「うめきとりなす聖霊」
ローマ人への手紙8章26~27節
今日はペンテコステです。ペンテコステとは、ギリシャ語の「50」という意味で、イースターから50日目にイエスさまの弟子たちに聖霊が降り、そこから「教会」が生まれたことを記念する日です。キリスト教においては、「教会の誕生日」として、クリスマス、イースターと並んで、祝われます。使徒の働き2章にその日の出来事が書かれています。イエス・キリストの昇天後、弟子たちがエルサレムに集まって祈っていると、突然激しい風のような音が聞こえ、炎のようなものが弟子たちの頭に降ってきて、頭上に留まりました。すると、弟子たちは聖霊に満たされ、さまざまな外国語で語り始めたというのです。それまでは、聖霊が降るのは、イスラエルの預言者とか王とか、特別な人だけだったのに、この時から、イエスさまを信じるすべての人に聖霊が降り、一人ひとりの心に住んでくださるようになりました。
聖書の神さまはお一人なのですが、3つの位格(Person)があります。御父と御子(イエス・キリスト)と聖霊です。この3つの位格は、本質において同一で、力と栄光において同等のひとりの神です。特に、聖霊は誤解を受けやすく、何か幽霊やパワーのように思われたりしますが、聖霊もPerson、つまりご人格なので、父なる神さまやイエスさまと同じく、私たちは呼びかけたり、交わったりすることができます。そして、このお方は、私たちの外から働きかけてくださるだけでなく、イエスさまを信じた私たちの心の内に住まわれ、私たちの内側で働いてくださいます。そして信じる心を与え、慰めや励ましを与え、私たちが聖書を読んだり、説教を聴いたりするときに、みことばの理解を助けてくれます。ただ、このお方は、よくShy(恥ずかしがりや)だと言われるのですが、表舞台に立つことを好みません。黒子のように、イエス・キリストにスポットが当たるように動き、イエスさまが栄光を受けることを喜ばれます。また、聖霊は目には見えませんが、風のように感じることができますし、風で木の葉が揺れるように、聖霊の働きの影響を私たちは見ることができます。時にはそよ風のように私たちを慰め、時には嵐のように私たちの心をえぐり、悔い改めへと導きます。また、病を癒したり、悪霊を追い出したり、超自然的な働きをするのも聖霊です。今日は、そんな聖霊の働きの一つ。とりなしについて、聖書から学んでいきたいと思います。
ローマ人への手紙8章18節以降に3つの「うめき」が出てきます。一つ目のうめきは、22節にある被造物のうめきです。被造物(自然)はうめいています。地震や大洪水、干ばつ、砂漠の拡大や、やせた土地。動物間の弱肉強食、害虫や雑草、などが、被造物のうめきです。創世記3章にあるように、人が罪を犯したせいで、大地が呪われてしまったからです。こうして、もともとは調和していた被造物世界が、「虚無に服」するようになってしまったと、また「滅びの束縛」にとらわれてしまっていると、20節、21節に書かれています。だから、この世界は悲惨に満ちているのです。
そして二つ目が、23節にある私たち、「神の子どもたち」のうめきです。私たちはイエスさまの十字架によって贖われ、私たちへの罪のさばきは、イエスさまが代わりに負ってくださったので、私たちはもう罪に定められることはなく、罪のさばきから解き放たれ、自由にされていますが、未だ完成していません。成長の途上にあります。私たちは、なおも罪の縄目の中で、もがき苦しんでいます。23節にはこうあります。「それだけでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだが贖われることを待ち望みながら、心の中でうめいています。」私たちは、神に罪ゆるされ、神の子どもとされていますが、古い罪の性質がまだ私たちの中に残っていますから、私たちの心は、絶えず、悪に傾き、自己中心に引き込まれます。愛したくても愛することができず、良いことをしたいと思ってもそれをすることができないのです。
これらの被造物の悲惨、人間の悲惨は、非常に深刻です。先日、五十三先生が一冊の本を読みながら一つのことを分かち合ってくれました。日本語のハイデルベルグ信仰問答に見る「悲惨」ということばはドイツ語で「エーレント」というのだけれど、その意味は「out of country」、つまり、国を失った状態。居場所のない状態を表しているのだと。居場所、帰るところ、帰属しているところ、休めるところ、アイデンティティそのものを失った状態、それが悲惨だというのです。
被造物の悲惨、人間社会の悲惨に私たちはうめきます。未曽有と言われる自然災害は、もう未曽有ではなくなっている。次から次へと悲惨さが増している。しかも、次の災害が起こるまでのスパンがどんどん短くなっている。そして、自然災害だけではない、戦争による環境破壊があります。国と国とが自国ファーストを叫び、憎み合い、殺し合い、協調することがないこの世界。感染症の恐怖を私たちはコロナで味わいました。社会は、富める者がますます富み、貧しく虐げられている者は、ますますみじめになっています。差別や暴力が、この世界を覆っています。これが悲惨です。もとを正せば、これらはみな、罪から派生した悲惨なのだと聖書は語ります。
