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8月, 2020の投稿を表示しています

お心一つで

「お心一つで」 ルカの福音書  5 章 12-16 節 天の父なる神さま、尊いお名前を心から賛美します。残暑が厳しい中ですが、私たちは 1 週間の務めを終えて、こうして御前に安らぎ、礼拝する恵みに与からせていただきましたことを心から感謝します。どうぞしばらくの時みことばに集中し、あなたのみこころを悟らせてくださいますように。また語るこの小さな者も聖霊のみ助けの中で強められ、大胆にあなたのみことばを語らせて下さいますように。主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン 今日からしばらくルカの福音書から説教をさせていただきます。ルカの福音書は使徒の働きと同様ルカが記した文書です。イエスさまの誕生から昇天までを記した「ルカの福音書」が第一巻、イエスさま昇天後の使徒たちによる福音宣教の様子を記したのが「使徒の働き」で第二巻となります。また歴史家だったルカは、これらの二巻の文書を歴史的側面から整理して書いています。実際ルカの福音書、使徒の働きのはじめには、自ら「綿密に調べて順序立てて書いています」と言っています。そしてルカはパウロと行動を共にしていた時期も長かったですから、ただ出来事を書き連ねるだけではなく、神学的見地をもってこの二巻を書いたとも言われています。 またルカは医者でもありました。彼はきっと人道的で、貧しい人や身寄りのない人、未亡人や社会的に差別されていた人などを診る、そんなタイプのお医者さんだったようです。そのせいでしょうか。ルカの福音書には、多くの女性や子ども、老人、貧しい人、罪人と呼ばれる人、病の人が出てきます。 そして最後にもう一つ、ルカの福音書の特徴としてあげられるのは、「神の国」への言及が多いということです。しかもその「神の国」は非常に逆説的です。「神の国」に招かれている人は、高貴な人でも富む人でも知者でもなく、貧しく、社会から疎外されている人、いつも後回しにされる人、社会の底辺にいる人、「罪人」と呼ばれ人々から敬遠され、軽蔑されている人々なんだと言っているのです。今日の個所もそんなルカが描いたイエスさまと、イエスさまに癒しを求めて近づくツァラアトを患う人が出てきます。 5:12 さて、イエスがある町におられたとき、見よ、全身ツァラアトに冒された人がいた。その人はイエスを見ると、ひれ伏してお願いした。「主よ、お心一つで私をきよくすることがお

「祈る時には」~父なる神を信ず~

「祈る時には:父なる神を信ず」(ルカ 11: 1-2 )  天の父なる神さま。御名があがめられますように。神の国が来ますように。神の言葉に耳を傾けるこの時、どうか聖霊の助けの中で、私たちが心を開き、御言葉のうちにイエス・キリストと出会うことができますように。語る説教者の足らない部分も、どうか聖霊ご自身が補ってください。イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン! 1.   祈るイエスさま   1 節前半  「 さて、イエスはある場所で祈っておられた。」  今日の箇所を読んで、最初に印象に残るのは、祈る主イエスの姿です。それは間違いなく、美しい姿であったろうと思います。  世の中には、人の姿が美しく見える瞬間があります。例えば、仕事に打ち込む人の姿は美しいものです。また時を忘れて読書をする人の姿も美しい。また、愛を注いで子育てをしている母親、また父親の姿も美しい。そのように、持って生まれた顔かたちということではなく、人が美しく見える時があるのです。  私は、今回の聖書箇所を通して思いました。信仰者にとって、神に祈る姿以上に美しいものがあるだろうかと。ちょうど、このすぐ前の 10 章 42 節で、イエスさまは「必要なことは一つだけです」と言われました。その「一つのこと」が、そこに登場するマリアにとっては、御言葉に耳を傾けることだったわけです。その直後の 11 章ですから、イエスさまにとって「必要な一つのこと」は、神との祈りの時間であったのだと。何だか、そのように 11 章 1 節は、語っているようにも思えます。  とにかく、イエスさまの祈る姿は美しかったのです。周りにいる弟子たちも、声をかけずに待っているのです。そう、彼らはじっと、イエスさまが祈り終えるのを待っていたのです。  ルカ福音書は、祈りへの関心がひときわ高い福音書です。記者のルカは、他の福音書以上に祈る主イエスの姿を描いています。またルカは、イエスさまが祈った具体的な内容も時折、少しだけ垣間見させてくれる。例えば、十字架前夜にペテロが、イエスさまを三度「知らない」と言う場面があります。そんなペテロの弱さを知っていた主イエスは、ペテロの信仰がなくならないよう、あらかじめ執り成し祈っていたのです。そんな主の執り成しの祈りを書き留めているのも、このルカ福音書だけです。  ルカが描く祈るイエスさまの周りには

