「初めの愛から」(黙示録2:1-7)
齋藤五十三師
はじめに
今回から七つの教会への手紙を一通ずつ見ていきます。本日はエペソ教会です。
1節a(読む)
「教会の御使い」とはどういうことでしょう。今後、あと六回繰り返されますので、最初に触れておきます。「教会の御使い」と聞いて、教会には守護天使のような御使いがいるのか、と思われる方もいるかもしれません。しかし聖書のどこを読んでも、教会に守護天使がいるとは一切書かれていないのです。しかも、それぞれの手紙の内容を読むと、これは御使い宛てではなく、やはり教会に宛てた内容です。それぞれの教会を称賛したり叱責したりしていますので、手紙はやはり教会宛てに書かれているのです。それならなぜ「教会の御使いに書き送れ」と主イエスは言われたのか。
ここで御使いの役割がどのようなものであったかを考えたいのです。聖書が記す御使いの務めとは本来、神からのメッセージを信仰者や教会に届け、神のおられる天と地上を繋いでいくことです。御使いは天使(天の使い)とも書きますね。御使いは天の地を繋いでいくのです。
そんな役割に照らせば、「教会の御使い」という書き方は、教会が天と繋げる霊的な存在でもあることを教えているのだと思います。教会は、たとえ地上にあっても天と地を繋げていく霊的な存在。
このように教会が天と地を繋げる存在であると思い出すのは大切です。時折、教会に失望した人が、「教会も所詮は人の集まり」と自嘲気味に言うことがありますね。気持ちはわかりますが、キリストのからだと呼ばれる教会は、地上にあっても天と繋がっている。私たちは教会を通して神と繋がっているのです。
さあ、そんなエペソ教会に主はどんなメッセージを語られるのでしょう。実に豊かな内容なので、今日は三つに絞っていきたいと思います。
1. キリストの姿
第一に目を留めるのは、エペソ教会に現れたキリストの姿です。
1節b-2節(読む)
キリストは、教会を意味する七つの星を握り、これまた教会を指す七つの燭台の間を歩くお方としてご自分を示します。
このキリストの姿、1章にすでに現れていました。例えば1章13節でキリストは、燭台の真ん中におられるお方だったと思います。しかし、そのキリストが今度は燭台の間を歩いているのです。教会の灯りが消えかかったり、弱ったりしてはいないかと確かめながら歩き回っている。七つの星を握るというのもそうです。1章16節では、ただ「七つの星を持っていた」だけだったのが、ここではギュッと力を込めて握っていく。これから教会が突入していく戦いに備えるかのようです。戦いの中で教会が敵対者に奪われることがないように、ギュッと教会をその手に握りしめて守っていく。
七つの星を握り、七つの燭台の間を歩くキリスト。それは、教会のまことの羊飼いが誰なのかを証ししている姿です。教会のまことの羊飼い、牧者は神の子キリストである。このメッセージに私たちは、「良かった」と深い平安を得ていくだろうと思います。
この牧者は言われます。「わたしは、あなたの行い、あなたの労苦と忍耐を知っている」。「知っている」という言葉は普通のレベルではなく、より深いレベルでの理解を表す言葉です。
このキリストから「わたしは深く知っている」と言われた時、聞いた信仰者はどのように反応するでしょう。喜びや慰めとして受け取る人もいるでしょう。また隠れた罪があれば、ドキッとするかもしれない。「知っている」と言われた時の反応は、人それぞれです。主イエスから、「わたしは新船橋キリスト教会を知っている」と言われた時、私たちは喜びを感じるか、ドキッとするか。この言葉を前にすると、私たちの中にある、隠れたものが明らかになります。
