「ダビデの鍵」(黙示録3:7-13)
1. なぜ黙示録から
黙3:7
また、フィラデルフィアにある教会の御使いに書き送れ。
『聖なる方、真実な方、ダビデの鍵を持っている方、彼が開くと、だれも閉じることがなく、
彼が閉じると、だれも開くことがない。その方がこう言われる──。
3:8 わたしはあなたの行いを知っている。見よ。わたしは、だれも閉じることができない門を、あなたの前に開いておいた。あなたには少しばかりの力があって、わたしのことばを守り、わたしの名を否まなかったからである。
フィラデルフィアは、有名なエペソの町から東へ45キロ入った内陸の町です。これと同じ名前の街がアメリカ東部のペンシルベニア州にもありますね。数々の映画の舞台にもなったアメリカのフィラデルフィアです。けれど実は、フィラデルフィアの本家本元は新約聖書の時代、現在のトルコの内陸の町だったのです。
フィラデルフィアとは、ギリシア語で「友情」とか「友愛」を表す言葉です。この町はぶどう栽培を除くと、主だった産業も無い、規模の小さな町だったようです。しかも地震の被害が頻発する町で、不安定で生活に窮する人々も多かったらしい。そんなフィラデルフィアの教会は、8節に「少しばかりの力があって」とありました。それはどうも、小さく弱い教会だったようです。その「少しばかりの力」しかない小さな教会に、主イエスは「ダビデの鍵を持つお方」として語り掛けていきます。
ここまで話を聴いて、皆さんの中にはおそらく、「クリスマス直後の主の日になぜ黙示録」と思われた方もあるかもしれません。本日は降誕後第一主日、まだまだクリスマスの余韻を楽しむ季節です。そんな日になぜ黙示録…? それは、七つの教会の手紙に現れる「キリストを待ち望む」姿勢が、クリスマスのメッセージと響き合うからです。
クリスマスに先立つ四週間を教会の暦では「アドベント」日本語では、救い主降誕を待ち望むという意味で、待降節と言います。アドベントはもともとはラテン語です。この言葉は「到来する」。つまり誰かが来ることを意味します。そうです。救い主がこの世界に人となって来られる。それがアドベントですが、そのように救い主を待望する期間を経て、今から約2000年前にキリストがこの世界に来られたのでした。
けれども、私たちのアドベントは、実は今も続いているのです。私たちは今もなお、いよいよ「あのお方」を待っている。イエスさまは、この地上での働きを終えた後、再びこの世界に来られることを約束して天に帰られました。そうです。イエスさまは、もう一度帰ってこられる。そして、そのときに神の国は完成を迎えることになります。それを忘れず覚えるために、新約聖書の最後に位置する黙示録は、このような主イエスの言葉で結ばれています。「『しかり、わたしはすぐに来る。』アーメン。主イエスよ、来てください」。イエスさまはやがてこの世界に帰って来られる。だから私たちは祈るのです。「アーメン。主イエスよ、来てください」と。
このように私たちは今も、実はアドベントを過ごしているのです。あのお方、キリストを待っているのです。そして、私たちが待ち臨むキリストがどのようなお方なのか。再び来られるキリストの姿が、黙示録には実に豊かに描かれています。そのお方は、「ダビデの鍵」をその手に持っておられるのです。
2. ダビデの鍵
黙示録の「七つの教会に宛てた手紙」では、その冒頭にキリストの様々な姿が描かれています。例えばエペソ教会には、「右手に七つの星を握る方」。そして前回目を留めたスミルナの教会には、「初めてあり終わりである方」としてご自身を示したキリストでした。そのように、七つの教会にはそれぞれの教会の状況に合わせて、キリストは最も相応しい姿でご自分を示していくのです。そうした様々な現れ方の中で、フィラデルフィア教会に示されたキリストの姿は最も印象深いように思います。
7節「聖なる方、真実な方、 ダビデの鍵を持っている方、 彼が開くと、だれも閉じることがなく、
彼が閉じると、だれも開くことがない。その方がこう言われる」。
「聖なる方」とは罪のない聖さを意味します。たとえ信仰者であっても、人間には罪の残滓、残った汚れがありますので、「聖なる方」とは、このお方が神ご自身であることを示しています。
それでは「真実な方」はどうでしょう。真実、英語だと Faithful「誠実さ」とも訳されます。ここには会、また信仰者のひとりひとりに向かう真実かつ誠実な姿が表れているのです。
7節には三つの呼び名が出てきますが、中でも印象深いのはこれですね。「ダビデの鍵を持っている方」。イエス・キリストはダビデの鍵を持っている。これは一体、何を意味するのでしょう。
ダビデとは言わずと知れた、イスラエルの歴史の中で最も有名な王様、ダビデ王です。それゆえに「ダビデの鍵」とは、王の宮殿を管理する重要な鍵を意味する言葉なのです。旧約聖書イザヤ書の22章を見ると、この「ダビデの鍵」の管理を、神ご自身が直接にエルヤキムという人物に委ねる場面が出てきます。そのイザヤ書においても主は言われます。「彼が開くと、閉じる者はなく、彼が閉じると、開く者はない」。主はこのようにして、王の宮殿を管理する宰相、総理大臣の務めにエルヤキムを任命したのでした。このイザヤ書22章の出来事以来、「ダビデの鍵」を持つ者は、王国において最高の権威、力を持つものとされました。そして、その鍵が、世の終わり、神の国の完成を描く黙示録においては、イエス・キリストによって握られているのです。そう、神の国において最高の権威を持つのはキリストである。神の国に至る門の開閉は、このお方がお決めになる。そのような意味として受け取ると、新約聖書の中のいろんな御言葉と繋がっていくのに気づきます。例えばヨハネ10章9節「わたしは門です。だれでも、わたしを通って入るなら救われます」。誰でも、キリストを通るならば救われる。「わたしは門」。それは門の開閉の権威を持つ、ダビデの鍵と響き合いますね。その他にもあります。これも有名なイエスさまの言葉。ヨハネ14章6節です。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません」。イエス・キリストを通してでなければ誰も父のみもと、すなわち天の御国に入ることはない。そうです。「ダビデの鍵」とは天国の鍵。この鍵は、イエスさまの手の中にある。このお方は聖く、真実なお方。それゆえに鍵の扱いにも決して間違いはないのです。イエス・キリストに従う者は必ず神の国に至り、その逆に、誤ったものが間違って神の国に入ることもない。だから、「わたしをいつも見上げて歩みなさい」と、キリストは私たちに語り掛けてくるのです。
