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わたしは、あなたとともにいる(創世記31:1~16)


「わたしはあなたとともにいる」

創世記31116

 

6年前、ヤコブはラバンに、14年にもわたる娘二人の花嫁料分は働いたので、そろそろ故郷に帰らせてくれと申し出ます。けれども、ヤコブのおかげで経済的に祝福されたラバンは、ヤコブの願いに対して、聞く耳を持ちませんでした。そして、それなら報酬を与えるので、このままここにいるようにと要求します。ヤコブは、一刻も早く、強欲なラバンのもとを離れたかったのですが、ラバンの承諾なく去るわけにはいかず、そのまま残ることにします。

ラバンとヤコブが結んだ約束は単純で、ぶち毛やまだら毛、縞毛の羊ややぎが生まれれば、ヤコブのものになるというものでした。この当時のこの地方の羊はたいてい白、やぎは黒でしたので、ぶち毛やまだら毛、縞毛のものが生まれるのは珍しかったものですから、ラバンは、これ幸いと、その条件を飲みます。そして、用心のため、今いる家畜の中で模様のある家畜たちをすべて群れから離し、遠く息子たちがいるところに送ったのでした。

けれども、ヤコブは11節を見ると、神さまから夢で知恵を授けられて、その通りにすると、なんと、生まれてくる家畜の多くは、縞毛やぶち毛、まだら毛になったというのです。ヤコブの家畜はみるみる増えていきました。それに対して、ラバンの家畜は、むしろ減っていき、しかもなぜが、ヤコブの家畜に比べると弱いものばかりになってしまったのです。

ラバンはこうなってみて、初めて思い知りました。ヤコブが自分に属しているときは、彼も神の祝福にあやかることができるけれど、ヤコブが自分から独立していまえば、もう神の祝福に与ることはできないのだと。しかし、今から報酬を変えるわけにもいかず、ラバンは苦々しい思いで、ヤコブを見ていたのでした。また、ヤコブに嫉妬していたのは、ラバンの息子たちも同様でした。彼らはヤコブに逆恨みをして言うのです。「ヤコブはわれわれの父の者をみな取った。父の物で、このすべての富をものにしたのだ」(1節) とんでもない言いがかりです。そういえば、最近のラバンの態度も変わってきました。ラバンは、これまでもヤコブのことなんて、これっぽっちも愛してはいなかったし、尊敬もしていなかったけれど、少なくとも、「ドル箱」のように、いい金づるだとは思っていたので、一定の敬意は払われていたと思うのですが、それもなくなり、よそよそしく、冷たい態度に変わっていったのです。

 

そんな時にあった主のみ告げでした。3節「あなたが生まれた、あなたの父たちの国に帰りなさい。わたしは、あなたとともにいる。」 きたーっ! とうとう神さまのGoサインが出ました。ヤコブが6年前に、ラバンに帰りたいと申し出たときは、まだ神さまの時ではありませんでした。当時、ラバンのもとを去っても、家族を養うだけの財力もなかったし、後にエサウに会うときの手土産の一つもなかったことでしょう。ですから、神さまは、今ではないと止められたのです。そして、ヤコブはそれに従いました。けれども今は、ヤコブは十分に富み、ラバンのところを去る準備が整ったのです。また、神さまは、ヤコブを苦しめたラバンを懲らしめたかったのかもしれません。12節後半で、「ラバンがあなたにしてきたことはみな、わたしが見た」とあります。ヤコブがラバンの仕打ちに苦しんでいるとき、神は高みの見物で見ていたわけではありません。神さまもヤコブと共に心を痛めておられたのです。私たちは、苦しみの中で思うかもしれません。「神が私のことを愛しておられるなら、なんでこの状況を放っておかれるのか」「私を苦しみに遭わせるのか」「どうして敵をやっつけてくれないのか」「正しくさばいてくれないのか」これが私たちの正直な叫びです。けれども、神さまはおっしゃいます。「ラバンがあなたにしてきたことはみな、わたしが見た」 神さまは見ておられる。そして神さまはいつも私たちの味方、必ず正しいさばきをしてくださるのです。

