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羊飼いに届いた福音(ルカの福音書2:8~20)

 


「羊飼いに届いた福音」

ルカの福音書2:8~20

先週は、ローマ帝国の皇帝アウグストゥスから、住民登録をせよとの勅令が出され、ヨセフと身重のマリアが、ナザレからベツレヘムに旅をすることになったところから始まりました。長旅を終えて、やっとベツレヘムの町に着いたものの、町は住民登録のために、ごった返していて、宿をとることができず、彼らは、やむを得ず家畜小屋に泊まり、そこでマリアは出産し、赤ちゃんのイエスさまを飼葉桶に寝かせた、というところまでお話ししました。

 8-9節「さて、その地方で、羊飼いたちが野宿をしながら、羊の群れの夜番をしていた。すると、主の使いが彼らのところに来て、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。」羊飼いの仕事は過酷でした。乾燥したパレスチナ地方で、羊たちに牧草を食べさせることは、簡単なことではありません。また、羊たちが迷わないように、群れ全体に目を配り、野獣などの外敵から羊たちを守らなくてはいけません。「羊飼い」は、英語で“Shepherd”と言いますが、もう一つの言い方は“Pastor”です。日本語の「牧師」は、英訳すると“Pastor”ですね。牧師は、神さまにゆだねられている群れを牧会し、羊たちをみ言葉で養い、群れ全体に目を配り、悪い教えが入ってこないように、外敵から群れを守る使命があるのだなと改めて思いました。
 さて、そんな羊飼いたちが、いつものように焚火を囲んで野宿をしていました。すると天のみ使いが、彼らのところに来て、主の栄光が周りを照らしたのです!「主の栄光」という言葉は、主の尊厳、卓越性、完全性を表しています。そして、神さまの顕現、臨在を通して現れます。出エジプトの時、イスラエルの民は、その栄光を見て、ひどく恐れました。シナイ山で神がモーセに現れたとき、モーセの顔は、神の栄光の輝きを反射して、輝いたので、顔に覆いをかけなくてはなりませんでした。また、神の栄光は、神の幕屋に満ち、のちに神殿に満ちました。それは人が近づくことができない、圧倒的な聖さと、御力の現われだったのです。ですから、羊飼いたちは、その栄光触れたときに、すぐに地にひれ伏し、恐れました。当然の反応です。けれども、恐れる羊飼いたちに、み使いは言うのです。

11‐12節 「恐れることはありません。見なさい。私は、この民全体に与えられる、大きな喜びを告げ知らせます。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。あなたがたは、布にくるまって飼葉桶に寝ているみどりごを見つけます。それが、あなたがたのためのしるしです。」
 全き尊厳と卓越性と完全性をもった神の栄光を前に恐れる羊飼いたちに、み使いは言うのです。「恐れることはありません」と。「これは喜びの知らせです。今日、この近くの小さな町ベツレヘムで、あなたのために救い主が生まれましたよ。そのお方は、赤ちゃんで飼葉桶に寝ておられます。それがあなたがたのためのしるしですよ」と言われたのです。救い主は、もちろん時代を超えて、国を超えて、信じるすべての人々を救われる救い主です。しかし、同時に、今、現にここにいる羊飼いたちのための救い主なのです。当時の羊飼いは、社会的にも宗教的にもいわゆる「外れ者」でした。けれどもみ使いは言うのです。「あなたがたのための
救い主」が生まれる。「あなたがたのためのしるしです。」この救い主は、貧しく、小さく、弱い、あなた方のために生まれたんだよ、その証拠(しるし)に、この救い主は、あなた方が慣れ親しんでいる飼葉桶に寝ておられるんだよ。そういっているのです。これは、新しい時代の始まりです!恵みの時代が始まりました!栄光は、人が近づけないような天高く、遠く離れたところにだけ輝くものではなくなった。庶民が近づけないような、聖なる神殿の中にのみ満ちているものではなくなったのです! 神の栄光は、地上に降りてきました!

