「神に対して富む」 ルカの福音書 12:13-21 父が60代の頃、ネフローゼで長く入院していました。その時にテレビの点数の入ったカードをもって洗面所に行き、そこにカードを置き忘れてきてしまったことがありました。部屋に戻ってカードを忘れたことに気が付いた父は、慌てて洗面所に取りに行きました。すると置いたはずのところにはもうなくなっていたのです。盗まれました。父は残念がりましたが、こんなことを言っていたのを今でも忘れることができません。「ばかだな、わずかばかりに入っていた点数を盗んで、得したと思っているんだろうか。その分心が貧しくなっているのがわからないのかな…。」 今日の説教は「神に対して富む」というタイトルです。「神に対して富む」とはどういうことなのか、逆に「神に対して貧しい」とはどういうことなのか、父の言ったことがヒントになるような気がしたので、まずご紹介しました。お祈りします。 私たちの天の父なる神さま、御名を崇めます。御国が来ますように。みこころがなりますように。私たちはこれからみことばに聞きます。どうぞ心を整え、開かれた心をもってみことばに聞き、悟り、あなたのお取り扱いに身をゆだねることができますように。イエスさまの御名によってお祈りします。アーメン イエスさまは12章のはじめのところで、スズメの価値、人の価値について話し、その後法廷での弁明のことを話されます。おそらくそれに触発されたのでしょう、一人の人が急にイエスさまの話しをさえぎるように言いました。 「先生。遺産を私と分けるように、私の兄弟に言ってください。」 ところがイエスさまは一見冷たく突き放すように言いました。 「いったいだれが、わたしをあなたがたの裁判官や調停人に任命したのですか。」 「先生」という呼びかけは、「ラビ」という意味です。確かにユダヤの伝統として、ラビは地域社会の民事訴訟を扱っていました。それこそ裁判官や調停人の役割りを果たしていたのです。ですからこの唐突な相談も突拍子もないことではないのかもしれません。もちろんイエスさまは、ラビのように聖書を教えていましたし、霊的な指導者でもありました。けれどもイエスさまはもっと大事な使命を帯びていらっしゃる神のみ子、救い主なのです。そして今は十字架の救い...
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