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10月, 2025の投稿を表示しています

私は主をほめたたえよう(創世記29:31~30:24)

「私は主をほめたたえる」 創世記 29 章 31 ~ 30 章 24 節 創世記をずっと学んでいますが、今日の個所は、思わず目を覆いたくなるようなストーリーが展開されています。二人の姉妹が一人の夫に嫁ぎ、一人は愛され、一人は嫌われ…。ところが嫌われている妻が次々と子を産み、愛されている妻には一向に子どもが与えられない。渦巻く嫉妬の嵐と駆け引き、もはや修羅場と言ってもいいような悲惨な状況です。日本の昼ドラでもこれほどの愛憎劇は見られないでしょう。 彼らはどこでボタンを掛け違えてしまったのでしょうか。それはやはり、ヤコブが姉妹二人を娶ったこと、その決断をしたことに問題があったと思うのです。ヤコブは、ラケルと結婚したくて、7年ものきつい労働に耐えたのですが、結婚初夜に寝室に送られてきたのは、姉のレアでした。翌朝、レアとラケルの父ラバンに騙されたと知ったヤコブは、ラバンに抗議するのですが、ラバンは、しれっと「姉より妹を先に嫁がせることはしないのだ。ラケルもほしければ、さらに7年働くように」と言うのです。ヤコブは、ラケルをあきらめきれず、その 残酷な 提案を飲むのです。誰に対して残酷なのでしょう。レアに対して、そしてラケルに対してです。そしてその結果が、今日見るこの家庭の修羅場です。 ヤコブはどうすればよかったのでしょうか。私は、彼はラケルをあきらめるべきだったと思います。そして、レアだけと結婚し、7年でハランを引き上げ、故郷に帰るべきだったのです。アブラハムへの祝福の契約は、サラを通して、その子イサクに引き継がれ、イサクとリベカによって、ヤコブに引き継がれました。今、神はレアを選んで、レアを通して祝福を継承しようとしているのだと、ヤコブは悟り、自分の好みではなかったとしてもレアとの結婚生活を大切に育めばよかったのです。そもそもヤコブはなぜラケルに固執したのでしょうか。ラケルが美しかった、それだけです。それだけとは言っても、男性にとっては重大なことなのでしょう。一般的に言われるのは、女性は好きという感情がない相手でも、誠実で尊敬できる相手であれば、結婚の対象として考えられるのですが、男性は、女性としての魅力が感じられないと結婚は考えられないのだそうです。けれども、そもそも結婚は、自分が幸せになるためにするのでしょうか。そうではなく、相手を幸せにするために結婚す...

神の義が示された(ローマ人への手紙3:21~26)

「神の義が示された」 (ローマ 3:21-26 ) 齋藤五十三 26 節(読む)  宗教改革者ルターは、この 26 節に聖書の核心があるのだと言いました。「イエスを信じる者を義と認める」とありますが、これが有名な信仰義認の教えです。これは、この教えにより教会が立ちもすれば倒れもする、と言われた教えです。ルター曰く、教会の存在が、この教えに掛かっているというのです。  信仰義認とはどのような教えでしたか。それはイエス・キリストを信じる信仰により、私たちの内実が罪人であっても、キリストの義の衣で私たちが覆われていく。それゆえ、私たちの罪が赦されて、神に受け入れられていくという教えです。使徒パウロは、この大切な教えが、今この時に、明らかにされた、と 26 節で宣言します。神の特別な時の訪れを告げるメッセージとして、パウロは感動しながら語っているのです。   1.     「しかし今や」  この感動は、 21-22 節からすでに始まっていました。(読む)  「しかし今や」。これは新しい時代の到来を告げる言葉です。それは「神の義」が示されているからなのだと、パウロはやや興奮気味に語っています。この感動に私たちが共感するには、「これまで」の時代がどのようであったのかを知っておく必要があるでしょう。新しい時代は、「神の義」が示されるのとともに始まりました。それでは、これまでの古い時代を表す言葉は何であったのか。それは「神の怒り」です。ローマ1章18節にこうあります。「というのは、不義によって真理を阻んでいる人々のあらゆる不敬虔と不義に対して、神の怒りが天から啓示されているからです」。「人々の不敬虔と不義」すなわち人間の罪深さに、神は怒っておられる。それが、これまでの時代を象徴するメッセージでした。確かに、世を見渡せばそこには目を覆いたくなる罪の現実がありました。しかし、それらの罪や不敬虔は裁かれることなく、まるで放置されているかのように見えたのです。なぜ、罪は裁かれないのか。神は人の悪を放置しているのか。信仰者なら誰もが抱く疑問です。神は何をしておられるのだろう。 神は放置していたわけではありません。神は忍耐していたのです。 25 節の後半にあります。「神は、忍耐をもって、これまで犯されてきた罪を見逃してこ...

