「こんなことしてもらって、すみません!」と言うと、イナさんはさりげなく、「私は、そのためにいるのですよ。」とおっしゃったのです。以降アメリカ生活で、たくさんの方に親切にしていただくのですが、皆さん同じことを言われるのです。「私はそのためにいる」「わたしはあなたを助けるためにいる」と。それは親切を受ける側が受け取りやすいようにとの配慮なのです。私もまねしようと思うのですが、取ってつけたようで、なかなかうまくいきません。

アブラハムはこうして、見ず知らずの旅人をもてなしました。それは、自分たちが、旅人であり、寄留者だという背景があるでしょう。彼らは旅の際に親切にしてもらうことのありがたみを知っていました。ですから、アブラハムは、走って旅人に駆け寄り、地にひれ伏し、ご主人さまと呼び、もしよろしければ、もてなしを受け取ってくださいと頼み、最高の食材で料理をふるまい、そして自ら給仕をしたのです。まさに「自分がしてもらいたいことを他の人にもしなさい」という聖書の黄金律を実践していたのです。

アブラハムは、三人が高貴な方だと知っていて、こうしたおもてなしをしたのではないかと、私たちは思うかもしれませんが、そうではありません。へブル書13章2節にはこうあります。「旅人をもてなすことを忘れてはいけません。そうすることで、ある人たちは、知らずに御使いたちをもてなしました。」この聖句にある「ある人たち」には、間違いなくアブラハムも含まれるでしょう。彼は、行きずりの旅人を、主とは知らずにもてなしたのです。私たちの主は、私たちの日常生活の中で、そうとはわからないように現れます。マタイ25章40節「まことに、あなたがたに言います。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、それも最も小さい者たちの一人にしたことは、わたしにしたのです。」私たちは、生活の中で助けを必要とする人々を軽んじてはいけません。その人はイエス様かもしれないのです。ですから、イエスさまを迎えるように迎え、もてなし、愛と尊敬を表していくのです。

さて、アブラハムはだんだんと、この旅人たちがただ者ではないことがわかってきました。実際、三人のうち二人は天のみ使いで、一人は【主】でした。1節、13節、14節には太字の【主】と表現されています。この【主】という表記はヤハウェの神のことです。一般的には、このお方が、受肉前のイエスさまだと言われますが、実際にはわかりません。けれども、神さまが人の姿をとって現れてくださったことは間違いないでしょう。神さまとアブラハムとの関係の深さがうかがえます。 

旅人が、ごちそうを楽しくいただいて、おなかがいっぱいになった頃でしょうか。9節で、彼らは、「あなたの妻サラはどこにいますか?」と尋ねます。アブラハムは、「天幕におります。」と答えました。当時は、女性は客人のもてなしの席に着くことはできなかったのでしょう。けれども、サラは天幕の入り口で、客人とアブラハムのやり取りに聞き耳を立てていました。どう見てもただ者ではない3人の旅人、気になっていたのでしょう。すると、旅人のうちの一人が、重大なことを告げます。「わたしは来年の今ごろ、必ずあなたのところに戻ってきます。そのとき、あなたの妻サラには男の子が生まれています。」 ついこの間も、神さまは、アブラハムに子どもが与えられる、その子孫は、永代祝福されると約束しました。けれども、今回は明かに天幕で聞き耳を立てているサラに語っています。そして今回は、具体的に話されます。まず時期です。「来年の今ごろ」と言われました。そして、他の女ではない、「妻サラに与えられる」と宣言し、その子は「男の子」だとおっしゃったのです。非常に明確です。

サラは天幕の中で、思わず声を上げそうになるぐらい驚いたことでしょう。夫はこの時99歳、サラは89歳。サラには月のものがもう止まっていました。妊娠の可能性はゼロだったのです。彼女は、心の中で笑ってこう言います。「年老いてしまったこの私に何の楽しみがあるでしょう。それに主人も年寄りで。」こうして、「自分の常識」と「神の可能性」を天秤にかけ、自分の常識が勝ちました。

