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小さな子ども(サムエル記第一20:35〜42)

サムエル記第一 20:35 ‐ 42 「小さい子ども」  2023 年 3 月 26 日 新船橋キリスト教会 市川福音キリスト教会  李到玄(リ・ドヒョン)牧師 約 19 年前の今頃、 2004 年 3 月の 30 日、妻の呉先生と小さい子ども一人を連れて成田空港を通して宣教師として来日しました。その時はもうすでに牧師として按手を受けていましたけれども、日本語学習のため、印西市にある東京基督教学園の共立研究所に入り、家族寮での生活を始めました。 日本に遣わされる時、与えられた神の約束のことばがありました。 イザヤ 60:22 「最も小さい者も軍団となり、最も弱い者も強国となる。わたしは主。時が来れば、速やかにそれをする。」 本当に心強かったです。神から与えられる約束のことばであり、神、ご自身がそれを成し遂げてくださることを信じていたからです。 それ以来、 2004 年の 10 月に市川に導かれ、 2007 年には同盟教団に加入させていただき、同盟の一員になり、今に至っています。そして、最近、早天祈祷会の時、聖書に出て来る小さい子どもの姿を見つけて、泣き出しました。自分の姿をそこで見つけたからです。今日の本文を通して神の国の大多数を占める「最も小さい者、最も弱い者」が誰なのかが分かって来たらと願います。 サウル王の王座を継承するはずの王子、ヨナタンは、サウル王の代わりにイスラエルの新しい王様として油注がれたダビデとライバル関係になりがちです。しかし、ヨナタンはむしろ、ダビデの友になり、ダビデを助ける立場になっていました。ヨナタンはダビデを新しい王様として油注がれたのが神であることを知っていましたし、それに従っていたわけです。 35 朝になると、ヨナタンは小さい子どもを連れて、ダビデと打ち合わせた時刻に野に出て行った。 36 そして子どもに言った。「走って行って、私が射る矢を見つけておいで。」子どもが走って行くと、ヨナタンは、その子の向こうに矢を放った。 37 子どもがヨナタンの放った矢のところまで行くと、ヨナタンは子どもの後ろから叫んだ。「矢は、おまえより、もっと向こうではないか。」 38 ヨナタンは子どもの後ろから、また叫んだ。「早く。急げ。立ち止まってはいけない。」その子どもは矢を拾って、主人ヨナタンのところに来た。 39

一粒の麦(ヨハネの福音書12:24~26)

「一粒の麦」 ヨハネの福音書12:24~26 24節「 まことに、まことに、あなたがたに言います。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままです。しかし、死ぬなら、豊かな実を結びます。」   イエスさまは、「死」について語られました。「死」の話しはできれば避けたいものです。縁起でもないと遠ざけるが死の話題です。しかも今この時、この場面でイエスさまが「死」について話されるのは意外なことでした。なぜなら、たった今、熱狂的なイエスさまファンに迎えられ、お祭りのような騒ぎでエレサレムに入城したばかりだったからです。そのイエスさまが「死」について語る。しかも他の誰でもない、ご自分の「死」について。私たちは人生の絶頂期に「死」を考えるでしょうか。できれば、この絶頂期を満喫し、自分の意識から「死」遠ざけ、なるべく見ないようにするのではないでしょうか。しかしイエスさまは、地上の生涯で、一瞬たりとも「死」から目を離したがありませんでした。むしろイエスさまの短い生涯は、「死」を目指すものだったのです。「死」こそが、イエスさまの究極の目的だったのです。 ところが23節で、死を語る前に、イエスさまは言うのです。「人の子が栄光を受ける時が来ました」。人々の歓喜の中、エルサレム入城したときこそふさわしい言葉ではないでしょうか。けれども、イエスさまはエルサレム入城のそのときには、そんなことおっしゃいませんでした。イエスさまは知っていたのです。そんな歓喜は泡のように消えてしまうことを。実際、この後すぐに、人々の歓喜の声は、「十字架につけろ!」という怒号に変わるからです。イエスさまの栄光は絶頂期にはなかった。そして今、イエスさまは静かに、「栄光を受ける時が来た」というのです。いったい何があったのでしょうか。それは、何人かのギリシア人が、ピリポとアンデレを通して、イエスさまに面会を頼んだ出来事でした。ユダヤ人たちは政治的メシア(救世主)としてのイエスさまを歓迎しました。しかし、ギリシア人たちは、イエスさまを政治的メシアとして期待して会いに来たわけではありません。彼らの期待は、自分たち異邦人も含む、世界のメシアとしてのイエスさまだったのです。彼らはユダヤ人の祭りのためにエルサレムを訪れていた巡礼者ですから、イスラエルの神を信じる人々でした。けれども、異邦人ですから、神殿の外庭(異邦人の庭)までしか入

