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主がゆるされたように(マタイの福音書6:12)



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人生の分かれ道(創世記13:1~18)

「人生の分かれ道」 創世記13:1~18 さて、エジプト王ファラオから、多くの家畜や金銀をもらったアブラムは、非常に豊かになって、ネゲブに帰って来ました。実は甥っ子ロトもエジプトへ同行していたことが1節の記述でわかります。なるほど、エジプトで妻サライを妹だと偽って、自分の命を守ろうとしたのは、ロトのこともあったのだなと思いました。エジプトでアブラムが殺されたら、ロトは、実の親ばかりではなく、育ての親であるアブラムまでも失ってしまうことになります。アブラムは何としてもそれは避けなければ…と考えたのかもしれません。 とにかくアブラム夫妻とロトは経済的に非常に裕福になって帰って来ました。そして、ネゲブから更に北に進み、ベテルまで来ました。ここは、以前カナンの地に着いた時に、神さまからこの地を与えると約束をいただいて、礼拝をしたところでした。彼はそこで、もう一度祭壇を築き、「主の御名を呼び求めた」、つまり祈りをささげたのです。そして彼らは、その地に滞在することになりました。 ところが、ここで問題が起こります。アブラムの家畜の牧者たちと、ロトの家畜の牧者たちとの間に争いが起こったのです。理由は、彼らの所有するものが多過ぎたということでした。確かに、たくさんの家畜を持っていると、牧草の問題、水の問題などが出てきます。しかも、その地にはすでに、カナン人とペリジ人という先住民がいたので、牧草や水の優先権はそちらにあります。先住民に気を遣いながら、二つの大所帯が分け合って、仲良く暮らすというのは、現実問題難しかったということでしょう。そこで、アブラムはロトに提案するのです。「別れて行ってくれないか」と。 多くの財産を持ったことがないので、私にはわかりませんが、お金持ちにはお金持ちの悩みがあるようです。遺産相続で兄弟や親族の間に諍いが起こるというのは、よくある話ですし、財産管理のために、多くの時間と労力を費やさなければならないようです。また、絶えず、所有物についての不安が付きまとうとも聞いたことがあります。お金持は、傍から見るほど幸せではないのかもしれません。 1900年初頭にドイツの社会学者、マックス・ウェーバーという人が、『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』、略して『プロ倫』という論文を出しました。そこに書かれていることを簡単にまとめると、プロテス...

心から歌って賛美する(エペソ人への手紙5:19)

「心から歌って賛美する」 エペソ人への手紙5:19 今年の年間テーマは、「賛美する教会」で、聖句は、今日の聖書箇所です。昨年2024年は「分かち合う教会」、2023年は「福音に立つ教会」、2022年や「世の光としての教会」、2021年は「祈る教会」、 20 20年は「聖書に親しむ教会」でした。このように振り返ってみると、全体的にバランスのとれたよいテーマだったと思います。そして、私たちが、神さまから与えられたテーマを1年間心に留め、実践しようとするときに、主は豊かに祝福してくださいました。 今年「賛美する教会」に決めたきっかけは二つあります。一つは、ゴスペルクラスです。昨年一年は人数的には振るわなかったのですが、個人的には、ゴスペルの歌と歌詞に感動し、励ましを得た一年でもありました。私の家から教会までは車で45分なのですが、自分のパートを練習するために、片道はゴスペルのCDを聞き、片道は「聞くドラマ聖書」を聞いて過ごしました。たとえば春期のゴスペルクラスで歌った「 He can do anything !」は、何度も私の頭と心でリピートされました。 I cant do anything but He can do anything! 私にはできない、でも神にはなんでもできる。賛美は力です。信仰告白です。そして私たちが信仰を告白するときに、神さまは必ず応答してくださいます。 もう一つのきっかけは、クリスマスコンサートのときの内藤容子さんの賛美です。改めて賛美の力を感じました。彼女の歌う歌は「歌うみことば」「歌う信仰告白」とよく言われるのですが、まさに、みことばと彼女の信仰告白が、私たちの心に強く訴えかけました。   さて、今日の聖書箇所をもう一度読みましょう。エペソ人への手紙 5 章 19 節、 「詩と賛美と霊の歌をもって互いに語り合い、主に向かって心から賛美し、歌いなさい。」 「詩と賛美と霊の歌」というのは何でしょうか。「詩」というのは、「詩篇」のことです。初代教会の礼拝では詩篇の朗読は欠かせませんでした。しかも礼拝の中で詩篇を歌うのです。確かにもともと詩篇は、楽器と共に歌われましたから、本来的な用いられ方なのでしょう。今でも礼拝の中で詩篇歌を用いる教会があります。 二つ目の「賛美」は、信仰告白の歌のことです。私たちは礼拝の中...

慰めを待ち望む(ルカの福音書2章21~35節)

「慰めを待ち望む」 ルカの福音書 2 :21~35 21~24節には、律法の習慣(レビ記12:1~8)に従うイエスさまの姿が描かれています。もちろんイエスさまは生後間もない赤ちゃんですから、律法の習慣に従ったのはマリアとヨセフなのですが、実は、イエスさまは律法を制定される側のお方なだということに思いが至るときに、ご自分の制定された律法に自ら従われる姿に、人として歩み始めたイエスさまの覚悟と本気を見る思いです。 まずは、八日目の割礼です。ユダヤ人は生後8日目の男子の赤ちゃんに割礼を施すことが律法で定められていました。割礼は、天地万物を創られた唯一の神を信じる民、「神の民」としての特別な印でした。神さまと特別の約束を交わした民としてのしるしです。そしてこの日に、み使いが両親に告げられた「イエス」という名前を幼子につけたのです。 次に40日の清めの期間が終わったあとの宮詣です。日本でいうお宮参りといったところでしょうか。40日というのも、レビ記にある規定で、女性が男子のあかちゃんを生んだ場合、7日間は、宗教的に汚れているとされて、その後33日間の清めの期間があり、合わせての40日が、その期間となります。(ちなみに女の子の場合は、2週間の汚れた期間を経て、66日間清めの期間を過ごします)この間、母親は隔離されるわけですが、産後のママにとってはありがたい時期です。今みたいに洗濯機や掃除機、炊飯器などがない時代、家事は女性にとって重労働でした。そこから解放されて、自分の体の回復と、新生児のお世話だけしていればいいこの時期は、産後のママにとって必要不可欠な時期だったのです。そして、その期間が明けて、マリアのからだも十分に回復して、 彼らはエルサレム神殿に向かったのでした。 Google マップで検索すると、ベツレヘムからエルサレムまで、距離にして8.9キロ、車で20分の距離です。もちろん当時は車はありませんので、徒歩だと2時間弱というところです。産後の身にとっては、ロバに乗って行ったとしても、決して近いとは言えない距離です。こうして、マリアとヨセフ、小さな赤ちゃんのイエスさまは、エルサレムの神殿に向かったのです。 さて、宮に着くと、律法の規定に基づいて、ささげものをします。ささげものの内容も決まっています。それは、生まれたのが男子であっても女子であっても同じで...