スキップしてメイン コンテンツに移動

良い知らせ(ローマ人への手紙10:13~15)


「良い知らせ」

ローマ人への手紙10:13~15

 

今日は2026年の第一主日です。いつも年が変わると、年間テーマを決めます。2025年は、「賛美する教会」でした。2024年は、「分かち合う教会」、2023年は、「福音に立つ教会」、2022年は、「世の光としての教会」、2021年は「祈る教会」、2020年は「聖書を読む教会」です。今までに掲げた年間テーマを見て見ると、そろそろ「伝道する教会」をテーマにしなくてはいけないのではと示されました。教会の第一の存在意義は、「伝道」だと思うのですが、今までそれをテーマにしてこなかった理由の一つは、教会が伝道するのは当たり前だからです。そして、もう一つは、ひょっとしたら、牧師が伝道が苦手だからかもしれません。個人伝道の経験も乏しいですし、伝道の成功体験も少ないのです。そしてもう一つ、今年のこのテーマを選んだ理由は、牧師になって5年目、遅ればせながら、伝道の楽しさに気づき始めたからもしれません。昨年は、献堂20周年記念コンサートを行い、普段教会に来ておられない方がたくさんいらっしゃいました。また子どものクリスマス会は地域支援活動のリソースを利用して、たくさんの地域の方に、クリスマスの意味をお知らせすることができました。そして、SNSを駆使して、毎週のメッセージをたくさんの人に聞いてもらえるような工夫をするのも楽しかったです。ですから、今年は、皆さんと楽しく伝道したいと思ったのでした。

 

今日は、主に15節後半を中心に見ていきます。「なんと美しいことか、良い知らせを伝える人たちの足は」

以前の訳は、「良いことの知らせを伝える人々の足は、なんと立派でしょう」でした。けれども、実は今の訳の方がギリシア語の聖書の語順に忠実に訳されています。原語では、「なんと美しいことか!」と感嘆文から始まっているのです。英語では、どの訳も“How beautiful”や“How wonderful”で始まります。つまり、ここでは感極まって、「なんと美しいことか!」とまず声を上げているのです。

実はこの言葉はイザヤ書の52章7節の引用です。

「良い知らせを伝える人の足は、山々の上にあって、なんと美しいことか。平和を告げ知らせ、幸いな良い知らせを伝え、救いを告げ知らせ、『あなたの神は王であられる』とシオンに言う人の足は。」

このイザヤの預言は、長くバビロンの捕囚となっていたイスラエルに、解放の喜びを告げ知らせる預言です。「神が私たちの王として帰ってこられる!」「私たちは、再び神の民となる!」「イスラエルは、再び回復する!」そんな喜びの知らせを、走って告げに来る人の足は、なんと美しいことか!と言っているのです。

 

ここで「足」が美しいと言っているところに注目しましょう。福音を伝える人の足が美しいと言っています。声ではなくて、口でも言葉でもなくて、足が美しいのです。これは、良い知らせを足をもって「運ぶ」「届ける」「伝える」ということを強調しています。ここにある「伝える」という言葉は、原語では「ユーアンゲリゾー」と言います。そしてこの「ユーアンゲリゾー」の名詞形が「ユーアンゲリオン」、「エバンゲリオン」と言ってもいいでしょう。つまり「福音」「良い知らせ」「God news」という意味なのです。つまり「福音」とは、伝えられて初めて「福音」「良い知らせ」となりうるということです。どんなによい知らせでも、そこにあるだけでは、意味がないということです。伝えられて、運ばれて、届けられて、福音は福音となるのです。

マラソンという競技の起源を皆さんは知っているでしょうか。紀元前490912日、アテナイの名将ミルティアデスはマラトンに上陸したペルシャの大軍を奇策で撃退しました。これが俗にいう「マラトンの戦い」です。この「勝利した!」というエウアンゲリオン(良い知らせ)をアテナイの元老に伝えるためにフィリッピデス(Philippides)という兵士が伝令に選ばれました。フィリッピデスはマラトンから約40km離れたアテナイまでを駆け抜け、アテナイの郊外で「我が軍勝てり!」と告げた後に力尽きて息を引き取ったと言われています。こうして、「マラトン」という地名から「マラソン」という競技が生まれたのです。このように、古代には、人々は、伝令の「足」によって情報を得ました。伝令が遠くから駈けて来て、町を見下ろす丘の上に立つ、その足に、人々は注目したのです。そして「なんと美しいことか!良い知らせを伝える人々の足は」とその足を賞賛したのです。

 