この悲惨の中で、「神の子たち」はうめくのです。自らの悲惨を嘆きながら、なお、被造物の悲惨を嘆きます。そして、とりなし祈るのです。26節には、私たちは「弱い」と書いてあります。また、「なにをどう祈ってよいかわからないのです」とあります。本当にそうです。私たちは、自分の中にある悲惨、人間社会を含む、被造物の悲惨に圧倒され、何もできない自分の弱さ、無力にさいなまれ、祈る言葉さえ見つからないのです。
けれども、もう一つの「うめき」があります。それは「聖霊のうめき」です。26節「同じように御霊も、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、何をどう祈ったらよいか分からないのですが、御霊ご自身が、ことばにならないうめきをもって、とりなしてくださるのです。」悲惨の中で、自分自身も弱さを抱え、私たちはどう祈っていいのかわからない。ともすれば、もう祈るのをやめて、この流れに身を任せてしまおうと、あきらめかけている私たちではないでしょうか。けれども、私たちの心に住む聖霊は、言われるのです。「わたしも共にうめくよ」と。「あなたの祈りにならない祈りを共に祈り、とりなすよ」と。こうして「弱い私たちを助けてくださいます」。この「助ける」という単語は、もとのギリシャ語では、「共に、代わって、引き受ける」という三つの言葉が合わさった言葉だそうです。つまり、聖霊は、弱い私たちと共にいてくださり、私たちの祈りの言葉にもならないうめきを代わって、引き受けてくださるというのです。
水野源三さんは小学校4年生のとき高い熱をだして、それが原因で体をうごかすことも話しをすることもできなくなりました。食べるときも、トイレに行く時も誰かに世話にならなければなりません。体で動かせるのは瞬きだけでした。源三さんのお母さんは「あいうえお」の五十音図を作って、一文字一文字を順に指して、源三さんが伝えたい字に来たとき、源三さんが瞬きするという方法で一字一字拾い出して文章にするようにしました。ある日、その町の教会の牧師先生が源三さんを訪問し、イエス様のことを話されました。こうして源三さんは、イエスさまを信じ、洗礼を受けクリスチャンになりました。水野源三さんはお母さんに励まされ、たくさんの詩や歌を作り、今も多くの人に読まれています。けれども、そんな優しいお母さんが、源三さんが38歳のときに、病気で召されました。源三さんは、愛し、頼りにしていたお母さんが亡くなり、悲しみの中で「主よなぜですか」という詩を作りました。
「主よなぜですか」
主よなぜですか 父につづいて 母までも み国へ召されたのですか 涙があふれて 主よ 主よと ただ呼ぶだけで つぎの言葉が 出て来ません 主よあなたも 私と一緒に 泣いてくださるのですか
聖霊は、祈れない私たちと共に、私たちの内で、私たちの痛みを代わりに引き受けてうめいてくださる。私たちの言葉にならないうめきを、同じうめきをもってとりなしてくださるのです。「とりなし」というと、神さまと私たち、両者の間に立って、取り持ち、私たちの願いと思いを伝えるというイメージですが、聖霊は違います。聖霊は、あくまで私たちのうちにおられ、神に、私たちのうめきをとどけると言うのです。
27節「人間の心を探る方は、御霊の思いが何であるかを知っておられます。なぜなら、御霊は神のみこころにしたがって、聖徒たちのためにとりなしてくださるからです。」
言うまでもなく、御父と御霊は一つ思いです。ですから、御父は御霊の思いが何であるかをよく知っておられます。御霊も御父の思い(みこころ)をご存じです。ですから、御霊は、確実に、私たちの言葉にならないうめきを、御父に届けてくださるのです。ここでの「とりなす」という言葉にも、3つの意味があるそうです。一つは、「誰かのもとに行く」、二つ目に「誰かと出会う」、そして「誰かに訴え出る」という意味です。聖霊は、うめく私たちを、御父のもとに連れて行って、出会わせてくださり、訴えてくださるということです。
今日はペンテコステです。聖霊が私たちに与えられたことを喜び祝う日です。私たちが与えられたものの大きさがよく分かりました。これからますます、被造物のうめきも、社会のうめきも、私たちのうめきも大きくなることでしょう。終わりの時が近づいているからです。あまりの悲惨に、祈りさえも出てこない、そんな日もあるでしょう。けれどもそんなときは、私たちの心で、共にうめいてくださり、とりなしてくださる聖霊を思い、あきらめないで、ますます祈り続けたいと思います。祈りましょう。
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