ともに一つのパンを食べ(Ⅰコリント10:14〜17)

ともに一つのパンを食べ』   Ⅰコリント10:14-17     春がやって来ました。昨日はあの震災から12年目の3月11日でした。今なお世界は戦争、 疫病、災害の中にあります。そして今、私たちは主の受難を覚える季節を過ごしています。その ようなこの朝、ともに礼拝をおささげできる恵みに感謝します。愛する新船橋キリスト教会の皆 さまの上に主の豊かな祝福がありますように祈ります。  1.偶像礼拝を避けよ    14節。「ですから、私の愛する者たちよ、偶像礼拝を避けなさい」。パウロはコリントの教会 にこう勧めます。ローマ帝国有数の大都市コリント。その街にある教会は都会の大きな有力教 会でしたが、様々な問題を抱える教会でもありました。とりわけ大きな問題となっていたのが分 裂・分派、聖霊の賜物を巡る混乱、性的な不品行、そして偶像礼拝を巡る問題でした。コリント にはギリシャの様々な異教の神々の神殿があり、そこでは連日、異教の宗教行事が行われて いました。キリスト者となってもこの町で生きる以上、それらのものとまったくかかわりなく生きる ことは難しい。異教の宗教行事とどのように向き合うかは大きなテーマでした。   そこでパウロが勧めるのは「避けなさい」ということです。「避ける」というのはむしろ「逃れ る」ということです。これは性的不品行についても勧められていたことでした。偶像礼拝と性的 な罪については、とにかく避けろ、逃げろ、その場を離れろというのです。そこでは「私は大丈 夫」ということはないのです。むしろその手の罪に触れているとやがてそれを隠す事が起こって きます。「隠蔽」です。次にあれこれと自分の行為に理由付けをし、やむをえなかったと言い訳 をし、「妥協」するようになる。そしてやがてはあれとこれとは別のことという「使い分け」が起こ ってくる。偶像礼拝問題はまさにそのようなものでした。   コリント教会のみならず、初代教会のキリスト者が直面した一つの問題が、異教の神殿にさ さげられた供物を食べることは許されるかというものでした。この後の23節から10章終わりま でその議論が続きます。そこでパウロが教えた基本的姿勢は偶像にささげた肉を食べること 自体は「どちらでもよいこと」というものでした。そしてその判断基準として持ち出したのが「信 仰の良心」ということ、そして「ほかの人の益」とい

フェリクス閣下へ(使徒の働き23:25〜35)

「フェリクス閣下へ」 使徒の働き23章25節~35節   23章11節では、主イエスがパウロのそばに立って「勇気を出しなさい。あなたは、エルサレムでわたしのことを証ししたように、ローマでも証しをしなければならない」と語りかけられました。パウロはこの言葉を握りながら、これから神さまがどうやって自分をローマに導くのかと、神の導きを逃すまいと決意を固めていました。しかし、目の前には大きな困難が立ちはだかっています。「パウロを殺すまでは飲み食いをしない」と呪いをかけて誓っている40人以上のユダヤ人が、パウロ殺害計画を立てていたのです。けれども神さまは、この厳しい状況の中でも、網の目をくぐるかのような鮮やかな脱出の道を開いてくださいました。今まで一度も出てきたことのないパウロの姉妹の息子が登場し、たまたま耳にしたというユダヤ人たちの陰謀をパウロに伝えたのです。パウロは神に与えられた機会を見逃さず、的確な判断と迅速な行動をもって、この危機を逃れます。本当に見事です。私たちも神さまに導きに敏感でありたいと思わされます。神さまの「時」をしっかりと察知して、それをちゃんとキャッチして、神さまの導きにためらわず従うのです。   神の導きを察知し速やかに行動したのは何もパウロだけではありません。神を知らないはずの千人隊長も同じでした。私たちの神さまはクリスチャンだけの神ではありません。世界を治め、世界中の国々と人々を治めておられる主権者なのです。この時の千人隊長のとっさの判断、命令、実行は、あまりに迅速で、的確で、しかも大胆で、目を見張ります。押し迫るユダヤ人による殺害計画、その中で、神は世俗の権威、千人隊長を通し、パウロを守られるのです。千人隊長はパウロの甥っこを招き入れ、彼の告げることを聞くと、この陰謀がいかに危険なものであるか見抜きました。そして緊急に対処する必要があると判断したのです。そしてこの甥っ子には、「このことを、だれにも漏らすな」と命じ、パウロ殺害計画に対抗する計画を立て、それを注意深く押し進めました。彼は、エルサレムに駐屯しているローマ軍を総動員し、たとえ陰謀を企てている40人以上のユダヤ人たちに察知されて、追いかけられても対抗できるように、歩兵200人、騎兵70人、槍兵200人をパウロの護衛に付け、夜9時に、出発させたのです。これほど大人数の兵士が夜の闇に