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心合わさる祈り(詩篇86:6〜11)

『心合わさる祈り』

詩篇86:6-11

 1、詩人の願い (6,7節)

・『苦難の日に私はあなたを呼び求めます』(7)

 苦しみの中で神に祈る状況を書き記す。私たちも、苦しみの中での祈ることがある。

2、賛美(8-10節)

 詩人は具体的な願いを祈る前に、主をほめたたえる・賛美する祈りを献げる。

・『神々のうちで』:まことの神が、人の造り出した偶像、御使いなどの天的存在と比べられない。

・『すべての国々は…伏し拝み』:全ての人にほめたたえられ、礼拝されるべきお方である。

※この詩人は、神を賛美し、その中で神はどのようなお方かを思い巡らす。

3、心合わさる祈り(11節)

 神への賛美を通し、神がどのようなお方かを思い巡らす時、私たちの祈りは変えられる。

・『あなたの道を教えて下さい』:神が人間に期待される道を進ませて下さいとの願い。

・『私の心を一つにしてください』:神の御心に自分の思いを合わさせて下さいとの祈り。

 投げやりの姿勢や妥協でもなく、「神の御心が必ず最善である」という確信の祈り。

 祈りの中で、神への賛美を通し、神の偉大さ・神の素晴らしさを思い巡す時、その神のなされることが必ず最善であるという、神への信頼をより強固にさせる祈りに結ばれていく。

松戸福音教会 山田契実



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