「アドナイ・イルエ」
創世記22章1~24節
「これらの出来事の後」とは、どんな出来事でしょうか。前の章を見ると、アブラハムたちがその当時滞在していたベエル・シェバで、そのあたり一帯の領地を所有しているアビメレクと盟約を結んだ後のことです。その盟約を機に、それまで頻繁に発生していた井戸をめぐっての衝突の問題もひとまず解決し、寄留の地でありながらも、安定した生活が見込まれ、その中でアブラハムは安心してサラと共に約束の子イサクを育てることができました。
けれども、いい時は長くは続かないものです。一定の年になると、私たちはそれを経験的に知っています。ですから、状況が落ち着いていて、平穏無事なときは、主からのプレゼントとして、主に感謝しつつ、その時を楽しみたいと思います。先のことを思い煩ってせっかくのいい時を享受しないのはもったいないですね。けれども、時として主から与えられる試練も、また私たちへの愛のプレゼントであることを忘れてはいけません。「試練とは、醜い包装紙に包まれたすばらしい神からのプレゼントだ」と言った人がいます。本当にそうです。神さまの知らないところで起こる試練はありませんし、神さまの許しの中で起こる試練には、すべて神さまの「よい目的」があり、神さまは、私たちが試練にあっている間、片時も離れることなく、一緒にいてくださり、愛のまなざしを向けていてくださるからです。へブル書12章11-12節にはこうあります。「すべての訓練は、そのときは喜ばしいものではなく、かえって苦しく思われるものですが、後になると、これによって鍛えられた人々に、義という平安の実を結ばせます。ですから、弱った手と衰えた膝をまっすぐにしなさい。」
この時にアブラハムに与えられたのは、まさに神からの試練(訓練)でした。神さまは、アブラハムに「アブラハムよ」と呼びかけました。すると彼は「はい、ここにおります!」と答えました。主の呼びかけに、逃げも隠れもしないで、まっすぐに「はい、ここにおります!」と向き合うアブラハム。ここに神さまとアブラハムの親密な関係があらわれています。この22章を読む中で、皆さんも感じられたと思いますが、アブラハムは神さまに対してどこまでも従順です。以前のアブラハムなら、ここで神さまとの押し問答が繰り広げられると思うのですが、今回はそれが一切ないのです。そして、1節で神に対し「はい、ここにおります」と答え、また、7節でイサクが「お父さん」と呼びかけた時にも、原語では同じことば「はい、ここにいます」と答え、最後、いよいよアブラハムが刃物を振り上げ、それを振り下ろそうとしたときに、「アブラハム、アブラハム」と呼んだ主の声に対しても、彼は「はい、ここにおります」と答えているのです。神さまの呼びかけに、逃げも隠れもしないで、まっすぐに向き合うアブラハムの姿がここにあります。
皆さん、思い出してください。最初に人間に罪が入ったときのことを。人に罪が入ったとき、彼は神から身を隠しました。「はい、ここにいます」と神さまと正面から向き合えなくなってしまったのです。けれども、アブラハムは、神から信じられないぐらいの大きな試練を与えられたこのとき、神から目を背けませんでした。その目には涙がにじんでいたかもしれない、握りこぶしを固く握っていたかもしれない、心には葛藤が渦巻いたことでしょう。けれども彼は神から目を背けないで、「はい、ここにいます」と答えたのです。彼は、救いの源、祝福の基として召されていました。彼から神の救いと祝福の流れが始まるのです。ですから神は、その彼の負っている使命のゆえに、この試練を克服するよう彼にそれを要求したのです。
この22章には、アブラハムの心の葛藤などの心理描写は一切ありません。彼は、ただ淡々と神の命令に従いっています。イサクは神が与えられた約束の子、なぜその子をささげるように神は言われるのか。彼の中には多くの疑問、疑念があったと思うのですが、一切ここには書かれていないのです。それはどうしてでしょうか。それは、神のみことばには従うものだと知っていたからです。彼は神に従うと決めていました。私たちは、神さまのみことばの前に、いつも迷います。そして納得したらしたら従う。納得できなければ拒絶するのです。それは、まるで自分に選択権があるかのようです。しかし、アブラハムには、「神のみことばには従う」の一択しかありませんでした。ですから、彼は、翌朝早く、ロバに鞍をつけ、モリヤの地へと旅立ったのです。私たちはどうでしょうか。みことばで「ゆるしなさい」と示される。私たちは、そのみことばに従うかどうか、迷うのではないでしょうか。そして納得できなければ、聞かなかったことにし、拒絶し、神の御顔を避けるように、隠れるのではないでしょうか。けれども、私たちは、みことばに対しては「従う」の一択しかないと、認識しなおすべきかもしれません。従うことを決めて、みことばを聞くのです。そして、淡々とみことばを実行していく。アブラハムの姿から、そんな信仰者のあるべき姿を見るのです。
さて、この聖書箇所で扱っているもう一つのことは、「いのちは神のもの」ということです。アブラハムはこれまで聖書に記されているだけで2度も、自分で自分のいのちを守ろうとしてきました。エジプトに寄留した時とネゲブのアビメレクの領地に寄留した時です。彼はサラを妹だと偽り、自分のいのちを守ろうとしたのです。けれども、人は、自分で自分のいのちを守ろうとするとき、罠にかかります。イエスさまはおっしゃいました。「自分のいのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者は、それを救うのです。」(ルカ9:24) いのちは主のものです。またこうも言っています。マタイ6:27「あなたがたのうちだれが、心配したからといって、少しでも自分のいのちを延ばすことができるでしょうか。」 人間が罪を犯してから、「死」が人をおびやかし、支配するようになりました。人は死から逃れるために、あらゆる努力をしますが、死に抗うことはできません。私たちはやがては死ぬのです。けれども私たち神の子どもたちのいのちは、主の御手にあります。主は、ご自分の選んだイスラエルに向かって言います。申命記32:10「主は荒野の地で、荒涼とした荒れ地で彼を見つけ、これを抱き、世話をし、ご自分の瞳のように守られた。」 体の中で瞳ほど守られている部位はあるでしょうか。何かが目の前に飛んで来れば、とっさに瞼は閉じられ、手で顔を覆います。埃のような小さな異物が目に入っても、涙でこれを流そうとします。神はそのように私たちを日々守ってくださっているのです。
