「七つの教会への手紙」(黙示録1:9-13)招詞:イザヤ46:3-4
はじめに
1-3節
しばらく黙示録の七つの教会への手紙を読んでいきたいと願っています。黙示録と聞いて、難解ですので少しひるんでしまう方もおられるかもしれません。しかしご安心ください。11節に「見たことを巻物に記して、七つの教会」に「送りなさい」とあることから分かるように、私たちが目を留めるのは教会に宛てられた手紙です。しかも美しい手紙です。
とは言え、これらは普通の手紙とは異なります。特に書き方が不思議です。例えば最初に目を留めるエペソ教会への手紙、その直接の送り主が2章1節に登場しますが、とても不思議な送り主です。「右手に七つの星を握る方、七つの金の燭台の間を歩く方が、こう言われる」。この書き出しはとても不思議です。こうした不思議さには理由があるのです。
黙示録が書かれたのは西暦80年代から90年代、ローマ皇帝はドミティアヌスという人で、教会への迫害が実に激しい時代でした。教会は危機の中にあったのです。しかも教会は、以前のような活気を失っていました。疲れていたのです。主イエスが再び帰ることを約束して天に昇ってから五十年が過ぎていました。あの頃の燃えるような情熱も今は下火になり、教会も信仰者たちも、迫害と忍耐の中で疲れていた。そんな教会の姿が、七つの教会への手紙には浮かび上がってきます。そんな教会を励ますために、七つの教会への手紙、そして黙示録全体が記されていくのです。しかもその中には時の権力者の裁きも告げられている。この手紙は危険な手紙なのです。権力者の目に留まれば、何が起こるか分からない。だから不思議な書き方だったのでした。分かる人だけが分かる書き方。迫害の中を耐えている信仰者が読むと分かるような、そんな暗号のような手紙です。
教会は疲れて停滞し、励ましを必要としていました。使徒ペテロも、パウロも、すでに殉教の死を遂げていた。時が流れて、今や激しい迫害の時代が訪れていたのでした。
1. 兄弟ヨハネ
十二使徒の中で唯一残っていたのはヨハネです。「良かった」と思うものの、ヨハネは齢九十を超えて、かつての気力も体力もありません。しかも迫害によって捕まった挙句、エーゲ海の島パトモスへと流されていたのでした。パトモスは岩だらけの無人島。齢九十を超えて、もはや使命も尽きたのか、そう思われる老いた使徒ヨハネです。けれども、そんなヨハネに再び主イエスの語り掛けがあるのです。終わりの時代に苦しみ悩み、停滞する教会に手紙を書き送れ、との主イエスの命令が臨んでいくのです。
宛先の七つの教会はいずれも小アジヤ、今のトルコの南西部、七つを回ると小さな円になるかのように位置していました。七通の内容は、それぞれの教会の状況を映し出す一方、よく読むと、すべての教会に当てはまる普遍的なメッセージも含まれています。おそらくは、それぞれ一教会に一通送られた後、読み終えてから隣の教会へと回覧されたものと思われます。いや、それどころか教会の数は七つ、ヨハネがよく用いる完全数ですね。ですから、これら七通は、すべての教会に向けた励ましとなって、時を超え、いつの時代にあっても戦いに耐えている教会を励ますために読み継がれることとなったのでした。この終わりの時代を耐え抜くことができるように。疲れた教会が力を得て、永遠のいのちの冠を間違いなく得ることができるようにとの願いを込めて、これらの手紙は書かれ、そして読まれてきました。
七通の手紙は送られていきます。
七つの教会は疲れを覚えていた。時代は違いますが、日本の教会とも重なってきます。私たちも終わりの時代を生きています。戦争が各地で起こり、災害は後を絶たず、感染症の恐怖にも見舞われている。そんな時代を生きる私たちの教会にも、七つの手紙はきっと何かを語り掛けてくるはずです。
9節(読む)
ヨハネの登場の仕方は印象的です。ヨハネと言えば、ペテロと同じく有名な使徒のひとり。自らを「主に愛された弟子」と名乗るほどに、イエスさまの近くを歩んだヨハネでした。別名「愛の使徒」とも呼ばれ、神の愛を語りつつ、若い教会を指導する時には「長老」とも名乗ったヨハネです。しかし、そのヨハネ、自分のことを「使徒」とも「長老」とも名乗らない。「あなたがたの兄弟」ヨハネ。まるで私たちのすぐ隣に座って語り掛けているかのようです。九十を超えて気力も衰えていたのでしょう。島流しにあって、残りの人生を数える日々だったかもしれない。そんなヨハネに残された肩書は何もなかった。ただ残ったのは、「あなたがたの兄弟ヨハネ」でした。