13‐14節 すると突然、その御使いと一緒におびただしい数の天の軍勢が現れて、神を賛美した。「いと高き所で、栄光が神にあるように。地の上で、平和がみこころにかなう人々にあるように。」天の軍勢の賛美。軍勢です。軍隊、兵士です。きっと迫力のある賛美だったことでしょう。地が震えるような、ドスのきいた賛美だったかもしれません!そして言うのです。「天に栄光、地に平和」と。そう、いと高き所の神の栄光が地に降りてきました。そして今、地上においては、和解と平和として、現れてくださるのだというのです。この飼葉桶に寝ておられる赤ちゃんこそ、神と人との間に、超えられない隔たりを作っている罪、そしてそこから来る敵意を打ち砕き、廃棄してくださるお方なのだと言っているのです。そしてこのお方は、本来、決して交わることがない天と地をつなぐのです。

 さて、み使いのこの良き知らせを受けた羊飼いたちはどうしたでしょうか。
15節後半から「さあ、ベツレヘムまで行って、主が私たちに知らせてくださったこの出来事を見届けて来よう。」そして急いで行って、マリアとヨセフと、飼葉桶に寝ているみどりごを捜し当てた
 第一に、羊飼いたちはイエスさまに出会いました。イエスさまは、羊飼いたちが見つけやすいところに生まれてくださいました。宮殿で生まれたら、社会から疎外され、貧しい羊飼いたちは決して会えなかったでしょう。もし聖い神殿で生まれていたら、安息日も守れないような宗教的に阻害されていた彼らは、敷居が高すぎて入れなかったかもしれない。けれども、イエスさまは家畜小屋の飼葉桶に生まれてくださったのです。羊飼いですから、小さな町ベツレヘムのどの家に家畜小屋があるか、羊飼いたちはちゃんと把握していました。一軒一軒手分けして探し回ったのでしょう。きっとすぐに見つけられたと思います。そして、家畜のえさを入れる飼葉桶は、彼らの仕事の道具でした。慣れ親しんだ場所、匂い、光景、牛や馬、羊の鳴き声、まさに彼らのテリトリーに、神が来てくださったから、彼らは、御子を見出すことができたのです。
 うちの子どもたちがまだ小さいころ、よくかくれんぼをしたものです。子どもが鬼になる時は、親は、子どもがすぐに見つけられるところに隠れます。「もういいか?」「まだだよ!」「もういいかい?」「いいよ!」子どもが探します。親は、まだかまだかと、見つけてくれるのを待つのです。そして、子どもが「見つけた!」と嬉しそうに指をさす姿に、親は「見つかっちゃった~!」と、笑顔で子どもを抱きしめるのです。イエスさまは、あなたに見つけられるのを待っています。
 そしてイエスさまに出会ったら、礼拝するのです。20節「羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて御使いの話のとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。」この後に、幼子イエスさまのところに来た当方の博士たちは、黄金、乳香、没薬などをプレゼント
することができました。けれども、羊飼いたちは、何もなかったのです。ただ、赤ちゃんの救い主を前に、ひれ伏し、礼拝しただけでした。それでよかったのです。を礼拝し、賛美することが、神さまが喜ばれる一番の私たちからのプレゼントなのです。
 最後に、この良き知らせを受け取った私たちは、「地の上で、平和がみこころにかなう人々にあるように。」とあるように。この地上で、和解と平和をつくる者となるのです。神と人とをつなぎ、人と人とをつなぐ、和解と平和の使者となるのです。

※「しあわせな王子」のストーリーを読む

イエスさまは、天の栄光をかなぐり捨てて、地上に、赤ちゃんになって生まれてくださいました。それは、ご自分が幸せな王子でいるより、私たちが幸せになってほしかったからです。天に栄光、地に平和。イエスさまの栄光は、地上の平和に現れます。祈りましょう。

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