あなたの敵を愛しなさい

「あなたの敵を愛しなさい」 マタイ5:43~48  マタイの福音書は、旧約聖書の預言の成就としてのイエス・キリストを描いていますから、旧約聖書の引用がとても多いです。実は43節「あなたの隣人を愛し」の部分も旧約聖書レビ記 19 章 18 節の「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい。」からの引用です。けれども後半部分、「あなたの敵を憎め」というような記載は、実は聖書のどこにもありません。これはユダヤ人的な慣用句のようです。どうしてこのように言うようになったのかは後で考えてみますが、それにしても「憎め」というのは極端です。何でもオブラートに包んで表現するのが好きな日本人としては、ちょっといただけない。けれどもこれは彼らイスラエル人の独特の言い回しのようです。例えばマタイ 6:24 ではこうあります。「だれも二人の主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛することになるか、一方を重んじて他方を軽んじることになります。あなたがたは神と富とに仕えることはできません。」つまり、「憎む」というのは「愛する」の対義語としてではなく、比較、優先順位を表す表現だということがわかります。富を優先させ、神を軽んじることは「神を憎むこと」だと言っているのです。ですから、今日の個所に出ている「敵を憎む」というのも同じようにユダヤ的な表現だと見れば、なるほどと納得できます。隣人、つまりイスラエルの同胞を大切にし、異邦人と区別せよ、分離せよ、との意味なのでしょう。 ではなぜ、彼らはそんなことを言うようになったのでしょう。それは、長年にわたるイスラエル民族がたどって来た歴史が関係しています。アブラハム、イサク、ヤコブなどの族長時代には、イスラエルの民は定住地を持たず、寄留の民として異邦人の中に住んでいました。けれども彼らはいつもまわりの国や民族にねたまれ、疎まれ、差別を受け、迫害されてきました。その理由はいくつかあると思いますが、主に二つ。彼らが信仰の純潔を守るためにあえて他民族と分離し、距離をとっていたということ。そしてもう一つは、寄留の民の分際で、いつも神さまに祝福され豊かだったことが近隣諸国のねたみを買ったことがあげられるでしょう。イスラエルの民はヨセフがエジプトの危機を救ったことで、一時は好待遇を受けたのですが、その恩を忘れた後代のエジプト王ファラオによってイスラエル人は苦役に服

