「はじめに神が天と地を創造された。」世界のはじまり、神の創造のわざは、1節から始まりした。これは、実はとても大切なポイントです。聖書学的には議論のあるところで、実は多くの人は、創造のわざが3節から始まったと理解しています。そうなると、問題になるのは2節です。神の創造のわざが、「光、あれ」という3節から始まったとするならば、2節は神が万物を創造する前から何らかの物質があったということになります。新改訳聖書はそのような誤解を避けるために、「地は茫漠としていて何もなく」と「茫漠」という言葉を使っています。「茫漠」というのはなじみのない言葉ですが、意味としては「形がない」「むなしい」「意味がない」ということです。つまり実態がないということです。そういう意味で、文語訳や口語訳の方が、新改訳に近いでしょう。どちらも「地はかたちなく、むなしく」と訳しています。これとは違い、新共同訳や 2018 年の共同訳聖書は「混沌」ということばを使っています。「混沌」というのは、無秩序でカオスの状態ですが、そこに何らかのごちゃごちゃしたものがあるということになってしまいます。ですから、神は、もともとあるそれらを用いて万物を創ったということになってしまうわけです。そうなると、「無からの創造」ではなくなってしまう。ですから、「はじめに神が」を強調する私たちは、1節から神の創造のわざが始まったと理解するのが正しいのです。「はじめに神が天と地を創造された」天と地は両極を表し、宇宙と言っていいのか、ひょっとしたらもっと大きなものなのか、とにかく両極の間、空間すべてを神の支配と管理の中に置いたということです。 さて、2節の後半を見ていきましょう。「闇が大水の面にあり、神の霊がその水の面を動いていた」。「大水」というのは、「深淵」とも訳せる言葉です。まあ、海のようなものを想像してもいいと思います。この「大水」というのは、他のこの言葉が使われている聖書の個所を参考にすると、嵐のように荒れ狂っている大水、波が逆巻き、吠え猛るような状態を想像してもいいでしょう。そしてそこをねっとりと覆う闇。まさに生命の存在を許さない、「滅び」や「死」をイメージしてもいいほどの状態です。そして、「神の霊がその水の面を動いていた」。この解釈も本当にいろいろあるのですが、私は、神が「光あれ」と仰せられる前に、待機している状態を示し
毎週の主日礼拝メッセージをこちらに掲載します。音源もありますので、ぜひご利用ください。