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思いがけない出会い(ルカの福音書2章21~38節)


「思いがけない出会い」

ルカの福音書2:21~38

 

12月21日に発行された「クリスチャン新聞」の一面は、グレースガーデンチャーチの阿部頼義牧師が、「思いがけない出会いのただ中におられる主」というタイトルで記事を書いていました。世界で初めのクリスマスでは、いくつかの思いがけない出会いがあり、その中で、イエスさまが人々に現れているのだというのです。私は、本当にそうだなと思いました。イエスさまとの出会いはいつも思いがけないとき(タイミング)に、思いがけない場所で、思いがけない状況の中で起こる。私たちはそれを見逃してはいけないと思うのです。今日は、シメオンとアンナが幼子イエスさまと出会った聖書個所から、そんな出会いの不思議を見ていきたいと思います。

 

100パーセント神であられるイエスさまは、100パーセント人となってこの地上に生まれてくださいました。イエスさまが完全に人となられた一つの現われとして、イエスさまは律法に従われました。ガラテヤ4:4-5にはこうあります。「しかし時が満ちて、神はご自分の御子を、女から生まれた者、律法の下にある者として遣わされました。それは、律法の下にある者を贖い出すためであり、私たちが子としての身分を受けるためでした。」律法の下にある者を贖い出し、神の子とするために、イエスさまは自らを律法の下に置かれたのです。

当時の律法によると、赤ちゃんが生まれるとすぐに、3つの儀式を行うことになっていました。一つ目が八日目の割礼です。この時に子どもに命名します。み使いが、マリアとヨセフそれぞれに現れて、名前は「イエス」とするように命じましたので、その通りイエスと名付けました。

そしてもう一つが長子の贖いです。出エジプト13:2には、「イスラエルの子らの間で最初に胎を開く長子はみな、人であれ家畜であれ、わたしのために聖別せよ。それは、わたしのものである」(23節に引用あり)。イエスさまは、長子なので贖わなければなりません。家畜の初子であれば、それをささげるわけですが、人間の場合はそうはいきませんから、贖い金というものを神殿にささげました。後に十字架によって人の罪を贖うイエス・キリストが、ユダヤ人の律法に従って、贖いわれたというところに、神のへりくだりを見ます。

三つめが産後のきよめです。どこの国でも産後一定期間体を休める習慣があります。日本は、床上げまで21日間ですし、台湾では坐月子と言って1ヵ月休みます。これは母体を休ませて、赤ちゃんの面倒をみることに専念できるようにするためですが、産後はしばらく出血が続きますので、宗教的に穢れているという理由もあるでしょう。こうして、産後の女性は、40日から80日の産褥期が明けた後、神殿に詣でてきよめの儀式をしなければなりません。レビ記12章にその規定があります。原則としては、1歳の雄の子羊をささげるのですが、経済的な理由でそれができない場合は、24節にあるように、「山鳩一つがい、あるいは家鳩のひな二羽」ささげます。マリアとヨセフの家が貧しかったことがここからもわかります。

 

さて、こうしてイエスさま家族が宮に入って来た時に、二人の人がそのことに気づきました。貧しい夫婦が一人の男の子を抱っこして律法の習慣を守っている姿は、ありふれた光景で、宮の喧騒に紛れてしまうような、誰の目にも留まらない光景でした。けれどもまずは、シメオンが気づきました。彼は、「正しい、敬虔な人で、イスラエルが慰められるのを待ち望んでいた」とあります。そして「聖霊が彼の上におられ、…主のキリストを見るまでは決して死を見ることはないと、聖霊によって告げられていた」のです。彼は、何も祭司やレビ人、律法学者というような特別な聖職者ではなさそうです。もしそうなら、書いているでしょう。彼は一般信徒だったと考えると驚きです。「正しい人」というのは、神との関係が正しい状態にある人という意味です。聖霊が信じるすべての人に与えられるようになるのは、まだずっと先です。それなのに、シメオンはすでに、聖霊と共に歩み、聖霊の語りかけを聞き、聖霊に導かれて、幼子イエスさまに会ったのです。聖霊を宿しているシメオンは、神さまのみこころと願いを自身の願いとしていました。その願いとは、「イスラエルが慰められること」でした。私たち人間は、本当の慰めを必要としています。まやかしの慰めではなく、一時的な慰めでも刹那的な慰めでもなく、本当の慰めを必要としているのです。そしてシメオンは、それをずっと待ち望んでいたのです。

そしてとうとう、その時が来ました。彼は、御霊に導かれて宮に入ると、両親に抱かれている幼子イエスを見つけました。すぐに世に慰めをもたらすそのお方だとわかり、幼子を腕に抱き、預言の詩を歌うのでした。この幼子こそ、イスラエルだけではない、異邦人も含めた世界が待ち望んでいた慰めであり、救いだということを預言するのです。そして母マリアに向き直り、この幼子が受けるであろう受難をも告げるのでした。

