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4月, 2023の投稿を表示しています

自分の日を数える(詩篇90:10~12)

90:10 私たちの齢は七十年。健やかであっても八十年。そのほとんどは労苦とわざわいです。瞬く間に時は過ぎ私たちは飛び去ります。   最新の日本人の平均寿命は、男性 81.47 年、女性 87.57 年だそうです。そして、世界全体の平均寿命は、男性が 70. 8歳、女性が 75. 9歳。日本はそれぞれ10歳以上、世界全体の平均寿命を引き離していることから、世界一の長寿国といわれるのも納得です。けれども、寿命が延びることを私たちは両手放しで喜ぶことは、正直できません。心配要素がたくさんあるからです。何よりも健康のことが心配です。また長生きする分、経済的な余裕があるかどうかも問題です。また社会的な問題もあるでしょう。最近は高齢者の三分の一は独居だそうです。独居が悪いわけではありません。家族やお友だちとの関係を楽しみながら、一人暮らしを謳歌しておられる方もたくさんおられます。ただ最近よく聞かれる「無縁社会」、「孤独死」ということがば表しているように、孤独の中で生活し、最後、誰にも気づかれずにこの世を去り、何日も、何カ月も経ってから発見されるという痛ましい現状もあるのです。 このように、この詩人の時代に比べると、私たち日本人の寿命は延びました。けれども後半の「そのほとんどは労苦とわざわいです」というのは、私たちの時代にも当てはまるでしょう。それを思うと、人生に区切りがあるというのは、実は神さまのあわれみなのかもしれません。労苦と災い。大きなところでは、天災、貧困、差別、戦争。個人的には病や孤独など。これらは時代が変わっても変わらないことです。例えば旧約聖書に出て来るヤコブは、晩年エジプトの王ファラオに、「あなたの生きてきた年月は、どれほどになりますか。」と尋ねられた時にこう答えています。「私がたどってきた年月は百三十年です。私の生きてきた年月はわずかで、いろいろなわざわいがあり、私の先祖がたどった日々、生きた年月には及びません。」また、ルツの姑のナオミはどう告白しているでしょうか。「私をナオミと呼ばないで、マラと呼んでください。全能者が私を大きな苦しみにあわせたのですから。私は出て行くときは満ち足りていましたが、【主】は私を素手で帰されました。どうして私をナオミと呼ぶのですか。【主】が私を卑しくし、全能者が私を辛い目にあわせられたというのに。」ナオミは「喜び /

子とする御霊(ローマ8:12~17)

「子とする御霊」 (ローマ 8:12-17 ) 齋藤五十三 1.     リマインダー   12-13 節(読む)  「もし御霊によってからだの行いを殺すなら、あなたがたは生きます。」 これは、一言で言えば、新しい生き方を促し思い出させるすリマインダーの言葉です。 キリストを信じる者は、皆、新しい生き方に招かれている。新しい生き方、それは、古い肉の欲、自己中心な思いを捨て、御霊によって導かれる生き方のことです。    確かに、キリスト者には新しい生き方が必要です。8章1節では、「今や、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません」と罪の赦しが宣言されていましたね。そして、2節によると、いのちの御霊がキリスト者を、「罪と死の律法から」解放しているという。 だから、なのです。 私たちにはこれまでとは違う、御霊に導かれる新しい生き方が必要なのです。  これまでの古い生き方のことをパウロは、「肉に従った生き方」と呼びました。 それは神の声ではなく、自分の願いや思いに支配される生き方、とも言えるでしょう。 私たちは誰もが、こうしたい、ああしたい、という、いろんな願いを持っている。もちろん、それが良い願いならいいのです。でも、そうでない時、どこからか御霊の語りかけが聴こえてくることがあるのです。(世の人は、それを良心の声というのですが)、心に聞こえてくるのです。「そこに行ってはいけない。これが、道だ。これに歩め」という、御霊の語りかけ。 しかし、そういう内なる声をかき消して、自分の願いや思いに従ってしまう。 私たちは、しばしば、そういうことをしてしまいます。    そうした「肉に従った生き方」に関して、パウロ先生はいささか手厳しい。 でも、それもそのはず。 私たちの生き方が、やがてたどり着く人生のゴールを分けてしまうのです。 「もし肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬことになります」と、死ぬとは永遠の裁きのこと。 その反対に「御霊によってからだの行いを殺すなら(つまり肉に従うのをやめるなら)、あなたがたは生きます」と。これは、永遠のいのち。そう、パウロ先生は、私たちの行く末を案じているのです。どうか永遠の裁きに至らないで欲しい、と。  ここまで聞いて、「おやっ」と思った方もあるかもしれません。御霊に導かれて歩まないと、

恐れることはありません(マタイ28:1〜15)