神さまは、私たちの心の中を見抜きます。先週は十戒の第十戒の説教でした。神さまは、十戒の最後に、神さまだけが知っている心の中の罪、「むさぼり」について注意発起しておられました。神さまは、私たちの心を100パーセントご存じです。どんなに表面を繕っても、仮面をかぶっても、何重にも覆いをかけても無駄です。神さまの前に私たちは裸なのです。

実は、サラはここで下品なことをつぶやいています。TCUの元教授で木内先生という旧約聖書学者がおられるのですが、先生は、サラの言う「楽しみ」とは、性的な楽しみのことを言っているのだとおっしゃいました。「年老いてしまったこの私に何の楽しみがあるでしょう。主人も年寄だから、私を楽しませることはできない…」そんなつぶやきなのだと。ところが、そんなサラの心のつぶやきを聞いていた神さまは言います。「なぜサラは笑って、『私は本当に子を産めるだろうか。こんなに歳をとっているのに。』というのか。」と。神さまは、言い換えています。サラの本当のつぶやきは、下品で、そのまま言葉にするなら、アブラハムを傷つけることになる。だから言い換えているのです。神さまの配慮の細かさに驚かかされます。

サラは、自分が笑ったと指摘されて、動揺します。そして慌てて打ち消すのです。「私は笑っていません!」サラは恐ろしかったのです。けれども、神さまは言い逃れをゆるしません。「いや、確かにあなたは笑った。」と言い、サラの不信仰を認めさせます。私たちの心の声はすべて神さまに聞かれている。このお方からは隠れることができない。どんなに逃げても無駄。このお方はすべてご存じなのです。詩篇139篇で詩人は告白します。「【主】よあなたは私を探り知っておられます。あなたは私の座るのも立つのも知っておられ遠くから私の思いを読み取られます。あなたは私が歩くのも伏すのも見守り私の道のすべてを知り抜いておられます。ことばが私の舌にのぼる前になんと【主】よあなたはそのすべてを知っておられます。」

私たちは、神さまの約束を信じることができなくて笑ったサラを不信仰だと責めることができるでしょうか。今日も私たちは、使徒信条で、「我らは天地の造り主、全能の父なる神を信ず」と告白しました。けれども、私たちは本気で、主は全能だと、何でもできるお方だと信じているでしょうか。現実を見て、自分の力の限界を見て、神にだってこれはどうにもならないと、笑っているのではないでしょうか。「いや、確かにあなたは笑った」…主はお見通しなのです。 

主は、サラの不信仰を知った上で言うのです。「【主】にとって不可能なことがあるだろうか。わたしは来年の今ごろ、定めた時に、あなたのところに戻ってくる。そのときに、さらには男の子が生まれている。」 人の不信仰によっても、神さまのご計画は変更されない。これが神さまの憐れみです。これが神さまのご真実です。「事は人の願いや努力によるのではなく、あわれんでくださる神によるのです。」(ローマ書9:16)「私たちが真実でなくても、キリストは常に真実である。ご自分を否むことができないからである。」(Ⅱテモテ2:13)神さまは、ご自身のご真実にかけて、約束を守られます。

信仰とは何でしょうか。信仰とは、自分の力で、神さまを信じ込もうとすることではないのです。自分は不信仰で、神さまを信じ切ることはできないけれど、主は常にご真実なお方。この方は、ご自分のご真実にかけて、必ず約束を果たしてくださる。それは、私たちの状態に寄らない。私たちの不信仰と関係なく、事を成し遂げてくださる。私たちは、その神さまに信頼するだけです。ゆだねます。そう告白することです。そして、このお方は決して私を見捨てない。このお方の愛は変わらない。このお方は、こんな私たちを通してもみわざを行ってくださるのです。祈りましょう。 

天の父なる神さま、あなたはアブラハムだけではなく、サラの信仰も取り扱ってくださいました。サラと同様、私たちも全能の神を信じないで、現実は厳しいのだと鼻で笑っているような者です。主よ、あなたの前には何も隠しおおせません。どうぞ、私たちの不信仰をおゆるしください。そしてあなたのご真実にゆだねることができますように。主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン


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