エペソ教会にとって、最初は「慰め」だったはずです。なぜならエペソ教会は「真理に立ち、そのために戦う教会」でした。彼らは使徒を自称する偽者、異端を見抜いて戦う、真理に立つ教会形成をしていたのです。思い起こされるのが、使徒の働き20章29節です。エペソ教会はパウロの開拓で始まった教会ですが、教会との別れに際して、パウロは教会の長老たちに警告を残すのです。「私が去った後、凶暴な狼があなたがたの中に入り込んで来る」と。その言葉は間もなく実現し、エペソ教会は入り込んで来た偽使徒たち、教会を誤った方向に引っ張る者たちを見抜いて戦い続けて来たのです。しかもよく戦った。「わたしの名(キリストの名)のために耐え忍び、疲れ果てることもなかった」と言われるほどに。しかも戦いはまだ続いていた。今はニコライ派という、偶像を持ち込み、性的なモラルを乱す異端と、彼らは戦っていたのです。あっぱれです。よく戦っている。でも、戦っていると孤独を味わうこともあるでしょう。しかし、それらをすべて主イエスは「知っている」。あなたがたが「わたしの名」のために戦っているのも知っている。「よくやった」「グッドジョブ」との誉め言葉が聞こえてくるかのようです。
「わたしは知っている」。これが教会のまことの牧者キリストです。私たちも、どこかで戦っているのではないですか。いつ終わるとも分からぬ戦いに人知れず耐えている人もあるでしょう。職場でひとりのクリスチャン、家族で一人のクリスチャンとなれば、戦いの機会はいよいよ増えていきます。でも、そんなあなたの労苦を主は知っている。誰よりも深く知っている。それがまことの牧者キリストなのです。
2. 初めの愛
次に目を留めるのは「初めの愛から離れた」という叱責です。4節(読む)
教会のまことの牧者は叱る時には叱るお方。しかもエペソ教会に対しては実に厳しい。「初めの愛から離れた」は、「初めの愛を捨てた」とも訳すことができ、これは主イエスがパリサイ人を叱責する際にも使う実に厳しい言葉です。
「初めの愛」とありますから、かつて教会には愛があったのです。それはギリシア語の「アガペー」と呼ばれる愛。神と人を愛し仕える真っすぐな愛です。それがかつてはあった、という。そう言えば、死を覚悟で旅立つパウロを送り出す際、パウロ先生の首を抱いて涙ながらに祈った、そんなハートを持った教会でもあったと思い出します。そう、かつては神と人に信実に仕える愛があったのです。でも、それをどこかに置き忘れてしまっている。真理を守る戦いが激しくて、どこかで手放してしまったのかもしれない。ストレスの多い異端との戦いの中で邪魔になり、見切りをつけてしまったのかもしれない。それだけに心配になります。大丈夫かエペソ教会、と。
同盟基督教団の牧師で、北海道聖書学院でキリスト教の教理を教えている水草牧師という方がいます。三年前に本を出版したのですが、そのタイトルがいいのです。「神を愛するための神学講座」。「神を愛するため」と付けた理由を以前に聞いたことがあります。真理を追究し学んでばかりいると、獲得した知識ゆえに高ぶって「愛」を忘れてしまったことがある。そんな「愛」を失うリスクを自覚して、神と人を愛するために神学をしようというのが、水草牧師の志だそうです。真理に立つ中で愛を失う。もしかしたらエペソ教会には、そんな悲しいことが起こっていたのかもしれません。
でも、私は同時に思ったのです。イエスさま、少し厳しすぎやしませんか、と。この教会はあなたの御名のために、よく戦ってきた教会です。そもそも地上に完璧な教会などないのですから、ここまで戦えば立派ではないですか。それを「初めの愛を捨てた」。悔い改めないなら「燭台を取り除く」とは、厳しすぎやしないか、と。皆さんはどう思うでしょう。ここまで立派に戦える教会は、なかなかあるものではない。
しかし、キリストのからだと言われる教会にとって、「愛」は命なのです。教会には、何はなくとも「愛」を欠くことはできない。ヨハネ自身が書き留めた福音書にもありました。主イエスが十字架にかかる前夜、主は弟子たちに言われる。「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。…それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるようになる」と。教会にとって「愛」は欠くことができない。それがなければ、キリストの弟子ではなくなってしまう。そういえばパウロ先生も言っていましたね。「あらゆる奥義と知識に通じても」「愛がなければ…無に等しい」。愛のない教会、それは魂の抜けた抜け殻。愛は教会の命。でも、そこから離れた、と叱責されたエペソ教会。事態は深刻でした。このままなら「燭台を取り除く」とさえ言われるほどに。
