「いのちの冠を与える」(黙示録2:8-11)
はじめに
久しぶりに「七つの教会への手紙」シリーズです。
復活の主イエス・キリストは、終わりの時代に小アジア(今のトルコ)にある七つの教会に手紙を送ります。それは、それぞれの困難の中にある教会を励まし支える手紙でした。今朝は小アジアの第二の都市、スミルナの教会に語り掛ける主の御声に耳を傾けます。お祈りします。
1. キリストの姿
8節(読む)
スミルナは大都市エペソに次ぐ、小アジア第二の都市でした。エーゲ海に臨む港町で、その美しさゆえに「アジアの美」と呼ばれたとも言われます。エペソに次ぐ第二の都市、港町のスミルナ。日本で言えば、東京と横浜の関係か、と思いきや失礼しました。我らが船橋も港町でしたね。スミルナは、小アジアの「船橋」(横浜ではなく)。そしてスミルナの小さな教会は、私たち新船橋キリスト教会。今朝はそのようにイメージを重ねつつ手紙を味わいたいのです
スミルナの教会に、主はどのような現れ方をしたのでしょう。黙示録では、主イエスの現れ方自体がメッセージです。それは「初めてあり終わりである方」。「歴史の初め」と「終わり」に立つキリストでした。つまり時の支配者は「わたし」である、というメッセージです。歴史に起こることは、すべて「わたしの手」の中にある。
しかも、この大きなキリストは、「死んでよみがえられた方」でもあったのです。つまり十字架と復活です。十字架に死んだけれど、三日後に死に打ち勝った復活の主。何と大きなお方でしょうか。でも、なぜスミルナの教会には、そのような大きな姿をもって語り掛けていくのか。「どうして」初めであり終わりであるキリストか。今朝は、この問いを握りながら手紙を味わいたいのです。
初めにして終わり。ご自分の姿を示したキリストは、「知っている」というお決まりの言葉で語り掛けます。9節
キリストは知っていました。教会の直面する「苦難」「貧しさ」「ののしり」を「わたしは知っている」。キリストに知られることは慰めですが、その内容は普通ではありません。他の手紙では、「知っている」という中に、「よくやった」と称賛するような良いことが含まれています。でも、スミルナの場合、苦難、貧しさ、ののしり。良いことは一つもない。本当に苦しいスミルナの教会です。その苦しさを「知っている」。「初めにして終わりである」主キリストは語り掛けているのです。
スミルナは、エーゲ海に臨む「アジアの美」と呼ばれた港町です。実を言えば、その美しさは、キリスト教に敵対する宗教、文化に彩られた「つらい美」でもありました。スミルナは、偶像の神々が溢れる町で、しかも、やっかいなのは、ローマ帝国に忠実だった。町には皇帝カイザルを拝む皇帝崇拝の座が据えられていました。キリスト者は皇帝を拝んだりはしません。そのためキリスト者は、いつも迫害に晒されていたのです。
歴史の記録が残っています。この黙示録を書いた、使徒ヨハネの弟子でポリュカルポスという人がいます。彼は、スミルナ教会の監督(牧師)でしたが、紀元155年2月に火あぶりで殉教の死を遂げるのです。この黙示録が書かれてから七、八十年後のことです。ポリュカルポスは86歳でした。高齢で、人徳のある人だったのでしょう。処刑する側も彼を案じて、信仰を捨てるように勧めたらしい。「キリストを捨てれば、命は助かるから」と。ポリュカルポスは拒否します。キッパリと、「八十六年間、主は私を救い、私に良くしてくださいました。そのお方をどうして捨てられるでしょう」。そう言って、燃える火の中で殉教の死を遂げたそうです。
そんな迫害の数々に加え、外からは「ののしり」の声が教会を圧迫しました。ユダヤ人たちの誹謗、中傷です。この頃のユダヤ人は、ローマ帝国との付き合い方が上手で、彼らには特権が与えられていたのです。ユダヤ人は、皇帝崇拝を免除された。皇帝を拝まなくても良い、と。最初の頃は、キリスト教会にユダヤ人が多くいましたので、教会=「ユダヤ人」だと、皇帝崇拝を免除されていたのです。しかし、キリストを信じないユダヤ人たちはそれを良しとしない。そして訴えたのです。「キリスト者は、私たちとは違う。彼らは異端だ。皇帝崇拝を免除しないで欲しい」と。これが「ののしり」の中身です。実は、そう言うユダヤ人こそが、聖書の証しするキリストを信じないという誤りに陥っているにもかかわらず、彼らはののしり続ける。「キリスト教は異端」であると。
