「岸辺に立つイエス」(ヨハネ 21:1-9 ) 4 節「夜が明け始めていたころ、イエスは岸辺に立たれた。」 岸辺に立った主イエスの眼差しは、 1 つの方向に向けられていました。それは夜通し続いた漁が徒労に終わった、ティベリア(或いはガリラヤ)湖上の弟子たちに向いていたのです。岸辺に立つ主の眼差しは、湖上の弟子たちに向けられている。 今日は、御言葉を思いめぐらす中、この眼差しの方向を常に心に留めておきたいと思います。 お祈りします。「光あれ」と、言葉をもって世界を造られた神さま。今、ひとたび私たちは神の言葉に耳を傾けます。聖霊が心を照らし、私たちの命もまた新たにされますように。どうかみことばのうちに、復活の主の御声を聴くことができますように。復活の主、イエスさまのお名前によってお祈りします。 1. なぜ漁に 2-3 節「 シモン・ペテロ、デドモと呼ばれるトマス、ガリラヤのカナ出身のナタナエル、ゼベダイの子たち、そして、ほかに二人の弟子が同じところにいた。シモン・ペテロが彼らに『私は漁に行く』と言った。すると、彼らは「私たちも一緒に行く」と言った。彼らは出て行って、小舟に乗り込んだが、その夜は何も捕れなかった。 」 「私は漁に行く」と言うペテロ。そして、他の四人もそれに付いていった … 。もうすでに復活の主イエスに出会っているにもかかわらず、以前の生業、仕事であった漁に出かける。この五人の弟子たちの行動は、その良し悪しをめぐって聖書注解者たちの間でいろいろ議論になっています。 厳しい見方をする人は、「何だ、だらしない。昔の仕事に戻ったのか。主の弟子であることをやめたのか」と、結構手厳しい。 それに対してゆるい見方は、こんな感じ。「まあ、弟子とはいえ、実際の生活もあるのだから」と。 弟子たちの行動を厳しく見るか、ゆるく見るか。私自身は、その中間 … というところです。 私は彼らを、「だらしない」とは思いません。彼らは、十字架直後に項垂れていた時と今では違います。復活の主に出会ったのです … 。でも、少し残念さはある。 復活の感動を味わい、すぐ前の 20 章 21 節で、主御自身が「父がわたしを遣わされたように、わたしもあなたがたを遣わします」と弟子たちに言われたのを思うと、漁に出かける弟子たちの姿はやはり物足
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