スキップしてメイン コンテンツに移動

投稿

3月, 2021の投稿を表示しています

祈ることの意味(マルコ14:32~42)

  「祈ることの意味」(マルコ1 4 :3 2 ~4 2 )   お祈りをいたします。   天の父なる神さま。あなたのお名前をほめ讃えます。キリストの苦しみを心に刻む、受難の一週が始まるこの朝、私たちは、神の言葉に耳を傾けていきます。どうか聖霊なる神さまが私たちの心を照らしてください。神の言葉を通して、生けるキリストと出会うことができますように。十字架に私たちの罪を背負われた救い主、イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン!     本日の個所はゲッセマネの祈りです。この祈りの前に何があったのか。祈りの場の雰囲気を知るためにも大切なので、少し振り返ります。   ここに至る前にイエスさまは、弟子たちと最後の晩餐を共にしました。そこで弟子たちは、驚くべきことを耳にします。まずは、食事を一緒にしている弟子の一人が裏切るということ。そして、その他の弟子たちも皆、つまずき散らされていくこと。さらに弟子のリーダー格であるペテロは、何と今夜、鶏が二度鳴く前に三度、イエスさまを知らないということ。  これらを次から次に聞かされましたので、ゲッセマネに向かう途上、弟子たちは困惑していたと思います。「この後、何か大変なことが起こるのだ」と、その心は穏やかではなかったでしょう。しかし、困惑していたのは、実は弟子たちだけではなかったのです。   1.   「同じ人」であるイエスさま 33-34 節「そして、ペテロ、ヤコブ、ヨハネを一緒に連れて行かれた。イエスは深く悩み、もだえ始め、彼らに言われた。『わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここにいて、目を覚ましていなさい。』」 「悲しみのあまり死ぬほど」! 私はこのような悲しみや弱さを口にするイエスさまに驚きました。そして気づいた。この祈りの時間、イエスさまは、「神の子」と言うより、あくまでもひとりの人として、試みの中を苦しんだのだと … 。イエスさまはスーパーマンではなかった。一人の生身の人間として、このゲッセマネで祈られたのです。  この個所は、祈りを描く個所としては少し異例です。マルコ福音書は1章や6章で、祈るイエスさまを描いてきましたが、いずれもイエスさまは一人で祈っていました。けれどこのゲッセマネでイエスさまは、三名の弟子を伴って行く。そして「ここにいて、目を覚ましていなさい」と。

二人の犯罪人(羽化の福音書23:39~43)

  「二人の犯罪人」 ルカの福音書23:39~43  先週は、クレネ人シモンの視点から、イエスさまの十字架を見てみました。今日の個所では、イエスさまの両側で、同じく十字架刑に処せられた二人の犯罪人を見つつ、 彼らの視点 から、イエスさまの十字架を見てみたいと思います。 今日の記事は、非常にルカらしいと言えるでしょう。二人の犯罪人については、マタイやマルコもそれぞれの福音書で触れていますが、二人まとめて、「イエスをののしった」となっており、ルカほど詳細には記していません。この二人がそれぞれ、対照的な反応をし、異なる最後を迎えたことは、ルカだけが記しています。 またルカは、対比を用いて真理を語る手法をよく用います。有名なところで、「ラザロと金持ち」「マルタとマリヤ」「パリサイ人と取税人の祈り」などがありますが、ここでもルカは、イエスさまの両側にいた二人の犯罪人を対比させて描いています。 そして、最後に逆転が起こるというのも、「まさかこの人が!?」という人が、救われるというのも、ルカの福音書や使徒の働きのいたるところに出てきます。例えば、「放蕩息子」「ザアカイ」「不品行の女」、そして「パウロの回心」などです。そして、今日の個所でも、イエスさまと一緒に十字架刑に処せられた犯罪人が、最後の最後に、イエスさまから「あなたは今日、私とともにパラダイスにいます」と言われます。これまた、まさかの大逆転です!   23:39 十字架にかけられていた犯罪人の一人は、イエスをののしり、「おまえはキリストではないか。自分とおれたちを救え」と言った。 これが一方の犯罪人の態度でした。どうしてこんな態度をとっているのでしょう。 3 つの可能性があります。一つは同調意識が働いたのでしょう。 35 節を見ると、まわりに立って眺めていた民衆や議員たち、そしてローマ兵たちは、嘲笑って言いました。「あれは他人を救った。もし神のキリストで、選ばれた者なら、自分を救ったらよい。」「おまえがユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ」。そして、イエスさまの頭上には「これはユダヤ人の王」と書かれた札が掲げられていました。「ユダヤ人の王」「キリスト」「メシヤ(救世主)」「選ばれた者」、そんな肩書にはそぐわないこの憐れな男、そのギャップを彼らは笑ったのです。そしてこの犯罪人もそれに同調しました