騙されたヤコブ(創世記29:1~30)

「騙されたヤコブ」 創世記29:1~30 兄エサウと父イサクを騙して、長子の権利と祝福を奪い取ったヤコブは、母方の親戚のいるハランへ、お嫁さん探しの旅に出ます。後悔と不安でいっぱいの孤独な旅でしたが、主からの語りかけを受けて、ヤコブは励まされ、長い旅路を続けたのでした。そしてとうとう目的地ハランに着き、そこで、一つの井戸を見つけました。そこには三つの羊の群れが伏していました。どうやら、この地方では、近隣の羊飼いたちがそろったところで、井戸の重い石のふたを何人かで開けて、羊たちに水をやるという習慣があったようです。ヤコブは、そこにいた羊飼いたちに質問します。「兄弟たちよ、あなたがたはどこの方ですか」、彼らは答えます。「私たちはハランの者です」、ヤコブ「あなたがたは、ナホルのラバンをご存じですか?」「よく知っています。ほら、ラバンの娘、ラケルがやってきますよ。」ヤコブが彼らが指さす方を見ると、そこには、美しい女性がいました。ヤコブの目はラケルに釘付けになりました。おそらくひとめぼれです。運命の人と出会った!そんな確信があったのかもしれません。ヤコブは、彼女と二人きりになろうと思い、人払いのために、そこにいた羊飼いたちに言うのです。「まだ日は高いし、もう一度野原に持って、羊たちに草を食べさせたらいいでしょう」。ところが、羊飼いたちは、「それはできません」と断ります。羊飼いたちからしたら、よそから来た旅の者が、いったい何を言ってるんだと思ったことでしょう。そうこうしているうちにラケルが到着しました。するとヤコブは、どこから出てきたパワーなのか、大きな重い石の井戸のふたを、一人で転がし、順番もあったでしょうに、それを無視して、ラケルの連れている羊の群れに水を飲ませたのです。そして羊たちに水を飲ませ終わるやいなや、いきなりラケルに口づけして声をあげて泣き出しました。そして、(順序は逆だと思うのですが)自分の素性を明かします。自分はあなたのお父さんラバンの妹の子であることを告げました。するとラケルはすぐに家に走って行って、父にそのことを告げました。すると、ラバンも驚いて、やはり走って井戸のところまでやってきました。そして、ラバンはヤコブを抱きしめて口づけし、自分の家に連れて帰り、「あなたは本当に私の骨肉だ」と言って彼を歓迎したのでした。 さて、ヤコブがラバンの家で1か...

収穫のための働き手(マタイの福音書9:35~38)

「収穫のための働き手」(マタイ 9:35-38 )   天の父なる神さま、神の言葉に聴くひと時、どうか聖霊によって私たちの心を照らしてください。御言葉のうちに、生けるキリストに出会うことができますように。救い主、キリスト・イエスのお名前によってお祈りします。アーメン。   1.     収穫は多いのだろうか   37 節「そこでイエスは弟子たちに言われた。「収穫は多いが、働き手が少ない」。  これを聞いて日本の多くのクリスチャンが思うこと、それは「本当に収穫は多いのだろうか」という疑問だろうと思います。(働き手が少ないのはもっともとしても)「本当に収穫は多いのか」と。私たちはこれをなかなか実感できないのです。 ここで言う「収穫」とは、人々の魂を神の国に迎えていく、神の国の収穫です。「救われる人」と言い換えることもできるでしょうか。でも、そう聞くと思わず、「本当だろうか」と思ってしまう。日本のキリスト教会においては、そうした「収穫が多い」実感を得られないでいる人が大半なのではないかと思うのです。  「本当に収穫は多いのか」。しかしこれは、私たちが実感できる収穫では必ずしもないのです。 38 節には、「収穫の主、ご自身の収穫」つまり、神ご自身の収穫であると言われていますね。ですからここで言う「収穫」は、主ご自身がご覧になっている収穫の広がりのことなのです。神の目で見れば、収穫は確かに多い。そして、それをイエス・キリストご自身も実感して、このように口にされたのでした。「収穫は多いが、働き手が少ない」と。   2.     イエスの心で見る  確かに、イエスさまの心で世を見渡せば、多くの収穫が見えてくるのです。世の中には、神の国の福音を必要とし、そのために備えられている人々が実に多くいるのです。  マタイ9章を最初から読むと、そこにはまさに多くの人々が導かれる「収穫」が描かれています。もう、次から次へ、という感じです。たとえば、2節に登場する「中風で床に寝かせたまま」運ばれてきた人がいましたね。その病人に主は、「あなたの罪は赦された」と宣言していく。それから9節には、人生の目的を持てず、収税所に座っているマタイ本人が出てくるのです。そのマタ...