私たちにとって「福音」とは何でしょうか。それは13節にあるように、「主の名を呼び求める者はみな救われる」ということです。イエス・キリストこそ、私たちを罪と罪から来る悲惨と死から贖い出してくださる救い主だと信じて、このお方を心にお迎えすれば、救われる、新しい、永遠の命が与えられるということです。これは神さまの恵みですから、一切の条件はありません。文字通り、主の名を呼び求めるだけで、みな救われるのです。なんと良い知らせでしょうか!これ以上の良い知らせがあるでしょうか!ですから、パウロは言うのです。14節「しかし、信じたことのない方を、どのようにして呼び求めるのでしょうか。聞いたことのない方を、どのようにして信じるのでしょうか。宣べ伝える人がいなければ、どのようにして聞くのでしょうか。遣わされることがなければ、どのようにして宣べ伝えるのでしょうか。」 本当にその通りじゃないですか。こんなグッドニュースを教会の中だけにそっとしまっておいていいんのでしょうか。私たちの心の中だけに保っていていいのでしょうか。伝えられてこそ福音なのです。

 

けれども私たちは、この良い知らせを告げ知らせることが、簡単ではないことを体験的に知っています。私たちはきっと、信仰生活を送る中で、何度もこの福音を宣べ伝えては、撃沈して来たのではないでしょうか。この「良い知らせ」は、多くの人にとって、奇想天外な、あまりに単純で、ありえない恵みなので、頭では理解できないのです。ですから、聖霊の助けが必要です。普段から祈ってないと、恐らく相手には通じません。けれども祈っていれば、必ず、聖霊がその人に働いて福音に心を開かせてくださる時が来ます。福音を伝えたい人がいるでしょうか?救われてほしい人がいるでしょうか?それなら祈ってください。自分では祈りが続かないということなら、導きたい人の名前を教会に分かち合ってください。私たちの水曜の祈り会では、毎週、教会に足を運んだことのある人たちの名前を挙げて祈っています。いつか聖霊が働いて、その人たちが福音を受け入れ、自ら主の名を呼ぶ時が来ることを信じて祈っています。人の救いのために私たちができることは、祈ることと、福音を届けることです。あとは、聖霊がなさることです。

 

最後に聖書の中に聖書と言われるヨハネの3章16節を読みましょう。

「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」

私たち以上に、人々を愛して、救われてほしいと願っておられるのは父なる神さまです。その愛は、ひとり子イエス・キリストを地上に送り、苦しみの人生を歩ませ、最後は十字架につけて、人々の罪を背負わせ、御父が自ら、その子を罰するという激しい愛に現れています。それは、このお方を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためなのです。

私たちはこの一年、そんな主の愛の福音というバトンを受け取って、走りましょう。そして、誰かに渡しませんか?このグッドニュースを届けませんか。「なんと美しいことか、良い知らせを伝える人たちの足は。」お祈りしましょう。


コメント

このブログの人気の投稿

人の弱さと主のあわれみ(創世記20:1~18)

「人の弱さと主のあわれみ」 創世記20:1~18 今日の聖書の個所を読むと、あれ?これは前にも読んだかも?と思うかもしれません。そうなのです。12章で、アブラハムは、同じことをしています。飢饉のためにエジプトに逃れて、その際に、自分が殺されるのを恐れて、妻サライを妹だと偽ったので、サライはエジプトの王に召し抱えられてしまったのでした。その後、神さまはファラオの宮廷の人々に災いを下し、そのことによって、サライがアブラムの妻だと発覚し、ファラオはサライを、たくさんの贈り物とともにアブラムに返したと記されていました。すべては神さまの憐れみと守りによることでした。 さて、アブラハムたちは、今度は、ゲラルというところに寄留していました。ゲラルは、後のペリシテ人の領土です。12章のエジプトの時には、飢饉で、と理由が書いてありましたが、ここには理由がありません。けれどもアブラハムは、たくさんの家畜を持つ遊牧民ですから、定住することは難しく、天候や季節によって、あちこちに寄留するのは、決して珍しいことではありませんでした。 ところがここに来て、アブラハムはまたも、同じ失敗を繰り返しています。私たちは呆れますが、と同時に、聖書は正直だな~と思うのです。聖書は容赦なく、人間の罪と弱さをあばきます。聖書には、誰一人として完璧な人はいないのです。すべての人が罪人であり、弱さを抱えています。信仰者とて同じことです。ですから、同じ失敗を何度も繰り返すのです。翻って自らを省みてみましょう。同じ罪を繰り返しているのではないですか。誘惑に負けて罪を犯しては、「ああ、神さま、あなたの前に罪を犯しました。ゆるしてください。」と祈り、悔い改めます。そして二度と同じ失敗はしないぞと心に誓います。けれども、ほどなく、やはり同じ罪を繰り返すのです。私たちは、アブラハムの重ねての失敗を笑えないのです。 サラが異母姉妹だということ、それは本当のことでした。この手の言い訳も私たちのよくやることです。真っ赤な嘘とまでは行かなくてもピンク色の嘘?グレーゾーン?と言った感じです。サラの一番の属性は、アブラハムの妻でしょう。それを妹だと紹介するというのは、相手をだます意図があってのことです。胸に手を当てて思いめぐらすと、私たちにも心当たりがあるでしょう。また、アブラハムは、アビメレクへの言い訳として、こん...