神さまはアブラハムに、愛する息子イサクを「全焼のささげものとして献げなさい」と命じました。ここでアブラハムに与えられているチャレンジは、すべてのいのちは神のものであるから、自分のいのちもイサクのいのちも、主に献げなさいということです。神の御手にお任せしなさい。自分で固く抱きしめるのではなく、神の膝の上に、「お願いします」と置きなさいということです。私たちは、この聖書の個所を読むたびに、神はどうしてこんなことを要求なさるのか、神は横暴だ、ひど過ぎると思うことでしょう。そして、こんなチャレンジは、信仰の父アブラハムだから乗り越えられることで、私たちには、ここまでの従順は要求されないだろう、と思うのです。けれども、今回この聖書箇所を準備しながら、私は思ったのです。神さまは、私たちにも自分と愛する者のいのちを神さまにささげることを求めておられると。いのちは神さまのものです。自分で必死に守ろうとしても決して守ることはできないのです。けれども、私たちを愛し、瞳のように私たちのいのちを守られるお方にお任せすれば、安心です。神の銀行に私たちのいのちを預金するのが一番安心だということです。へブル人への手紙11章では、この時のアブラハムの信仰が解説されています。ヘブル11:17-19「信仰によって、アブラハムは試みを受けたときにイサクを献げました。約束を受けていた彼が、自分のただひとりの子を献げようとしたのです。神はアブラハムに『イサクにあって、あなたの子孫が起こされる』と言われましたが、彼は、神には人を死者の中からよみがえらせることもできると考えました。それで彼は、比喩的に言えば、イサクを死者の中から取り戻したのです。」アブラハム信仰は、「神には人を死者の中からよみがえらせることもできる」という信仰でした。いのちは神のものだという信仰をアブラハムは持っていたのです。
最後にもう一つ大事なポイントをお話しましょう。神さまは、2節で「あなたの子、あなたが愛しているひとり子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。そして、わたしがあなたに告げる一つの山の上で、彼を全焼のささげ物として献げなさい。」とおっしゃいました。このモリヤの地というのは、のちのエルサレムだと言われています。また「あなたの子、あなたが愛しているひとり子」、この言葉を見ると、イエス・キリストが彷彿とされないでしょうか。神のひとり子、「あなたはわたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ」と言われた父なる神とアブラハムがここで重ねられているのです。神は、その愛するひとり子を全焼のささげ物としてささげました。「全焼のささげ物」は罪の贖いのためのささげ物です。イエスさまは、十字架で私たちの罪の身代わりに罰を受け、死んでくださったのです。そのイエスさまとイサクとも重なります。7節、8節の父と子のやり取りに私たちは心を痛めます。「『お父さん。』彼は『何だ。わが子よ』と答えた。イサクは尋ねた。『火と薪はありますが、全焼のささげ物にする羊は、どこにいるのですか。』アブラハムは答えた。『わが子よ、神ご自身が、全焼のささげ物の羊を備えてくださるのだ。』」そしてイサクは、十分抵抗する力を持つ年齢になっていたと思われますが、黙って、薪の敷かれた祭壇に横たわり、父アブラハムに縛られるのに任せたのです。イエス・キリストも、なんとしても人を救いたいという父なる神さまの愛と同じ愛を持ち、自ら進んで十字架の道を歩まれ、十字架につけられ、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と父に手を下されることの痛みを叫び、群衆から「お前が神の子なら、そこから降りてこい!自分で自分を救え!」と罵声を浴びながら、それでも、その祭壇の上で、静かに身を横たえ、父のさばきを受け、血を流し、私たちの罪を贖うため、十字架の死をとげたのです。
アブラハムは、やがて神が人を救うために用意しておられる救いのご計画の一端を見ました。ひとり子を犠牲にする父の痛みを彼は身をもって体験したのです。
「アドナイ・イルエ」とは「主の山には備えがある」と訳されていますが、直訳すると「神は見られる」という意味です。これを神学用語で「摂理」と言います。私たちは、罪と悲惨の満ちる世界に住んでいますから、試練に遭うことは避けられません。けれども、神さまは私たちの傍らで、私たちを見ています。そして、神の子どもたちの試練には、必ず、神さまの善い目的とご計画あるのです。ですから、試練の中でも恐れなくてもいい。いのちは神さまのもの。主にお任せすればいいのです。そして、淡々とみことばに従うものでありたいと思うのです。
最後に『ハイデルベルク信仰問答』の問26の答えの部分を読みましょう。
「わたしはこの方により頼んでいますので、この方が体と魂に必要なものすべてをわたしに備えてくださること、また、たとえこの涙の谷間へいかなる災いを下されたとしても、それらをわたしのために益としてくださることを、信じて疑わないのです。なぜなら、この方は、全能の神としてそのことがおできになるばかりか、真実な父としてそれを望んでもおられるからです。」
(『ハイデルベルク信仰問答』吉田隆訳、新教出版社、1999年)
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