ヤコブは、ラケルとレアをひそかに呼び寄せ、脱走計画を告げます。まともにラバンに掛け合っても、また難くせをつけられて、止められるに決まっている。だから、黙って、ここから去るしかないと思ってのことです。当時の家族制度の中では、レアもラケルも、ヤコブの妻である以上に、ラバンの娘でしたから、彼女たちは父の家に残る選択もできました。ですから、ヤコブは言葉を尽くして、二人を説得しています。

まずは、ラバンの態度が以前のようではないということを告げました。それに続いて、ラバンが何度もヤコブを騙し、報酬を変えたこと。けれども、ヤコブの信じる神は、いつもご真実で、どんなにラバンが自分を欺いても、それを祝福に変えてくださったこと。そしてその神が、「さあ、立って、この土地を出て、あなたの生まれた国に帰りなさい」(13節)と告げられたこと。ヤコブは二人に、「私の信じるこの神さまに、あなたたちの人生をかけてみないか」「私といっしょに、この神さまについていかないか」 そう呼びかけているようです。

すると彼女たちは、「私たちは…」と答えます。一時は夫の愛を獲得するために、また、子を産むために、争ったこともある姉妹でした。けれども、今は「私たちは、あなたとあなたの信じる神についていきます」と告白するに至りました。もちろんヤコブには、弱さや欠け、男としての限界があったでしょう。けれども、何度騙されても、悪に悪をもって報いることをせず、誠実に父のもとで働き、そして、苦難の時には神に祈り叫び、今、自分たちとも向き合って、自分たちの思いや意志を尊重して、説明を尽くすヤコブを見て、彼女たちの心は次第に定まっていったのではないでしょうか。二人の気持ちはもう、ぶれることはありません。 16節「さあ、神があなたにお告げになったことを、すべてなさってください。」 私たちはあなたと、あなたの信じる神についていきます。彼女たちは、そう決断したのでした。

 

13節で神は、「わたしは、あのベテルの神だ」とおっしゃいました。ベテル…、そこは、ヤコブがエサウを騙し、彼の憎しみを買って、命を狙われ逃亡した道で、石を枕に夜を過ごしたその場所でした。あの晩、神はヤコブの夢に現れ言いました。「見よ。わたしはあなたとともにいて、あなたがどこへ行っても、あなたを守り、あなたをこの地に連れ帰る。わたしは、あなたに約束したことを成し遂げるまで、決してあなたを捨てない。」(28:15)そう確かに約束されたのです。ヤコブはベテルでのこの神の約束を、一瞬たりとも忘れたことはなかったでしょう。どんなにつらい時も、悲しい時も、眠れぬ夜を過ごす時も、「わたしはあなたとともにいるよ」「あなたがどこへいっても、あなたを守るよ」「必ずカナンに連れ帰るよ」「その時まで、決してあなたを捨てないよ」 ヤコブは、いつも、いつも、このみことばを思い起こし、苦難を乗り越えてきたのです。

ラケルとレアは、ヤコブと連れ添う中で、真の神への信仰が養われていました。14-15節で彼女たちは、実の父親が自分たちにしたことを訴えています。「私たちの父の家には、相続財産で私たちの取り分はない」「私たちは父からよそ者とみなされている」「父は私たちを売った」 けれども、私たちの真の父、天の父なる神さまは、まったく逆なのです。私たちの真の父は、私たちを愛し、かつては罪あるよそ者だった私たちを、御子イエス・キリストの尊い血によって買い戻してくださり、ご自分の子どもとし、御国の相続人としてくださったのです!

 

ヤコブとラケルとレアは、20年の神の訓練を受け、神への信頼という絆で一つになっていました。ベテルの神は、もうヤコブだけの神ではありません。ヤコブの家族の神となりました。こうして「私と私の家とは、主に仕える」と、彼らは告白するに至ったのです。

もう一度ベテルでの神さまの約束を読みましょう。「見よ。わたしはあなたとともにいて、あなたがどこへ行っても、あなたを守り、あなたをこの地に連れ帰る。わたしは、あなたに約束したことを成し遂げるまで、決してあなたを捨てない。」(28:15)私たちも、天の父の家に帰るまで、このベテルでのお約束を握って歩んでまいりましょう。


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