その結果は悲惨でした。ローマ帝国はキリスト者をまるで犯罪者であるかのように扱います。そのため、多くのキリスト者が仕事を失い、生活に困窮したのです。それが「貧しさ」の正体でした。この時代は、キリストを信じる信仰のゆえに、多くを失う時代だったのです。
でも、こうした苦難、貧しさ、ののしりは、実は今の時代もあるのです。以前、東京基督教大学に、イスラムの国から留学生を迎えたことがありました。自分が留学することで、本国の家族が迫害されるリスクを負っての来日でした。聖書を学びたいという思いを抑えきれなかった。命がけの留学でした。その覚悟に、「迫害は今もあるのだ」と、目を覚まされる思いがしたのです。
パウロも手紙に書いていましたね。「キリスト・イエスにあって敬虔に生きようと願う者はみな、迫害を受けます」。聖書は、信仰者に Easy Life、バラ色の生活を約束してはいない。信仰を持つと戦いがある。そのため、ある人はこう思うかもしれません。「信仰を持たない方がよっぽど気楽で幸せだ」と。どうでしょう。信仰を持たない方が、人生は楽なのか。でも、皆さんはご存じだと思います。そもそも、楽な人生を生きている人など、実は一人もいない。「生きる」ということは、そもそも険しい道のりを行くことなのです。
そんな人生の厳しさ、難しさを思う時、この方の声は慰めです。「わたしは、あなたの苦難と貧しさを知っている」。これが信仰者の特権です。誰もが厳しい人生を生きている。そんな中、キリストだけが、私たちの苦難と貧しさを知っていてくださる。主キリストに、私たちは知られている。これが私たち信仰者の特権なのです。
しかもこのお方、私たちの努力する姿を知っているのです。苦しく、貧しいスミルナ教会に、主は語り掛けます。実は、「あなたは富んでいる」。スミルナの教会は実際に貧しかったのでしょう。外からは、ののしる声ばかりが聞こえてくる。しかし、主イエスは称賛するのです。「あなたの生き方は、神の前に豊かだ。あなたは、実は恵みに富んでいる」。そう、主イエスは、真実に歩む本当の私たちを知っているのです。スミルナ教会を異端とののしるユダヤ人たち。「自分たちは神の民」と誇る彼らこそが、実は偽物で、サタンの会衆だった。主イエスは知っている。たとえ誰もほめてくれなくとも、主だけが知っている。あなたの労苦と真実を、主イエスは知ってエールを送っているのです。
3.死に至るまで
しかし、信仰の道は何と厳しいのか。迫害を受けるこの貧しい教会に、さらに大きな嵐が襲い掛かろうとしていました。 10節(読む)
「恐れることはない」。このように言うのは、そこに現実の恐れがあったからです。止むことのない迫害と貧しさの中、「この後、いったい何が起こるのか」との恐れがあった。案の定、悪魔の試みで、誰かが牢に投げ込まれると言う。当然、命を失うことになるのでしょう。そこで主は励ますのです。「死に至るまで忠実でありなさい」と。これは、驚くべき励ましです。私は三十年以上、礼拝で語ってきましたが、「死に至るまで」とは、これまで一度も語ったことがない。これは、平和で迫害のない日本に暮らす私たちにとっては「厳しすぎる励まし」でしょう。そう、厳しすぎる。でも、もし迫害が身の回りの日常であったなら、事情はかなり違ってくるのです。
以前、北朝鮮で信仰を守り続けるクリスチャンたちの祈りの課題を聞いたことがあります。北朝鮮には少数ながら、迫害に耐えて信仰を守り続けるクリスチャンたちがいます。彼らの祈祷課題は、何だったと思いますか。「迫害が早く終わるように」という祈りの課題かと思いきや、そうではなかったのです。「最後まで信仰を全うできるように」。信仰を捨てることなく、最後まで全うできるよう祈って欲しい。キリストの励ましは、そんな忍耐の中にある信仰者たちへの励ましだったと私は信じます。それにしても、何と厳しいことでしょう。何と苦しいことでしょう。
