「神の国が来るということ」 (マタイの福音書 6:9 ~ 10 ) 最近、私が頻繁に祈る言葉があります。それが今日の主題です。「父よ、御国が来ますように」あるいは「神の国が来ますように」と、私はよく祈るようになりました。 なぜか。もうお分かりだと思います。ウクライナでの戦争のことが重く心にのしかかっているのです。 プーチン大統領の横暴を見ていると、恐ろしいと思います。国というものは、誰が治めるかで、これほど違うものなのだと。いったい誰が支配者か。それによってもたらされるものは、全く違う。だから祈るのです。「神の国が来ますように」と。 そんな祈りを込めて、招きの言葉はイザヤ 33 章 22 節でした。 「まことに、 主 は私たちをさばく方、 主 は私たちに法を定める方、 主 は私たちの王、この方が私たちを救われる。」イザヤは言います。主が王となってさばきを行い、法を定めると、そこには救いが起こる。主の法、つまり神の言葉が私たちを支配すると、そこに救いが訪れる。だから私たちは祈るのです。「御国」が来ますように、と。 今日は、三つのことを一緒に考えたいと思います。 1. 御国とは ? 第一に「御国」とは何でしょう。何だと思われますか。もし「御国」と聞いて、いわゆる死んだ後の天国を思い浮かべるとしたら、それも含みますが、正確には違います。讃美歌にあるでしょう。「ここも神の御国なれば」。「御国」はすでに始まっているのです。 「御国」という言葉、原文を見ると「王国」という言葉です。王国というからには、王がいるのです。愛と恵みに満ちた、きよく正しい王、つまり神が治めているところ、それが「御国」です。これを正確に伝えるには、私は御国より「神の国」の方がいいと思っています。 神が王として真ん中におられ、支配しているならば、そこに「神の国」がある。だから世界中のどこにでも神の国を見つけることができます。今、戦火の真っただ中にいるウクライナの人々の内にも「神の国」があり得るのです。 戦争が始まって一週間ほど過ぎた三月三日早朝、オンラインでウクライナのクリスチャンたちと共に祈る集まりに参加しました。彼らは苦しみの中、奇跡が起こるようにと祈っていま...
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