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7月, 2025の投稿を表示しています

初めの愛、初めの行い(創世記2:1~7)

「初めの愛から」(黙示録 2:1-7 ) 齋藤五十三師   はじめに  今回から七つの教会への手紙を一通ずつ見ていきます。本日はエペソ教会です。 1 節 a (読む)  「教会の御使い」とはどういうことでしょう。今後、あと六回繰り返されますので、最初に触れておきます。「教会の御使い」と聞いて、教会には守護天使のような御使いがいるのか、と思われる方もいるかもしれません。しかし聖書のどこを読んでも、教会に守護天使がいるとは一切書かれていないのです。しかも、それぞれの手紙の内容を読むと、これは御使い宛てではなく、やはり教会に宛てた内容です。それぞれの教会を称賛したり叱責したりしていますので、手紙はやはり教会宛てに書かれているのです。それならなぜ「教会の御使いに書き送れ」と主イエスは言われたのか。  ここで御使いの役割がどのようなものであったかを考えたいのです。聖書が記す御使いの務めとは本来、神からのメッセージを信仰者や教会に届け、神のおられる天と地上を繋いでいくことです。御使いは天使(天の使い)とも書きますね。御使いは天の地を繋いでいくのです。  そんな役割に照らせば、「教会の御使い」という書き方は、教会が天と繋げる霊的な存在でもあることを教えているのだと思います。教会は、たとえ地上にあっても天と地を繋げていく霊的な存在。  このように教会が天と地を繋げる存在であると思い出すのは大切です。時折、教会に失望した人が、「教会も所詮は人の集まり」と自嘲気味に言うことがありますね。気持ちはわかりますが、キリストのからだと呼ばれる教会は、地上にあっても天と繋がっている。私たちは教会を通して神と繋がっているのです。  さあ、そんなエペソ教会に主はどんなメッセージを語られるのでしょう。実に豊かな内容なので、今日は三つに絞っていきたいと思います。   1.      キリストの姿 第一に目を留めるのは、エペソ教会に現れたキリストの姿です。   1 節 b- 2節(読む)  キリストは、教会を意味する七つの星を握り、これまた教会を指す七つの燭台の間を歩くお方としてご自分を示します。  このキリストの姿、1章にすでに現れていました。例えば1章 13 節でキリストは、燭台の真ん...

約束の子の誕生(創世記21:1~21)

「約束の子の誕生」 創世記 21 章1~21 21章の1節から8節までは、喜びと笑いに満ちています。とうとう、アブラハムとサラとの間に子どもが生まれたからです。この子の誕生は、まさに神さまによる奇跡でした。聖書はそのことを強調しています。1節「主は約束したとおりに」、「主は告げたとおりに」、2節「神がアブラハムに告げたその時期に」。また、それが神の御力の表れであることを示すために、神さまが「来年の今ごろ」と告げたまさにその時期に生まれたこと。また、その時アブラハムは100歳だったこと(サラも90歳だったこと、)。そして、生まれた子が、主が告げたとおりに、男の子だったことを語っています。 そしてもう一つ。聖書は、このイサクの誕生は、アブラハムのためだけではない、サラのためであったことも示しています。1節では「(主は)サラのために行われた」、6節では、「神は私(サラ)に笑いをくださいました」とあるように、神さまは、サラを覚え、顧みてくださったのです。 生まれてきた子は、イサクと名付けられました。「彼は笑う」という意味です。日本で、この「笑う」という字を使ってイサクと読ませる名前を持っている男の子はいるか調べてみました。ありました!笑いを作ると書いて、「笑作(いさく)」と読ませています。 「笑い」とは言ってもいろんな種類の笑いがあります。17章ではアブラハムが笑い、18章ではサラが笑っています。どちらも不信仰から来る笑いでした。神さまが、アブラハムとサラの間に子どもを授けると約束しているのに、そんなことあるはずがない…と言って彼らは笑ったのです。けれども今回の笑いは、喜びと賛美の笑いでした! よくクリスチャンは、3 K (固い、厳しい、暗い)と言われますが、私たちクリスチャンこそ、この喜びの笑いがふさわしいのではないかと思います。私たちの教会の役員会は、よく笑います。がはは、がははと笑いながら、1時間半ぐらいが、あっという間に過ぎていきます。神さまはご真実なお方で、私たちの教会の必要をご存じで、よい計画を持っておられる、それを信じているから笑いが絶えないのだと思います。アブラハムは祝福の基と言われましたが、笑いの基でもありました。私たちクリスチャンも、家族に笑いを届け、学校や職場に笑いを届けるものでありたいですし、私たちの教会も、地域に笑いと希望を届け...

人の弱さと主のあわれみ(創世記20:1~18)

「人の弱さと主のあわれみ」 創世記20:1~18 今日の聖書の個所を読むと、あれ?これは前にも読んだかも?と思うかもしれません。そうなのです。12章で、アブラハムは、同じことをしています。飢饉のためにエジプトに逃れて、その際に、自分が殺されるのを恐れて、妻サライを妹だと偽ったので、サライはエジプトの王に召し抱えられてしまったのでした。その後、神さまはファラオの宮廷の人々に災いを下し、そのことによって、サライがアブラムの妻だと発覚し、ファラオはサライを、たくさんの贈り物とともにアブラムに返したと記されていました。すべては神さまの憐れみと守りによることでした。 さて、アブラハムたちは、今度は、ゲラルというところに寄留していました。ゲラルは、後のペリシテ人の領土です。12章のエジプトの時には、飢饉で、と理由が書いてありましたが、ここには理由がありません。けれどもアブラハムは、たくさんの家畜を持つ遊牧民ですから、定住することは難しく、天候や季節によって、あちこちに寄留するのは、決して珍しいことではありませんでした。 ところがここに来て、アブラハムはまたも、同じ失敗を繰り返しています。私たちは呆れますが、と同時に、聖書は正直だな~と思うのです。聖書は容赦なく、人間の罪と弱さをあばきます。聖書には、誰一人として完璧な人はいないのです。すべての人が罪人であり、弱さを抱えています。信仰者とて同じことです。ですから、同じ失敗を何度も繰り返すのです。翻って自らを省みてみましょう。同じ罪を繰り返しているのではないですか。誘惑に負けて罪を犯しては、「ああ、神さま、あなたの前に罪を犯しました。ゆるしてください。」と祈り、悔い改めます。そして二度と同じ失敗はしないぞと心に誓います。けれども、ほどなく、やはり同じ罪を繰り返すのです。私たちは、アブラハムの重ねての失敗を笑えないのです。 サラが異母姉妹だということ、それは本当のことでした。この手の言い訳も私たちのよくやることです。真っ赤な嘘とまでは行かなくてもピンク色の嘘?グレーゾーン?と言った感じです。サラの一番の属性は、アブラハムの妻でしょう。それを妹だと紹介するというのは、相手をだます意図があってのことです。胸に手を当てて思いめぐらすと、私たちにも心当たりがあるでしょう。また、アブラハムは、アビメレクへの言い訳として、こん...