「平和の君」(イザヤ9章6節)
6節「ひとりのみどりごが私たちのために生まれる。 ひとりの男の子が私たちに与えられる。
主権はその肩にあり、その名は『不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君』と呼ばれる」。
1. 戦争の時代
これは、暗闇に差し込む一筋の光として語られた神の言葉です。少し前に遡った節には、「闇の中を歩んでいた民は大きな光を見る」と約束されていますね。この背景には戦争があったのです。すぐ前の5節には、「戦場で履いた履物」や「血にまみれた衣服」が出てくることからも、お分かりいただけると思います。このメッセージは戦争の時代に語られたのです。
時代は紀元前8世紀のイスラエルです。長い戦争の挙句、アッシリアという大国の圧迫に苦しみ、人々は涙と嘆きの日々を過ごしていました。そのような時には、いつも子どもたちや女性、お年寄り等、弱い立場の人たちが犠牲となっていくのです。今の世界も「戦争の時代」になったと言われています。ウクライナで、イスラエルのガザで、多くの人々が苦しみ喘いでいます。ウクライナでは、もう100万人以上の死傷者が出たそうです。ガザでは17万の死傷者があり、何とその七割が子どもと女性。いったいいつまで続くのでしょう。 昔も今も、戦争は悲劇を生み、暗闇をもたらす。お読みした聖書の言葉の背後にも、そんな暗い闇があったのです。
2. 神の助けを待つ人々
そうした時代の中、信仰者たちは祈り続けていました。神さま、どうか私たちを救ってください。争いが終わり、闇を光が照らし、平和な時代がくるように。信仰者たちは祈り続けていた。そんな祈りに応えて、神の言葉を伝える預言者イザヤが、6節を語ったのです。
6節(読む)
これは不思議な言葉です。戦争と敵の圧迫を終わらせ、闇の中に光を灯すために、ひとりの男の子が生まれる、というのです。主権がその肩にあると言いますから、この子は、やがて王座に就く王子さまでしょうか。しかし、それにしても不思議な言葉なので、これを聞いた時、誰もこの意味が分からなかったと思います。
その男の子は「不思議な助言者」と言われます。知恵があるのです。小さな男の子なのに、世のどんな知恵者も及ばない、深い知恵を語るのです。知恵だけではありません。力ある神とも言われます。男の子が神であるとはいったいどういうことか。しかもその子は、永遠の「父」。頼りになる父として、彼を信じる人々を守る、大きな温かいお方なのです。そして、クライマックスはこの呼び名です。平和の君、英語ではプリンスオブピース。平和をもたらす王子さま。でも小さな男の子ですから、武器を取って戦うわけではない。この子は不思議な力で平和をもたらすのです。
この言葉が語られた後、これを聞いた人々は、この男の子がいったい誰なのかと議論を始めました。ある人々は、この後に生まれた「ヒゼキヤ」という、有名な王さまではないかと考えた。確かに、そのヒゼキヤ王は、歴史に名を残す素晴らしい王であったのです。しかし、力ある神でもなければ、永遠に変わらぬ父でもなかった。そして、そのヒゼキヤ王でさえ、本当の平和をもたらすことはできなかったのです。そう、だからこの男の子が誰か、正直分からなかったのです。イスラエルの人々は、今もなお、平和の君が来るのを、首を長くして待ち続けているのです。
3. インマヌエル(私たちと共に)
この不思議な男の子が誰か。皆さんはもう、お分かりだと思います。*これがイエス・キリストです。今から約2000年前、イスラエルの南、ベツレヘムの町で、男の子がひっそりと生まれた。しかも旅の途上、馬小屋で生まれたので、ほとんどの人が気づかなかったのです。そのため、誰も居場所を提供しませんでした。「宿屋には彼らのいる場所がなかった」と聖書は書き記しています。そう、多くの人が気づかなかったのです。それは今も同じです。実に多くの人々が、平和の君イエス・キリストの生まれた、本当のクリスマスを知らないでいるのです。
世の中では、クリスマスの主役はすっかりサンタクロースになってしまっています。もちろん、イエス・キリストの名前を一応知っている人がそれなりにいるかもしれない。でも、気づかないのです。多くの人々は、イエス・キリストが、闇を照らす「平和の君」であることに気づいていないのです。
でも、わずかながらですが、イエス・キリストを受け入れる人々もいました。それもまた歴史の真実。そして、受け入れた人には、本当の平和が訪れる。それは武力によって戦争を終わらせるような、偽りの平和ではありません。馬小屋に生まれた男の子がもたらす、一見小さく見えるけれど、揺るがない平和。誰も照らすことのできない闇の中に光を灯す、不思議な平和をこのお方はもたらすのです。
4.
クリスマスの光
もう32年も前です。私は駆け出しの牧師で新潟にいました。クリスマスの季節に入ろうという頃、千恵子牧師は出産を控えていました。そんな慌ただしさの中、難病を患っていた一人の教会員が地上の生涯を終えたのです。綾子さんと言う方です。60代後半でした。山間部にお住いの方で病気のため礼拝に来ることができない。私たち夫婦は一か月に一回、綾子さんを訪ねては聖餐式と小さな礼拝をご自宅でもっていたのです。その綾子さんが容態を崩し、アッと言う間に天に召されてしまった。綾子さんと暮らすご主人を含め、ご家族の大半はクリスチャンではありませんでした。それでも綾子さんの信仰を大事にしたいと、田舎の町でキリスト教の葬式を出したのです。町の人々はキリスト教の葬式を見たことがないので、悪いうわさが飛び交いました。「キリスト教の牧師は、お花料(仏式の香典ですね)を全部持っていくから気をつけろ」等と、根も葉もないうわさが飛び交いました。そんな雰囲気でしたから、ご家族も、そして私も緊張しながら葬式の日を迎えたのです。でも、そんな張り詰めた雰囲気の中、聖書が読まれ、キリストを信じて生きた綾子さんの信仰が語られ、静かな賛美と祈りでお葬式を終えたのです。それはクリスマスイブ、12月24日のことでした。
最後に綾子さんのご主人がご挨拶をされました。綾子さんを本当に大事にしていたご主人で、その言葉を今もはっきり思い出すことができます。「綾子が亡くなって辛いけれど、なぜか今、不思議な希望の光が心に射してきたのを感じています」。クリスマスの奇跡だと今も信じています。その場所に集まっていた人々の心に、平和の君、イエス・キリストが訪れてくださったのです。葬式をそのように終え、私が帰宅すると、翌日の明け方から千恵子の陣痛が始まりました。私たちに長女が生まれたのです。私たちは長女に、「愛・喜び・平安」の実を結ぶように、結ぶ実と書いて「結実」と名付けました。
*クリスマスに生まれた男の子が照らす平和の光は、今もしなやかに、私たちを照らし続けています。この方、イエス・キリストを迎える時に、私たちの心には平和の奇跡が起こる。平和の君が、今夜も私たちを照らしています。お祈りしましょう。
天の父なる神さま、救い主イエス・キリストを、私たちを照らす世の光としてお送りくださり感謝します。今日ここに集った一人一人の心にも、今日、イエス・キリストがお生まれ下さいますように。救い主、平和の君、イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。
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