でも望みはあるのです。ニコライ派異端を憎むエペソ教会。それと同じく、「わたしもそれを憎んでいる」と言うほどに、教会には今なお、主イエスと思いを同じくするところがあった。だから、この叱責は愛のムチなのでしょう。エペソ教会なら、この叱責も届くはず。彼らなら必ず立ち直る、と。主イエスは諦めてはいない。厳しい叱責は愛と期待の裏返しです。
日頃、TCUで大学生に接していて感じていることがあります。学生の中には、叱ることのできる学生と、叱ったら壊れてしまう学生がいるのです。成長の可能性を感じるのは、やはり叱ることのできる学生です。
教会も同じではないですか。エペソ教会は愛ゆえに叱ることのできる教会だった。しかも、厳しい叱責を受け止めていける教会だった。
私たちはどちらでしょう。私たちの教会は地域支援に汗を流し、よく仕えている教会です。でも当然のことながら完璧な教会ではない。もし初めの愛から離れるようなことがあれば、主イエスに本気で叱って頂ける、そんな教会でありたいものです。主イエスは教会の間を歩きながらいつも私たちを見つめている。新船の教会ならば、御言葉に耳を傾けるだろう、と。主イエスからそうした真剣な御言葉が届いたならば、それに真っすぐに応える教会でありたいのです。
3. 勝利を得る者
最後に「勝利を得る者」とは何者か。これについて考えたいと思います。
7節(読む)
神のパラダイスにある、「いのちの木から食べることを許す」とは素晴らしい約束です。最初の人間は罪を犯して、「いのちの木」から遠ざけられましたので、ここでは罪からの完全な回復が約束されているのです。
これだけの素晴らしい約束ですので、「勝利を得る」とはさぞ大変だろう、と思う方もあるかもしれません。しかし、どうか高すぎるハードルを思い描かないで欲しいのです。「耳のある者は、御霊が言われることを聴きなさい」とあるように、勝利の秘訣は御言葉に聴くことです。御言葉に聴いて応答するならば、私たちは勝利を得る。
ここで御言葉は、いったい何を命じているのですか。それは5節です。「悔い改めて初めの行いをしなさい」。「初めの愛から離れてしまった」者への命令は、初めの行いをすること。「愛」をなくした者には、その「愛」から流れ出る「初めの行い」を命じていく。ここに私たちはキリストの求める愛がどのようなものかを教えられていくことになります。
キリストの求める愛は、単なる感情、気持ちの問題ではないのです。キリストにある愛は、生き方、行いとして形になるのです。初めの愛を取り戻すには、初めの生き方を取り戻すことが必要です。
私にとって、それは何だろう。一つのことに思い当たりました。ハレルヤタイムで子どもたちに聖書を語ることです。私は小学校一年生の頃に教会に通い始めました。聖書の話を聴くのが大好きでした。教会学校の先生が、キリストの香りを感じさせるような人で、そのメッセージにいつも胸を躍らせて耳を傾けたのです。
そんな私の原点ゆえに、子どもたちに聖書を語ることを大事にしてきたつもりでしたが、宣教師となり、その後TCUで教え始める中、もう二十年ほど遠ざかってしまった時期がありました。でも、数年前から時折、朝のハレルヤタイムでお話をするようになったのです。最近は頻度も増え、今は礼拝後にシャーロット、ホセさん、シャイネルさんと小さな教会学校もしています。子どもたちに聖書を語ることは喜びであると、忘れていたものを取り戻しつつあります。
初めの愛と初めの行いはセットです。しかも、それは重荷とはならない。いのちの木に通じる道なのですから。それゆえ、もし失った何かがあると気づいたならば、気づく度に何度でも、それを生きることから始めていきたい。たとえ挫折があっても、何度でも聖霊の助けを頂いて初めの行いを生きていきたい。それが勝利を得る道であることを覚えた、エペソ教会への手紙の味わいでした。お祈りいたします。
天の父よ、感謝します。私たちの心を聖霊によって照らしてください。戦いの中にあっては「知っている」と慰め、また失ったものがある時には立ち返ることができますように。そのようにして真実にキリストの御言葉を受け取る、私たち、新船橋の神の家族としてください。教会のまことの牧者、キリスト・イエスのお名前によってお祈りします。アーメン。
コメント
コメントを投稿