3. 小さき群れよ恐れるな
この「ダビデの鍵」を持つキリストの姿は、実に独特で、他の教会に示された姿と比べてみても際立っています。何が独特か、と言えば、ダビデの鍵を持つ姿が冒頭の黙示録一章には現れてこない、ということでしょう。その他の教会に現れた姿は、実はその殆どが一章にすでに現れている。一章で、その姿をチラッと少しだけ見せて、そして二回目はより具体的になって、手紙冒頭の差出人として現れてくるのです。そうやって見てみると、確かに「ダビデの鍵」を持つ姿は一章に現れてこないのです。
でも、そのヒントとなる姿はありました。1章18節の「死とよみの鍵を持っている」キリストです。「死とよみの鍵」という、永遠の裁きを思わせる言葉が、3章ではより具体的で積極的な姿になって現れてくるのです。「ダビデの鍵」を持つ、聖い、真実なキリストです。ここには大事なメッセージが込められています。フィラデルフィアの教会を特別に励ますメッセージです。
フィラデルフィアの教会は、他の教会といろんな面で違っている教会です。特に目に付くのは、教会に向けた叱責がないこと。殆どの教会に対してキリストは、最初に称賛、ほめ言葉を述べた後で苦言、もしくは叱責を口にしていく。たとえばエペソ教会に対しては、これでした。「あなたは初めの愛から離れてしまった」と。このように殆どの教会に苦言、叱責が宣べられる一方で、スミルナとフィラデルフィアという二つの教会に対しては叱責もなければ苦言もない。それは、二つの教会が素晴らしかったから、ということではないようです。イエスさまは、弟子たちを時折叱りました。それは期待を込めた愛の鞭でもあったのです。それは教会に対しても同じです。キリストは、叱れる教会は叱るけれど、疲れて弱り果てている教会に、敢えて「愛の鞭」を加えることはなさらなかったように思います。
フィラデルフィアとスミルナの教会、これらはいずれも弱くて小さな教会でした。そして二つともユダヤ人により異端呼ばわりされ、激しい迫害を受けていたのです。特にフィラデルフィアの教会は、ユダヤ人でクリスチャンになると、すぐに会堂から追放されて、集まる場所にさえ困っていたようです。そして罵倒されていたのでしょう。「彼らは異端であり、到底神の国に入ることはできない」と。
そんな苦しみ中にある教会に対し、イエスさまは、敢えて鞭を加えることはしないのです。耐える力のある教会には愛の鞭、その一方で、弱り果てる教会には励ましと慰めを語っていく。イエスさまは見事な牧会者です。ひとりひとりの状況、それぞれの教会の様子に応じて、語る言葉を選んでいくのです。
迫害の中、会堂からも追い出されたであろうフィラデルフィアの教会でした。しかも教会には、少しばかりの力しかなかった。エペソ教会のように雄々しく戦うこともできない。彼らにできたのは、残ったわずかな力で主の言葉を守り、主イエスの名を否まないということだけだった。そんな、辛うじて、ギリギリのところで持ちこたえている教会に、主イエスはご自分を「ダビデの鍵を持つお方」として示します。神の国の門は、あなたがたに開かれている。門は開けておこう。そして、これから訪れる試練の時には、この「わたし」があなたがたを守るから、と。このように、たとえ弱く小さくとも、主イエスの名を否むことのない群れに、主は優しく手を差し出していくのです。ほら、ダビデの鍵はわたしの手の中にあるから、と。
結び
今朝の招きの御言葉は、ルカ12章32節でした。「小さな群れよ、恐れることはありません。あなたがたの父は、喜んであなたがたに御国を与えてくださるのです」。日本の教会は、その多くが小さな群れ、力のない教会であるかもしれない。そして、私たちの愛する新船橋キリスト教会もまた、ひと際小さい、無名の教会かもしれない。しかし、そのような小さな群れのことも主イエスは覚えている。そして私たちにも主は語りかけています。「ダビデの鍵」は、わたしの手の中にある。このイエス・キリストを見上げ続けていきたいのです。
私たちは先週、貧しく飼葉桶に生まれた、へりくだりの王、イエス・キリストの誕生を喜び祝いました。そのようにして人として貧しく生まれ、友なき人々と共に歩み、最後は十字架の死を遂げたお方。しかし、死に打ち勝ち復活したお方を共に見上げていきたいのです。このお方は聖く、真実に、神の国の鍵を扱っています。羊を飼う牧人たちが尋ね求めたように、博士たちが遠路はるばる足を運んだように、私たちもこの方を見上げて従っていきたい。そのような私たちの前にはいつも神の国が確かに開かれていくのです。お祈りします。
「見よ、わたしは、だれも閉じることができない門を、あなたの前に開いておいた」。
天の父よ、感謝します。ダビデの鍵を聖く、誠実に扱うお方を目指して、世の終わりの時を、聖霊によって歩んでいくことができますように。私たち新船橋キリスト教会を、神の国において輝かせてください。王である主、イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン!
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