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12月, 2021の投稿を表示しています

幼子のことを語った(ルカの福音書2:36〜38)

「幼子のことを語った」(ルカ 2 : 36 ~ 38 )   お祈りします。 「私の目があなたの御救いを見た」。天の父なる神さま、私たちは、クリスマスの喜びを胸に抱きつつ、今日も神の言葉に聴いています。聖霊が私たちを照らし、この礼拝の内に再び、キリストと出会うことができますように。暗闇に輝く光、イエス・キリストのお名前によってお祈りします。 アーメン!  1.      シメオンの光の陰で 38 節(読む) 38 節冒頭、「ちょうどそのとき」とは、いつのことでしょう。「ちょうどそのとき」、、それは前の頁に登場する老人シメオンが、神の宮で幼子イエスに出会った、「ちょうどその時」でした。  25 ~ 26 節(読む) シメオンは「正しい、敬虔な人」だったと聖書は記します。しかもただ正しくて敬虔だっただけでなく、何と「キリストを見るまで」死ぬことがないとのお告げまで、彼は受けていた。 シメオンは、相当な高齢だったと思われますが、そのシメオンが、ついに神の宮で幼子イエスに出会っていく、「ちょうどその時」、アンナもその場に居合わせたのでした。 シメオンが幼子に出会う場面は感動的です。彼は思わず幼子を抱き、神をほめたたえる。 今日の招きの御言葉でもありますが、シメオンは語ります。「私の目があなたの御救いを見た」と。 そして、神を賛美した後、幼子の将来についても語っていく。 これはなかなかにドラマチックな場面です。そして、「ちょうどその時」、そこにアンナがいたのです。  イスラエルの律法、掟は、まことに大事な事柄については、それを確かなものとするために二人の証人が必要だ、と求めています。救い主キリストが世に来られたという、この一大事を証しするために、神は老人シメオンを一人目の証人に選んだのでしょう。 そして、今日の聖書箇所に登場するアンナ、今日は、私たちのアンナと呼びたいのですが、このアンナが二人目の証人でした。こうやって二人で証ししているのです。まことに救い主が、人となり、しかも最初、幼子として地上に来られたのだと。  しかしこのアンナ、二人目の証人と言っても、登場の仕方はまことに地味でした。 そう、シメオンの輝きの陰に隠れて、本当に目立たない。長さにしてわずか3節。 うっかりすると読み飛ばしてしまうかもしれない。 アンナは、はっきり言え

12月24日 クリスマスイブ・キャンドル礼拝

ゆるし〜五郎くんのクリスマスプレゼント(ヨハネの福音書3:16)

① 五郎君は男ばかりの五人兄弟の長男。小学五年生です。 今日は5人みんなで居間に集まって、なにやらワイワイガヤガヤ話しています。 「もうすぐ待ちに待ったクリスマス。 今年はみんな、サンタさんにどんなプレゼントをお願いするの?」 おもちゃの広告や雑誌を広げて、誰が何を頼むのかおしゃべりしています。 「うーん。ミニカーも欲しいけど、プラモデルも捨てがたい…  ねえ、ねえ、五郎兄ちゃんは何を頼むの?」 「へへん。俺はもう、とーっくの昔に何を頼むか決めてるんだ。   今年は絶対にラジコンヘリコプターだ!   赤くて超かっこいいやつ。ぜったいにこれ!」 五郎君はずっと前から欲しかったラジコンがあったのです。 クリスマスにサンタさんにもらう事をとっても楽しみにしていました。   ②けれども 数日後、5人にとてもショックな知らせが告げられたのです。 「サンタさんは今年は一身上の都合により我が家には来られなくなりました。  残念だけど、今年のプレゼントは我慢してくださいね。」   可愛そうな5人兄弟。 チビなんて悲しみのあまり大泣きです。 五郎君だってチビと同じくらい泣きたい気持ちです。 だってあんなに楽しみにしていたんですもの。   ③ 日曜日、五郎君は教会学校に行って聖書のお話を聞きました。 教会学校の先生がクリスマスのイエス様誕生のお話をしてくれました。 「イエス様は私達の罪を赦すためにこの世界にお生まれになったのよ。  そのことをお祝いするのがクリスマスですよ。  だからイエス様が最高のクリスマスプレゼントってことね。嬉しいわね。」   部屋の隅でお話を聞いていた五郎君は思いました。 「イエス様は最高のクリスマスプレゼントかもしれないけど、  俺はラジコンだって欲しいもん…  ラジコンのもらえないクリスマスなんてあんまり嬉しくないや…」 五郎君の気持ちはなかなか晴れません。   ④ 教会からの帰り道、五郎君が腐った気持ちで公園を歩いていると、 ブルルルルーンと、遠くから音が聞こえてきました。 見上げるとそこには五郎君が欲しかったラジコンヘリコプターが飛んでいました。 「あ、あれ、俺が欲しかったやつだ!  いいなぁ。やっぱりかっこいいなぁ。  なんだよ、俺よりずっと小さい子が遊んでるじゃんかよ。悔しいなぁ。」 五郎君は羨ましくて羨ましくてしょうがありま