さて、ここにもう一人の人が登場します。それはアンナという84歳の女預言者でした。彼は早くに夫を亡くし、恐らく5,60年、宮に仕え、断食と祈りをもって、昼夜問わず、神に仕えていたというのです。彼女は、若い夫婦とその懐にいる赤ちゃん。そして興奮して彼らと話す老人を見て、とうとう、待ち望んでいたメシア(救い主)が来られたことを悟るのです。そして、急いで彼らに近寄り、礼拝し、神に感謝をささげ、すべての人にこの幼子のことを語りました。

 

今日ここに出てくる二人の老人には共通点が5つあります。一つは、非常に年を取っていたということ。アンナについては84歳とあります。シメオンについては具体的な年齢は記されていませんが、彼がイエスさまに会ったときに、「主よ。今こそあなたは、おことばどおり、しもべを安らかに去らせてくださいます。」(29節)とあるので、とうに平均寿命に達していたのではないかと思われます。二つ目は、敬虔な人だったということです。シメオンは「正しい、敬虔な人」と記されていますし、アンナについても、断食と祈りをもって、昼も夜も神に仕えていたとありますので、二人とも敬虔な人だったことは明らかです。そして、三つめが多くの苦しみを通って来たということです。二人が生きた時代は、ユダヤの独立統治をなんとか維持していたハスモン王朝が没落し、紀元前63年には、ローマの将軍ポンペイウスに負けて、ローマに支配され、残酷さで有名なヘロデが王として治めていた時代でした。イスラエルが今までになく慰めと救いを切実に待ち望んでいた時代でした。ですから四つ目は、二人とも救いを待ち望んでいたということです。そして最後の5つ目は、彼らは霊的な洞察力があったということです。シメオンのアンナだけが、この平凡な貧しい若い夫妻が抱いている赤ちゃんが、待ち望んでいたメシアだとわかったのです。この幼子が、イスラエルだけではない、世界を救う救い主なのだということが分かったのです。

 

今日の説教のタイトルは、「思いがけない出会い」としました。今年も神さまは、私たちに出会ってくださいます。気を付けてください。イエスさまは、それとわかるような神々しい姿では現れません。みすぼらしい姿で、人ごみに紛れて、それとはわからない姿で現れます。けれども、神を畏れて礼拝の生活をし、日曜日だけのサンデークリスチャンではなく、日常的に聖書を開き、祈り、苦しみの時にも、この世のものではなく、主により頼み、いつ主が再び来られてもいいように、罪を離れ、上を見上げて、待ち望む姿勢で生きているとき、私たちは決して主を見過ごすことはありません。どうぞ、「思いがけない出会い」を大切にする1年としてください。イエスさまは思いがけない出会いを通して現れてくださいます。

 

最後に冒頭に紹介した阿部頼義先生の記事の最後の部分を読みます。

 それは今から4年前の12月、余命3か月の末期がんを患ったままホームレスとなっていた難民申請中のマイさん(カメルーン出身)との出会いでした。彼女は、難民認定制度の狭間に置かれ公的なセーフティーネットがない状態で苦しんでいたのです。最終的に、都内にあるカトリック系の病院が無償で受け入れてくださり、彼女は、そこで静かに息を引き取りました。この衝撃的な出会いは、私の人生を大きく変えることになりました。

 その後、私は仲間と共にNPO法人難民医療支援会プレシオンを立ち上げ、難民や難民申請者の医療アクセスを改善する活動を始めました。この活動はイエス様が「あなたも行って、同じようにしなさい」(ルカによる福音書1037節)と言われたように、傷つき倒れる人々の隣人(ギリシャ語でプレシオン)になることを目的としています。

私は、この活動を通して、イエス様の愛と憐れみを強く感じることがあります。ぜんそくの発作が出ても薬を買えず苦しむ人、乳がんを患っても病院に行くことができず、不安の中で祈り続けている人、そんな彼らの痛みと涙に触れる時、そこにイエス様が共におられると感じるのです。それはまさに「最も小さい者たちのうちにおられる主」(マタイの福音書2540節)に出会う経験なのかもしれません。

クリスマスには「思いがけない出会いのただ中に主がおられる」というメッセージが込められています。神様は、誰も注目しない名もなき人々を選び、予想もつかない出来事を通して「私はここにいる。あなたと共にいるよ」とその存在を示してくださったのです。あなたの人生においても「ああ、あの時、イエス様が私の心に触れてくださったな」という体験があるのではないでしょうか。

イエス様は今も、思いがけない出会いを通して、静かに、私たちにその愛を現そうとされているのです。このクリスマスの時、社会の片隅で痛みを抱える方々のことを思いつつ、私たちの心が「思いがけない出会い」に開かれていくようお祈りいたします。



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