だからこそ、8節でキリストは「初めであり終わりである者」としてご自分を示したのでした。たとえ迫害の嵐が吹き荒れても、主権は「わたしの手の中」に。「初めにして終わりのお方」が私たちの主である。主はここに、大きな視点の転換を求めています。コロンブスの卵です。視点を変え、違う世界を見つめるように促しているのです。
イエス・キリストは「初めにして終わり」。実は、勝ち誇っているかに見える悪魔でさえ、主イエスの御手の支配の中にある。悪魔は教会を苦しめれば、彼らが信仰を捨てると思っていた。でも、それを超えたところでキリストが教会を守っていました。「わたしがあなたを守っている。だから、死に至るまで忠実でありなさい」と。主は「初めにして終わり」。だから、苦難も十日間。初めから終わりが見えているのです。苦しみは、実はつかの間に過ぎない。
苦しみはある。しかしつかの間のこと。視点を変えるのです。目の前の現実の苦しみではなく、初めにして終わりのお方、主キリストを見上げるのです。すると、キリストの手のひらには何が見えますか。そこには「十字架の釘あと」が見える。この方は、自分だけ安全地帯にいて私たちを励ましていたのではない。このお方は、自ら十字架に死んだ方、そして死に打ち勝ったお方。「初めにして終わり」。このお方は、私たちのために「いのちの冠」を用意して待っているのです。
恐れるべきは、いつかは終わる、この世の限りある命を失うことではないのです。最も恐れるべきは、永遠の命、「いのちの冠」を受けられなくなること。福音書にあるイエスさまの言葉を思い出します。「からだを殺しても、たましいを殺せない者たちを恐れてはいけません」。視点の転換です。目の前の苦しみではなく、永遠に続く希望を見つめるのです。「初めにして終わりである」キリストを信じるとは、実にそういうことなのです。
昨年、私の両親の健康が不安定になり、死が身近と思われた時期がありました。両親は、死について、お墓について、そしてその先の事についても真剣に考えるようになった。それが今年初め、一月の洗礼に繋がっていったのです。哲学の世界ではメメントモリ、ラテン語で「汝ら死を忘れるな」とよく言います。私たちの人生は、いつかは終わりを迎える。人は一度、必ず死にます。「死」は、実は身近な話題です。でもそれを私たちはすぐに忘れてしまう。
私が大学生だった1988年、ある人の印象深い「死」がありました。当時、フジテレビの看板キャスターだった、山川千秋さんという男性です。山川さんは東京大学卒業後、若い頃にフルブライトの留学生として、アメリカの大学院でジャーナリズムを研究した、国際派のキャスターでした。その山川さんのニュースの声がかすれるようになった。おかしいと検査を受けたら食道がん。すでに末期で手遅れでした。当時55歳。闘病は180日間に及び、クリスチャンだった奥様きよ子夫人を通して山川さんは信仰に導かれます。そして、「死は終わりではない」との言葉を残して、天国に旅立っていったのでした。闘病の記録が、文芸春秋社から出版されています。タイトルは『死は「終り」ではない』。これこそは、「初めにして終わりである」キリストのメッセージです。11節(読む)
「耳のある者」とありますね。巷には、いろんな声が溢れています。世の声に惑わされると、私たちはいつしか、「この世の幸せがすべて」と思い込んでしまう。
しかし、聴くべきは「初めにして終わりの方」キリストの声です。人は誰でも一度は死ぬ。大切なのは、一度目の死のあとに「いのちの冠」を受けること。そうすれば「第二の死」、すなわち永遠の死によって害を受けることはないのです。いのちの冠は、第一の死の向こう、「初めにして終わり」、キリストの手の中にある。それゆえに「死に至るまで忠実であれ」。この言葉を心に留めたいと願った、この朝の御言葉のひとときでした。お祈りします。
天の父よ、感謝します。聖霊によって私たちの目を開き、永遠の希望を見つめて歩ませてください。初めにして終わり、時の支配者、キリスト・イエスのお名前によってお祈りします。アーメン。
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