ことばは人となって(ヨハネの福音書1:14〜18)

「ことばは人となって」 ヨハネの福音書1:14~18 ヨハネの福音書の構成は大変ユニークで、他の共感福音書は、たいていイエスさまのなさったこと、語ったことを紹介しながら最後に、「ほら、このお方は本当に神の御子、救い主でしょ!」となるのに、ヨハネの福音書は初めから、どこを切っても「御子イエス・キリストは救い主です。さあ、これを受け取りなさい!」と迫って来る印象を受けるのです。また、この1章では、バプテスマのヨハネの出現と彼の証しについて語ろうとするのですが、記者ヨハネは、その証しの内容について語り始めてしまい、ついついそこに力が入ってしまい、ボリュームたっぷりに語られることになります。今日の箇所にある19節でも、「さて話は戻って…」とバプテスマのヨハネに話しを戻しています。15節「 ヨハネはこの方について証しして、こう叫んだ。「『私の後に来られる方は、私にまさる方です。私より先におられたからです』と私が言ったのは、この方のことです。」」 あれ?と思われた方もおられるでしょう。バプテスマのヨハネはイエスさまより、6カ月先に生まれています。ヨハネが「私より先におられた」というのはどういうことなのでしょう。それは先の2回のメッセージを聞いておられる方はもうおわかりでしょう。そうです。イエスさまは永遠のはじめから神と共におられ、神と共に世界を創造されたと私たちは学んできました。また、御子を通しての救いのご計画は、旧約聖書の時代からずっとあって、そこに向かって進められてきましたから、ヨハネはここで「わたしより先におられた方」と言っているのです。   1:14 ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。 「ことば」とは、永遠のはじめからおられた三位一体の神の一つの位格、創造のわざに参与されたそのお方です。その神が「人となった」とあるので驚きです。そうは言っても私たち日本人の神観は、「あそこにもここにも神がいる」という汎神論的な神観なので、この「神が人となられた」ということへの驚きや感動が少ないのが残念です。みなさん、これはすごいことなのです。これを神学用語で「受肉」と言います。実際この「人となって」のところを直訳すると「肉(肉体)をとって」という意味に

まことの光(ヨハネの福音書1:9〜13)

「まことの光」 ヨハネの福音書1:9~13 先週は、五十三先生がヨハネの福音書1章1節から5節までみことばを紐解いてくださり、生けるみことばであり、私たちと関わってくださる人格としてのいのちの源、イエス・キリストについて語られました。ヨハネの福音書の書かれた目的ははっきりしています。20章31節にある通り、「イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるためであり、また信じて、イエスの名によっていのちを得るためである。」です。ヨハネはこの目的に向かって、出だしからいきなり攻めて来る、そんな直球勝負を感じる出だしでした。 続いて、今日は読みませんでしたが、6節から8節まではバプテスマのヨハネのことが書かれています。彼は光であるイエス・キリストを証しするために神から遣わされました。この「証しする」という言葉は、特にヨハネの福音書においては、「証拠・根拠」という意味で使われるそうです。しかもこの「証し」は単に、事実を述べるというだけでなく、証拠を突きつけ、「さあ、これが証拠だ!信じるのか?信じないのか?」そう聴く者に決断を迫ってくるような「証し」だと言うのです。ですから、イエスさまの先駆けとして現れたバプテスマのヨハネの出現は、当時の人々に少なからず衝撃を与えたようです。当時の一般の歴史書では、イエスさまの誕生の記事はほとんどないのですが、バプテスマのヨハネについてはいくつかの書物で取り上げられているらしいです。このように彼は、非常にインパクトのある人物ですが、この福音書の記者は、彼は光ではないと、ただ光について証しをするために来たのだと強調します。こうして、スポットライトは、バプテスマのヨハネから、光そのものであるイエス・キリストに移っていくのでした。   1:9 すべての人を照らすそのまことの光が、世に来ようとしていた。  このすべての人とは、‘ Anyone ’つまりすべての国、すべての民族、すべての原語を持つ人々のことを表しています。まことの光が全ての人を照らすために、今まさに、世に来ようとしていた。「まことの光」と言うからには、偽物の光、見せかけの光もあるわけです。人は誰しも光を求めています。誰も暗闇にいたくありません。暗闇は怖いですし、寂しいです。けれどもなぜか「まことの光」に向き合おうとはしません。なぜでしょうか。自分の心の闇が、罪があぶ