スキップしてメイン コンテンツに移動

投稿

10月, 2023の投稿を表示しています

マルタ島での出来事(使徒の働き28:1~10)

「マルタ島での出来事」 使徒の働き281~10 さて、2週間もの漂流生活が守られ、船に乗っていたパウロたち囚人も、ローマの兵士たちも、水夫たちも、276人全員が無事に島に打ち上げられました。この島の名はマルタ島。地図で確認しましょう。イタリアは目と鼻の先。もちろん嵐に巻き込まれて、漂流してここまで来たのですから、順調に船旅をするよりも時間はかかりましたし、失ったものも多かったと思いますが、それでもほぼ直線距離で、ここまで運ばれて来たようです。本来はクレタ島で冬の間を過ごして、それから船出するつもりでしたので、予定よりも早く、パウロが目指すローマに着くことになりました。11節を見ると、航海に適した時期になるまでもう3か月間マルタ島で過ごさなければいけなかったのですが、3か月後にクレタ島を出るのと、このマルタ島を出るのとでは、大きな時間差があります。しかも島の人たちは親切で、パウロたち一行にとてもよくしてくださり、また船出するときには、必要な物資を用意してくれたということですから、クレタ島の良い港や皆が冬を過ごしたがっていたフェニクスという港よりも快適に冬を過ごせたかもしれません。 神さまの導きは不思議です。私たちから見たら、嵐のように苦労が多くて、遠回りで、足踏みをしているようにしか見えない人生でも、神さまは、着実に導いてくださっている。前に進ませてくださっているのです。神さまは良いお方。私たちに良いものしかくださいません。皆さんは星野富弘さんを御存じだと思います。不慮の事故で、首から下が全く動かなくなり、口で筆を加えて、絵や詩をかいている詩人であり、絵描きです。彼の書いた「渡良瀬川」という詩をご存じでしょうか。少し長いですが、お読みいたします。 私は小さい頃、家の近くを流れる渡良瀬川から大切なことを教わっているように思う。 私がやっと泳げるようになった時だから、まだ小学生の頃だっただろう。 ガキ大将達につれられて、いつものように渡良瀬川に泳ぎに行った。 その日は増水して濁った水が流れていた。 流れも速く、大きい人達は向こう岸の岩まで泳いで行けたが、私はやっと犬かきが出来るようになったばかりなので、岸のそばの浅いところで、ピチャピチャやって、ときどき流れの速い川の中心に向かって少し泳いでは、引き返して遊んでいた。 ところがその時、どうしたはずみか中央に行き

あなたとわたし(出エジプト記20:1~3)

「あなたとわたし」(出エジプト 20:1-3 ) 1.       どのように第一戒を聞いているだろう 3節(読む)  これは十戒の第一の戒めです。これを受けて皆さんにまず一つのことを考えて頂きたいと思います。この戒めを聞いて、皆さんは何をお感じになったでしょうか。もっと具体的に申し上げると、第一戒を聞いて、これを束縛であると。つまり私たちの信仰の対象を制限する縛りとしてお聞きになった方はあるでしょうか。 それとも、縛りではなく、これを招き、しかも愛の招きと受け取った方はあるでしょうか。  束縛か、それとも愛の招きか。現代人の多くのは、この第一戒から束縛のような窮屈なものをお感じになる方が多いようです。確かに今は、数あるオプション、選択肢の中から自分で選ぶのが好きな時代ではありませんか。現代人はチョイスが好きです。私たちは自分が中心になって、自分で決めたいと思う。そのため「わたし以外に、ほかの神があってはならない」と聞くと、すぐに窮屈さを感じてしまう。  でもちょっと待ってください。一つ前の2節から読むと少しイメージが変わるはずです。  2 - 3節(読む)  ここには、「わたし」「あなた」と呼び交わす、近くて親しい人格的な絆があるのです。この絆は救いの恵みに基づきます。「奴隷の家から導き出した」とありますね。イスラエルはかつて奴隷の家、つまりエジプトで奴隷暮らしをしていたのです。朝から晩まで休みなく、レンガ作りに拘束される先の見えない束縛の中にあったのでした。しかし、その束縛の日々から、神である主が解放してくださった。しかも十把一絡げ、ではなく、「あなた」と一人一人の名前を呼ぶように連れ出し、「あなたの神」となってくださったのでした。こうした救いの出来事があってのことですから、神の心にはご自分の民に向けた特別な思いがあったのです。そして、特別な思いで呼びかけてくるのです。「あなたには、わたし以外に、ほかの神があってはならない」と。  こう呼びかける神の胸の内には、特別な思いがあった。それは、どんな思いだったのですか。神の秘めたる思いを明らかにする御言葉が旧約聖書の中に多くありますが、今朝は預言書の中からホセア書 11 章 1 節を味わいたいと思います。旧約聖書 2017 版の 1547 頁を開ける方はぜひお開きください。開いて御言葉

全員無事!(使徒の働き27:39~44)