でも、確かにそうですね。どんな大先生も、人生の終わりには一人の兄弟あるいは姉妹として、肩書もタイトルもなくなっていく。「兄弟ヨハネ」。それがいい、と思いました。神の家族ですから、一人の兄弟として私たちの傍らに座り、人生の最後はみ言葉を共に聴く一礼拝者として終えていく。それがいい、と思ったのです。私は「大先生」ではありませんが、一応「先生」と呼ばれています。でも、最後は五十三兄弟として、礼拝者の席に座りながら地上の生涯をいつか終えるつもりです。
しかも、この兄弟ヨハネ、私たちと同じものを共有しているのです。「あなたがたとともにイエスにある苦難と御国と忍耐にあずかっている」とありました。「御国」の意味は明らかです。イエスを信じて神の子とされたものは誰も、御国、神の国の永遠のいのちを頂いているのです。私たちも御国にあずかっています。でも御国に与り、神の子どもとなると、この世の価値観との大きなギャップを味わうようになる。すると、その御国のゆえにキリスト者は苦難を味わうのです。もしかしたら迫害もあるかもしれない。それゆえ信仰者は、忍耐をもって御国の完成、永遠のいのちを待ち望むようになる。そうです。私たちも「苦難と御国と忍耐」にあずかっている。「苦難、御国、忍耐」は三つで一つのセットメニュー。でも、やっぱり、と思います。パウロ先生がかつて言っていたことを思い出したのです。「私たちは、神の国に入るために、多くの苦しみを経なければならない」。そう、苦難と御国と忍耐は、切り分けることのできない私たちの生き方で、それはヨハネも同じでした。ですから、やはり大使徒ヨハネではなく、兄弟ヨハネが相応しい。私たちの傍らにいるひとりの兄弟として、今日はヨハネを覚えたいのです。
2. 声を聴く
そのヨハネが、主の日、御霊に導かれて、ある声を聴くのです。
10-11節(読む)
その大きな声は、懐かしい響きだったかもしれません。同時に、全く初めて聞くかのような力強いラッパのようでもありました。黙示録においてラッパはしばしば、世の終わりの礼拝を導く特別な楽器です。もしかしたら世の終わりの礼拝が始まっていくのでしょうか。
11節では七つの教会の名前とともに、見たことを記して送るように、との命令が告げられます。書き記して送れ。この命令ゆえに、やはり黙示録は手紙なのです。不思議な言葉ですが、信仰者には分かる。苦難の中を耐えて歩むキリスト者の心には必ず響いていくはずの、不思議なメッセージがこの後につづられていきます。この手紙は、御霊に導かれてヨハネが聴いた、あるお方の声を書き記したものです。ですからこれは、きっと慰めの手紙でしょう。御霊に導かれて聴く、あのお方の声が、この手紙の実質の書き手なのです。もちろん、愛のムチゆえに、時には厳しい叱責もあるかもしれない。でも、それは励ましなのです。終わりの時代を最後まで忍耐して生き抜くことができるようにという、愛に裏打ちされた叱責あり、慰めありの手紙。だから私たちも、この手紙に耳を傾けていきたいのです。
3. 七つの燭台
さて、ヨハネに語り掛ける不思議な声は、後ろから語り掛けてきました。ヨハネは思わず振り向いていきます。
12節(読む)
ここにも不思議な書き方がありますね。「語りかける声を見ようとして」。普通、声を見ることはできない。それなのに、「声を見ようとした」。ヨハネには、この声の主を知っているという予感があり、その思いが溢れて、懐かしさのあまり、「声」さえ見ようと振り向いたのであったと思います。
ヨハネは御霊に「捕らえられ」、導かれて、その声を聴いた。ヨハネ福音書の14章で、ヨハネ自身が御霊、聖霊について書き記していたのを思い出します。聖霊はキリストの言葉、その教えを思い起こさせるのだ、と。ですから御霊に導かれて声を聴いたとき、ヨハネは咄嗟に思ったでしょう。「もしやイエスさまの声ではないか」と。齢九十を超えた兄弟ヨハネを励ますために、主イエスが後ろに立っているのではないか、と。