「恐れることはありません」 マタイの福音書28:1~15 イエスさまが死んで、墓に葬られたのは金曜日の夕方でした。ユダヤ人の安息日は金曜日の日没から始まります。イエスさまが息を引き取られたのは、午後3時頃ですから、死体の引き渡しから葬りまで、 3 時間ぐらいしかなかったと思われます。彼らは埋葬を急がなくてはなりませんでした。幸いアリマタヤのヨセフというサンヘドリン議員で、ユダヤ社会で信頼され、しかも裕福だった人が、自分の所有するお墓を提供してくれました。そこで大急ぎでイエスの死体を十字架から取り下ろし、最低限の処置だけしてお墓に葬ったのです。イエスさまが埋葬される様子をそばでじっと見ていた女性たちは、本来なされるべき処置(遺体に没薬や乳香を塗る)が十分なされていないことが、気が気ではなかったようです。 安息日は金曜日の日没後から土曜日の日没まででした。けれども夜に出歩くことはできませんから、安息日の明けた翌日、日曜日の夜明けを待って、女たちは墓へと急いだのでした。手には没薬や乳香などを持っていました。イエスさまのお体に塗るためです。気になるのは墓の前の大きな石でした。彼女たちは道々、そんなことを話し合いながら、墓へと向かったのです。彼女たちはしっかりと埋葬の様子を見届けていますから、墓を間違えることはありません。ところが墓に到着するなり、突然大きな地震が起こり、主の使いが天からが下りて来て、石を脇に転がし、その上に座ったというのです。墓の前にはたくさんのローマ兵が墓の番をしていました。ところが、「その姿は稲妻のようで、衣は雪のように白い」御使いの姿を見たときに、勇敢でマッチョなローマ兵たちも、恐ろしさのために震え上がり、腰が抜けてしまったようです。 だいたいどうして、こんなに厳重な見張りがなされていたのでしょうか。VIP待遇です。それには伏線がありました。前の章の最後のところに書いてあるように、祭司長たちとパリサイ人がピラトに頼んだのです。 63 -64節「閣下。人を惑わすあの男がまだ生きていたとき、『わたしは三日後によみがえる』と言っていたのを、私たちは思い出しました。 ですから、三日目まで墓の番をするように命じてください。そうでないと弟子たちが来て、彼を盗み出し、『死人の中からよみがえった』と民に言うかもしれません。そうなると、この惑わしの方が、前の惑わ

渇く(ヨハネの福音書19:28~30)

「渇く」(ヨハネの福音書19:28~30) 人の体の大部分は水だそうです。大人で 6 0%、子どもは70%、新生児は80%が水でできているというのです。この水分量をキープしないと健康被害が出ます。体内の水分が 2 %失われるとのどの渇きを感じ、運動能力が低下しはじめます。 3 %失われると、強いのどの渇き、ぼんやり、食欲不振などの症状がおこり、 4 ~ 5 %になると、疲労感や頭痛、めまいなどの脱水症状があらわれます。 そして、 10 %以上になると、死にいたることもあります。脱水状態になると、まず脳が刺激され、水分を摂取するようにと強く促し、のどの渇きが生じます。水分の摂取量が失われる量に追いつけないと、脱水状態がさらに激しくなります。発汗量が減り、尿の排出量も少なくなります。必要な量の血液と血圧を維持するために、水分が細胞内から血流へ移動します。脱水が続くと、体の組織が乾き始め、細胞はしぼんで機能しなくなります。 イエスさまは十字架の上で「わたしは渇く」と言われました。原語では、一つの単語で主語と動詞を表しているので「わたしは」をつけていますが、私たちが日常使う日本語は、よほど強調しない限り、「わたしは」と主語をつけませんから、「渇く」とつぶやいた…、いや状況から言うと、絞り出すように一言「渇く」と言ったのではないかと思われます。イエスさまは、前の晩はゲッセマネの園で、大量の汗を流して祈られました。その後、ローマ兵につかまり、一晩中裁判を受け、また合間をぬってリンチを受けました。またイエスさまは、この間(かん)、水分が摂れなかっただけではない、大量の出血がありました。まず十字架にかかる前に、むち打ちの刑を受けていました。当時のローマ軍が使ったむちには動物の骨や土器の破片などがついているとげとげの鞭でした。ですから、ムチを打つたびに、イエスさまの背中の皮膚は破れ、血が流れました。そして、そのまま止血などの手当をされることもなく、十字架にはりつけにされました。その両手両足に釘を打たれたのです。もちろんそこからも大量の血が流れました。そう、イエスさまの「渇き」は単なるのどの渇きではない、出血多量による渇きでした。本来なら点滴や輸血をしないと命に関わるレベルです。先ほど説明したように、イエスさまの体のすべての細胞は、絞り出すように水分を血液に送りこみ、体中が極限の