人生の分かれ道(創世記13:1~18)

「人生の分かれ道」 創世記13:1~18 さて、エジプト王ファラオから、多くの家畜や金銀をもらったアブラムは、非常に豊かになって、ネゲブに帰って来ました。実は甥っ子ロトもエジプトへ同行していたことが1節の記述でわかります。なるほど、エジプトで妻サライを妹だと偽って、自分の命を守ろうとしたのは、ロトのこともあったのだなと思いました。エジプトでアブラムが殺されたら、ロトは、実の親ばかりではなく、育ての親であるアブラムまでも失ってしまうことになります。アブラムは何としてもそれは避けなければ…と考えたのかもしれません。 とにかくアブラム夫妻とロトは経済的に非常に裕福になって帰って来ました。そして、ネゲブから更に北に進み、ベテルまで来ました。ここは、以前カナンの地に着いた時に、神さまからこの地を与えると約束をいただいて、礼拝をしたところでした。彼はそこで、もう一度祭壇を築き、「主の御名を呼び求めた」、つまり祈りをささげたのです。そして彼らは、その地に滞在することになりました。 ところが、ここで問題が起こります。アブラムの家畜の牧者たちと、ロトの家畜の牧者たちとの間に争いが起こったのです。理由は、彼らの所有するものが多過ぎたということでした。確かに、たくさんの家畜を持っていると、牧草の問題、水の問題などが出てきます。しかも、その地にはすでに、カナン人とペリジ人という先住民がいたので、牧草や水の優先権はそちらにあります。先住民に気を遣いながら、二つの大所帯が分け合って、仲良く暮らすというのは、現実問題難しかったということでしょう。そこで、アブラムはロトに提案するのです。「別れて行ってくれないか」と。 多くの財産を持ったことがないので、私にはわかりませんが、お金持ちにはお金持ちの悩みがあるようです。遺産相続で兄弟や親族の間に諍いが起こるというのは、よくある話ですし、財産管理のために、多くの時間と労力を費やさなければならないようです。また、絶えず、所有物についての不安が付きまとうとも聞いたことがあります。お金持は、傍から見るほど幸せではないのかもしれません。 1900年初頭にドイツの社会学者、マックス・ウェーバーという人が、『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』、略して『プロ倫』という論文を出しました。そこに書かれていることを簡単にまとめると、プロテス...

慰めを待ち望む(ルカの福音書2章21~35節)

「慰めを待ち望む」 ルカの福音書 2 :21~35 21~24節には、律法の習慣(レビ記12:1~8)に従うイエスさまの姿が描かれています。もちろんイエスさまは生後間もない赤ちゃんですから、律法の習慣に従ったのはマリアとヨセフなのですが、実は、イエスさまは律法を制定される側のお方なだということに思いが至るときに、ご自分の制定された律法に自ら従われる姿に、人として歩み始めたイエスさまの覚悟と本気を見る思いです。 まずは、八日目の割礼です。ユダヤ人は生後8日目の男子の赤ちゃんに割礼を施すことが律法で定められていました。割礼は、天地万物を創られた唯一の神を信じる民、「神の民」としての特別な印でした。神さまと特別の約束を交わした民としてのしるしです。そしてこの日に、み使いが両親に告げられた「イエス」という名前を幼子につけたのです。 次に40日の清めの期間が終わったあとの宮詣です。日本でいうお宮参りといったところでしょうか。40日というのも、レビ記にある規定で、女性が男子のあかちゃんを生んだ場合、7日間は、宗教的に汚れているとされて、その後33日間の清めの期間があり、合わせての40日が、その期間となります。(ちなみに女の子の場合は、2週間の汚れた期間を経て、66日間清めの期間を過ごします)この間、母親は隔離されるわけですが、産後のママにとってはありがたい時期です。今みたいに洗濯機や掃除機、炊飯器などがない時代、家事は女性にとって重労働でした。そこから解放されて、自分の体の回復と、新生児のお世話だけしていればいいこの時期は、産後のママにとって必要不可欠な時期だったのです。そして、その期間が明けて、マリアのからだも十分に回復して、 彼らはエルサレム神殿に向かったのでした。 Google マップで検索すると、ベツレヘムからエルサレムまで、距離にして8.9キロ、車で20分の距離です。もちろん当時は車はありませんので、徒歩だと2時間弱というところです。産後の身にとっては、ロバに乗って行ったとしても、決して近いとは言えない距離です。こうして、マリアとヨセフ、小さな赤ちゃんのイエスさまは、エルサレムの神殿に向かったのです。 さて、宮に着くと、律法の規定に基づいて、ささげものをします。ささげものの内容も決まっています。それは、生まれたのが男子であっても女子であっても同じで...