十字架の後ろで(ルカの福音書23:15~31)

  「十字架の後ろで」 ルカの福音書23章16~31節  今日の個所でクレネ人シモンという人が出てきます。十字架の記事では多くの登場人物が出てきますが、このクレネ人シモンについては、マタイの福音書でも、マルコの福音書でも取り上げています。彼は、ほんの一場面出てくるだけですが、非常に強い印象を人々に残しているのです。   23:26 彼らはイエスを引いて行く途中、田舎から出て来たシモンというクレネ人を捕まえ、この人に十字架を負わせてイエスの後から運ばせた。 イエスさまは、前の晩一睡もしていませんでした。裁判を受け、人々から乱暴に扱われ、鞭打たれ、弱り切っているのを見たローマ兵は、イエスさまには十字架を背負って丘を登る体力はないと判断しました。そして一人の男、たまたま過ぎ越しの祭りの巡礼のために、エルサレムを訪れていたクレネ人シモンを捕まえ、イエスさまの代わりに十字架を負わせ、イエスが歩く後ろからついて行かせたのです。おそらく十字架の柱部分は、処刑場、ゴルゴダの丘に置いてあり、彼が担いだのは横木だけだったのではないかと言われています。それでも 40 キロから 50 キロはあったようです。クレネ人といえば北アフリカ、今日(こんにち)のリビアあたりに住む人です。おそらくその風貌はユダヤ人とは違っていたことでしょう。エルサレムの住人やローマ市民には罪人(ざいにん)の十字架を担がせるわけにはいきませんから、どう見てもよそ者の彼に、白羽の矢が立ったのでしょう。とにかく彼は、ローマ兵の目に留まり、無理やりイエスの十字架を担がせられることになります。   23:28 イエスは彼女たちの方を振り向いて言われた。「エルサレムの娘たち、わたしのために泣いてはいけません。むしろ自分自身と、自分の子どもたちのために泣きなさい。 23:29 なぜなら人々が、『不妊の女、子を産んだことのない胎、飲ませたことのない乳房は幸いだ』と言う日が来るのですから。   クレネ人シモンが、イエスの後ろをついて歩いていると、民衆や女たちがその後に続きました。この女たちは、「エルサレムの娘たち」でした。イエスさまの女の弟子たちのほとんどは、ガリラヤの女性でした。ですから、この「エルサレムの娘たち」というのは、いつもイエスさまについて歩いて、身の回りの世話をしていた女の弟子ではなくて、いわゆる「泣き

あなたのために祈った(ルカ22:31~34)

  「あなたのために祈った」 ルカの福音書 22:31~34   イエスさまが十字架にかかられる前夜の晩餐の席のことでした。イエスさまは、弟子たちと一緒に過ぎ越しの食事をされました。過ぎ越しの食卓というのは、ユダヤ人の一般家庭にとっては、信仰継承、教育の場でした。食事をしながら、なぜ過ぎ越し祭の食事では、種なしパンや苦菜を食べるのかを話し、神がどうやってイスラエルの民をエジプトから救い出したのかを語り伝えたのです。ですから、イエスさまも食事の席で弟子たちに向かって、大切なことを話されました。パンと杯を手に取りながら、新しい救いの約束について弟子たちに語られたのです。   しかしその食卓でイエスさまは聞き捨てならないことをおっしゃいました。それは、 「わたしを裏切る者の手が、わたしとともに食卓の上にある」 ( 21 節)ということでした。弟子たちは、まさかそんなことがあろうかと互いに顔を見合わせます。そして、その議論はいつしか、「自分たちのうちでだれが一番偉いか」ということに発展していくのでした。 さて、弟子たちがそんな議論をしているとき、ペテロはどうしていたのかと想像します。おそらく彼は、自分は自他共に認めるイエスさまの一番弟子だから、別枠であろうと、腕組みをしながら、他の弟子たちの議論を他人事のように聞いていたのではないかと思うのです。そんな矢先、「シモン、シモン」とのイエスさまの語りかけがあります。ペテロは、「さあ来た!イエスさまは、とうとう私を弟子たちの中での最高位に任命するか!」と思ったかもしれません。しかしそうではありませんでした。イエスさまの口からは、「サタンがあなたをふるいにかける」「あなたの信仰がなくならないように」と、耳を疑うような言葉が出てきたのです。ペテロは唖然としたことでしょう。そして、慌ててその言葉を打ち消します。 「あなたとご一緒なら、牢であろうと、死であろうと、覚悟はできております。」 ( 33 節)しかし、イエスさまはとどめを刺すように言うのです。 「今日、鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしを知らないと言います。」 ( 34 節)「いつか」とか「そのうち」ではなく、今日、舌の根の乾かぬ内に、あなたはわたしを裏切るのだと言われるのです。ペテロはもう、返す言葉も見つからないほど、ショックを受けたことでしょう。   3