しかし、でした。振り向いてすぐそこに見えたのは七つの金の燭台だったのです。黙示録において燭台は、「教会」を意味する呼び名です。世の終わりまで光を放て、との願いゆえに、教会は「燭台」と呼ばれる。ヨハネが振り向いた時に見えたのは、七つの金の燭台、つまり七つの教会だった。ヨハネは正直、がっかりしたかもしれません。御霊に導かれて振り向いたとき、そこにはイエスさまではなく、七つの教会が見えたのですから。
けれども、ここに学ぶべきことがあるのです。終わりの時代、私たちは御霊に導かれて、しっかりと教会を見つる必要がある。苦難の中で教会が、たとえ小さくとも光を掲げているかどうか。世の誘惑に流されず清さを保っているかどうか、教会をしっかりと見守る必要がある。「小さな群れよ、恐れることはありません」とキリスト自らが励ました教会を、私たちも見つめていく必要がある。
日本の教会は、全体としては停滞し、疲れていると言われます。もちろん例外はあるでしょう。しかし、困難の中で風前の灯の教会が多くあると言われます。いやいや、日本だけではない。かつてはキリスト教世界と呼ばれたヨーロッパでも、今や教会の閉鎖が相次いでいる。ヨハネの時代も同じです。迫害の嵐の中、教会が疲れていた。その教会を見つめよ。励ましの手紙を書けと、兄弟ヨハネは命じられていくのです。
この五月に、私が二十数年以上前に学んだ米国ミシガン州の母校、カルヴィン神学校の卒業式をオンラインで見ました。今、私たちの教団から一人の牧師が学んでいて、彼も無事に卒業をしたのです。懐かしい思いでした。そして卒業式中の校長のメッセージが心に刺さりました。Love the church!(教会を愛せ)と、卒業生の一人一人に語り掛けていくのです。私はこの母校で三十台後半の時を過ごしました。あの頃は気力が漲っていて、寝る間も惜しんで学びに打ち込んだのです。あれから二十数年、私は台湾で二度の病を味わい、宣教師も辞めて、今やかつての気力も体力も残っていない。昔と比べるとずいぶんと痩せてしまった。そんな私を鼓舞するかのような語り掛けでした。Love the church! 教会を愛せよ、と。キリストが花嫁として愛した教会です。キリストが命を捨ててまで愛した教会です。その教会を愛せと。振り向きざまに七つの教会を見つめた時のヨハネの心にも、そのように刺さったのではなかったですか。そして、そのように教会を見つめた時に、あるお方の姿が、その中に浮かび上がってきたのです。
13節(読む)
「燭台(つまり)教会の真ん中に、人の子のような方が見えた」。「人の子」それは、神が人となったイエスさまの呼び名です。キリストは停滞し、疲れを覚える教会のただ中に身を置きながら、その教会を励ますようにしてともに歩んでおられたのでした。
振り向いて、燭台しか見えなかったとき、私も一瞬思いました。「主よ、あなたはどこに行ってしまったのですか」と。しかし、「わたしはここにいる」と、主は教会の中に身を置いておられた。疲れた教会を励まし、見守りながら、主は終わりの時代に教会と歩みを共にしておられる。あの砂浜に残された「足あと」の詩のように、主イエスは今も私たちとともにいる。この新船橋キリスト教会を、そして、皆さんお一人お一人に寄り添っておられる。
そのキリストが教会に向けて、語っているのです。七つの教会に向けて、そして、終わりの時代を生きる、現代の教会にも語っている。この困難な終わりの時代、小さくとも灯りを消すことなく、神の国、御国を受け継ぐことができるように御言葉を聴け、と。そんなメッセージを、皆さんとともに次回から七回にわたって味わっていきたいのです。お祈りします。
天の父よ、感謝します。時代は困難を極めています。しかし、私たちを導く聖霊、そしてともに歩むキリストを見つめながら、私たちの教会の光を掲げていくことができますように。教会のまことの牧者、キリスト・イエスのお名前によって祈ります。アーメン!
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