「一難去ってまた一難」とは、まさにこのことです。岸が近いことを知り、夜が明けたら船を出して、島に到着するつもりで、みんなで前祝のような食事をし、残った小麦などの積み荷を全部捨て、船を進めた矢先のことでした。水夫たちは自分たちが持つ経験と技術、知識とを駆使して、慎重に船を進めました。まずは船を留めておいた4つの錨を切って海に捨て、同時に舵の綱を解き、吹く風に船尾の帆を上げて、砂浜のある入江を目指したのでした。ところがどれほども進まないうちに、船は二つの潮流に挟まれた浅瀬に乗り上げて、座礁してしまいました。「船首はめり込んで動かなくなり」とありますが、おそらくこの辺りは、船底が固着してしまうようなしつこい粘土質の海底だったのではないかと思われます。そしてあれよあれよという間に、船尾が壊れ始め、船の中に水が入ってきました。船が沈むのは時間の問題です。今となっては小舟の綱を切って、流してしまったことを恨めしく思います。 どんなに慎重に事を運んでも、どんなに経験と技術、そして知識とを駆使しても、あるいは、信仰を働かせてよく祈っていても、問題が起きるときには起きるものです。私たちはなるべく自分の人生に問題は起こってほしくないのですが、こればかりは避けられません。けれどもそんなときに大切なのは、神に向き合うことです。ある人たちは、問題にあたると、神に背を向けます。神を信仰していてもこんな問題が起こるなら、信仰する意味がないと、信仰を捨てるのです。けれども、問題の渦中にある時こそ、神に向き合うべきです。詩篇の詩人たちを見てください。試練の中で、神の前に正直に問題を訴え、時には神に抗議し、敵対する相手を呪ってくださいとさえ祈ります。それでいいのです。神さまは、試練の中で神に向き合う私たちの祈りを聞き、主にある平安を与え、私たちのために具体的に働いてくださるお方なのです。   さて船が沈み始めて、次に問題になるのは、囚人たちをどうするかということです。兵士たちは百人隊長に囚人たちを皆殺しにする許可を求めました。もし囚人たちがどさくさに紛れて逃げでもしたら、兵士たちが罰せられるからです。使徒の働き16章で、パウロとシラスを逃がしてしまった兵士は自害しようとしました。なぜでしょうか。囚人を逃した兵士は、責任を取って死刑になるからです。つまり、自分たちの命を守るために囚人たちの命を犠

試練の先で出会う神(Ⅰ列王記17:17~24)

「試練の先で出会う神」    Ⅰ列王記 17:17~24   1. やもめの息子の死 ・出来事となる神のことば ・あなたは私の咎を思い起こさせ わざわいは罪の結果なのか? →「聖書は真理を両面から証する」 2. エリヤの祈り ・やもめと寄留者を守る神 ・息子の上に身を伏せるエリヤ 死体に触れる=汚れた者となること 息子と自分を同一視する行動 3. 神の人よ ・息子の復活に対するやもめの反応 「今、あなたが神の人であり、あなたの口にある主の ことばが真実であることを知りました」 神のことばの真実さを身を持って知る経験   【まとめ】 ・わざわいの目的は私たちがより深く主を知るため ・神さまは私たちを理不尽に痛めつけたりしない、 常に良き計画を持って私たちを導いてくださる 那須孔明実習生

「船上の聖餐式」使徒の働き27:27~38

「船上の聖餐式」 使徒の働き27:27~38 今日もまずは、ストーリーの全体を追っていきたいと思います。パウロを乗せた船は、パウロの忠告があったにも関わらず、「よい港」を出航し、順調であれば数時間で行けるような「フェニクス」に向かいました。ところが、途中ユーラクロンという嵐が吹き荒れ、船は沈みそうになり、彼らはやむを得ず、船具や積み荷を海に捨て、船を軽くして、流されるに任せたのでした。そうこうしているうちに「14日目の夜」になりました。太陽も月もないまま、船は漂流していましたので、今自分たちがどこにいるのか、漂流して何日になるのかも定かではなかったと思うのですが、おそらくこの後、漂着したマルタというところで、自分たちが14日もアドリア海を漂っていたことを確認したのでしょう。 嵐は去り、コントロールを失った船は、静かに漂流していました。すると何人かの水夫が、「どこかの陸地に近づいているのではないか」と言い出しました。水夫たちの長年の経験と第六感でしょうか。寄せては返す波が陸地にぶつかる音を聞いたようです。さっそく、水深を測ってみると20オルギヤ(約17メートル)ありました。さらに進んでもう一度測ると15オルギヤ(約13メートル)になっていました。やはり陸が近い!と喜びつつも、暗礁に乗り上げるのではないかとの不安もありました。ですから、今晩はこれ以上先に進むは危険だと判断し、いったん錨を4つ投げ降ろして、今晩はその場にとどまることにしました。朝になって明るくなれば、安全に島にたどり着けそうな航路もわかるでしょう。彼らは、はやる気持ちを抑えて、夜が明けるのを待つことにしました。 ところが、なんと「陸が近い!」と朗報をもたらした水夫たちが、今度は暗闇にまぎれて、船首から錨を降ろすように見せかけ、小舟を海に降ろし、自分たちだけその小舟に乗って逃げ出そうとしていたのでした。パウロが直接、それに気が付いたのか、誰かが気づいて、パウロに告げたのかわかりませんが、パウロは百人隊長や兵士たちに、「あの人達が船にとどまっていなければ、あなたがたは助かりません」と言うのでした。先先週の説教でも話しましたが、今やパウロはこの船の船長のような存在、精神的支柱でしたから、百人隊長はすぐに兵士に命令し、兵士たちは小舟の綱を切って、小舟が流されるのに任せ、水夫たちが乗り込めないようにしたので