主の教えに驚嘆し

「主の教えに驚嘆し」 使徒の働き 13 章4~12 天の父なる神さま。あなたの尊いお名前を心から賛美致します。本格的な暑さを迎えていますが、今週も私たちを礼拝の御座へとお招きくださったことを心から感謝致します。そして今私たちは、あなたのみことばを待ち望んでいます。どうぞこの時、心を静め、開かれた心をもって神の言葉に聴くことができますように、聖霊の助けをお与えください。語るこの小さな者をあなたがきよめてください。その欠けたところを聖霊なる神が補ってくださり、神のことばをまっすぐに解き明かさせてくださいますように。期待いたします。生けるみことばイエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン アンティオキア教会は、聖霊の促しによって、バルナバとパウロを宣教のために送り出す決心をしました。そして二人は、教会のみなさんに派遣の祈りをしていただいて、いよいよ第一次伝道旅行に出発し、まずはアンティオキアの港セレウキアに移動しました。アンティオキアは、ローマ、アレキサンドリアに続く大都市でしたから、その港は多くの貿易船が出入りしてさぞにぎやかだったことでしょう。彼らはそのセレウキアの港からキプロスに向けて出港しました。キプロスといえば、バルナバの出身地です。実は5節に出てくる、助手として同行するヨハネもキプロス出身で、なんとバルナバのいとこでした。(コロサイ 4:10 )ヨハネはマルコとも呼ばれていて、前にも二度登場しているのですが、みなさん覚えているでしょうか。ペテロが投獄されていた時に皆がマリアという人の家に集まっていたのですが、そのマリアの息子( 12:12 )として一度目は紹介されています。また二度目はバルナバとパウロが救援物資をアンティオキアからエルサレムに届けた際に、本人が希望したのか、バルナバのスカウトだったのかわかりませんが、マルコと呼ばれるヨハネを連れてアンティオキアに戻って来たと書いてあります。( 12:25 )パウロの宣教スタイルは、いつも若い人を同行させるものでした。若い人に身の回りの世話をしてもらいつつ、弟子訓練をしていたのかもしれません。そう言えば水戸黄門もそうじゃないですか?助さん格さんを連れて、日本全国旅をして世直しに回っていましたね。  さてキプロス島の東岸サラミスに着くと、パウロとバルナバは、まずはユダヤ人の諸会堂(シナゴーグ)で神のこと

神が召した働きに(使徒の働き13:1-3)

「神が召した働きに」 使徒の働き13:1-3 エルサレムではヘロデ王によるキリスト教弾圧が起っていました。そしてまずは使徒ヤコブが剣で殺され、その後ペテロも投獄されました。ところが神さまは御使いを遣わし、不思議な方法でペテロを救い出してくださったのでした。そしてペテロ処刑の企てが失敗に終わったヘロデ王は、失意のうちにカイサリアに帰りました。そして大きな野外劇場で演説をしているさなかに、虫に食われて息絶えたのでした。 さて、舞台は再びアンティオキアに戻ります。アンティオキアの教会は、はじめは迫害によって散らされたユダヤ人クリスチャンによって生まれた小さな群れでした。ところがそこに多くのユダヤ人以外のクリスチャンが加わり、彼らの積極的な伝道によって、さらに救われる人が起こされ、その数は日増しに増えていきました。当初は異邦人の割合が増えて行くことに戸惑いを覚えたユダヤ人クリスチャンたちでしたが、エルサレム教会から視察のために派遣されたバルナバからお墨付きをいただいて、総本山とも言えるエルサレム教会からの認知も獲得することができました。教会は基礎が大事です。バルナバは急成長するアンティオキア教会の基礎を固めるために、当時タルソにいたパウロを呼び、まる一年の間、共に信徒教育に専念しました。密度の濃い一年だったでしょう。けれども別れは突然やってきました。ある時皆で祈っていると聖霊によってバルナバとパウロを世界宣教に送り出すようにと告げられたのです。今日の聖書箇所は、そんな一場面です。 13:1 さて、アンティオキアには、そこにある教会に、バルナバ、ニゲルと呼ばれるシメオン、クレネ人ルキオ、領主ヘロデの乳兄弟マナエン、サウロなどの預言者や教師がいた。 アンティオキア教会は、パウロとバルナバ以外にも素晴らしい預言者や教師たちがいました。ここにはバルナバとパウロ以外に 3 人の名前が出てきます。ニゲルと呼ばれるシメオン、クレネ人ルキオ、そして領主ヘロデの乳兄弟マナエンです。この 3 人の誰が預言者で誰が教師だったのかは聖書には書かれていないのでわかりません。ただ彼らは教会では指導的な立場にあり、今でいう牧師のような役割を果たしていたということは間違いないでしょう。「預言者」は文字通り、神のみことばを神さまから預かって解き明かす賜物を持っている人です。聖書から、また時には直接神のこ