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1月, 2024の投稿を表示しています

光、あれ!(創世記1:2~5)

「はじめに神が天と地を創造された。」世界のはじまり、神の創造のわざは、1節から始まりした。これは、実はとても大切なポイントです。聖書学的には議論のあるところで、実は多くの人は、創造のわざが3節から始まったと理解しています。そうなると、問題になるのは2節です。神の創造のわざが、「光、あれ」という3節から始まったとするならば、2節は神が万物を創造する前から何らかの物質があったということになります。新改訳聖書はそのような誤解を避けるために、「地は茫漠としていて何もなく」と「茫漠」という言葉を使っています。「茫漠」というのはなじみのない言葉ですが、意味としては「形がない」「むなしい」「意味がない」ということです。つまり実態がないということです。そういう意味で、文語訳や口語訳の方が、新改訳に近いでしょう。どちらも「地はかたちなく、むなしく」と訳しています。これとは違い、新共同訳や 2018 年の共同訳聖書は「混沌」ということばを使っています。「混沌」というのは、無秩序でカオスの状態ですが、そこに何らかのごちゃごちゃしたものがあるということになってしまいます。ですから、神は、もともとあるそれらを用いて万物を創ったということになってしまうわけです。そうなると、「無からの創造」ではなくなってしまう。ですから、「はじめに神が」を強調する私たちは、1節から神の創造のわざが始まったと理解するのが正しいのです。「はじめに神が天と地を創造された」天と地は両極を表し、宇宙と言っていいのか、ひょっとしたらもっと大きなものなのか、とにかく両極の間、空間すべてを神の支配と管理の中に置いたということです。 さて、2節の後半を見ていきましょう。「闇が大水の面にあり、神の霊がその水の面を動いていた」。「大水」というのは、「深淵」とも訳せる言葉です。まあ、海のようなものを想像してもいいと思います。この「大水」というのは、他のこの言葉が使われている聖書の個所を参考にすると、嵐のように荒れ狂っている大水、波が逆巻き、吠え猛るような状態を想像してもいいでしょう。そしてそこをねっとりと覆う闇。まさに生命の存在を許さない、「滅び」や「死」をイメージしてもいいほどの状態です。そして、「神の霊がその水の面を動いていた」。この解釈も本当にいろいろあるのですが、私は、神が「光あれ」と仰せられる前に、待機している状態を示し

あなたの神、主の名(出エジプト記20:1~7)

「あなたの神、主の名」(出エジプト 20:1-7 ) はじめに  今朝は「名前」の話です。当たり前のことですが、名前は大切です。なぜ大切か。いろんな理由がありますが、まず第一に、名前がないと相手と関係を築けません。例えば、礼拝に初めておいでになった方がある時、最初に尋ねるのは名前です。「お名前を教えていただけますか」と。そして、そのお名前を呼んで礼拝の終わりに紹介し、「ようこそ」と歓迎をしていますね。  このように「名前」を用いないと、私たちは相手と関係を築き、また語り合うこともできないのです。    それは、神さまのお名前についても同じです。神さまのお名前は多彩です。父なる神、イエスさま、聖霊の神さま、という代表的な名前の他に、主なる神と呼んだり、全能の神、造り主の神、助け主、癒し主の神等々、その時々に応じていろんな呼びかけをしますが、いずれもお一人の神さまの名前。例えば礼拝の中で、そして祈りの時、あるいは賛美の時、また説教者は説教の中で、また水曜の聖書の学び会の中でも神のお名前を口にすることがあるでしょう。  今日は十戒の第四戒、神の名前の用い方に関する教えです。それは神と人の交わりの土台を形作っていくのです。初めにお祈りしましょう。(祈り)   1.       名は体を表す 7節「 あなたは、あなたの神、 主 の名をみだりに口にしてはならない。 主 は、主の名をみだりに口にする者を罰せずにはおかない 」。  「みだりに」とは、無駄に、或いは空しく、という意味です。第四の戒めは、神の名前を無駄に濫用したり、空しく誤って用いることを禁じるのです。しかも罰則がつきですので、事は重大なのだ、と分かるでしょう。でも、なぜこのように厳しく教えるのでしょう。たかが名前ではないか、と思われる方もあるかもしれません。しかし、「たかが名前」ではないのです。「名は体を表す」と言うでしょう。名前は単なる記号ではなく、実に神さまのご人格そのものなのです。  例えば皆さんは自分の名前を、どのように人から呼びかけられたいですか。名前を呼ぶことなしに、コミュニケーションは成り立ちません。他の人がどのように自分の名前を用いて声をかけてくれたら嬉しいでしょう。  例えば、もし誰かが恐れて緊張し、皆さんの顔色を窺いながら名前を呼びかけてきたらどうですか。私

はじめに神が(創世記1:1)

「はじめに神が」 創世記1:1 日本長老教会の堀越暢治(のぶじ)先生を御存じでしょうか。2017年の夏に91歳で召されましたが、日本長老教会の草分け的な働きをし、非常に伝道熱心で、当時の日本のキリスト教会をリードするような伝道者でした。そんな堀越先生が、私たちが学んでいた東京基督神学校に来られて、講義をされたことがあります。その中で、とても印象深く残っていることが一つあります。先生の教会、四日市教会には幼稚園が併設されているのですが、子どもたちが入園して来ると、決まって、まず保護者に「創造主」なる神さまのお話しをしたというのです。なぜかというと、子育てをするときに、この子は偶然の産物で、先祖はサルなのだと言って育てるのと、この子は神さまの計画の中で生を受け、この子は神に愛され、目的を持って創られたのだと意識して育てるのとでは全然違うからだとおっしゃっていました。 今日から創世記の講解説教が始まりますが、ともすると、聖書の創造論かダーウィンの進化論かという議論に発展してしまうのですが、私には十分な知識はありませんし、また、そのような議論には情熱が沸かないというか、あまり意味を感じないので、私の説教の中で取り上げることはしません。けれども興味のある方は、 YouTube などでとても詳しく論じてくださっている先生方もたくさんいるので、ぜひそういったものを参考にしてください。では、どういった視点で、創世記を読むかというと、神と人、神と世界の関係という視点で見ていきたいと思います。 創世記は、「トーラー」(ヘブル語)、日本語では「モーセ五書(創・出・レビ・民・申)」の一番初めの書です。特に1章から3章までは、世界の起源について書かれています。日本語では「創世記」ですが、もともとのヘブル語は「はじめに」という意味の「ベレシート」です。読んで字のごとく、創世記は、宇宙と世界、人類のはじめについて書かれています。また聖書には、この世界の終わりについても書かれていますので、聖書は、この世界のはじめと終わりについて書かれている類まれな書物です。世界には多くの宗教があり、経典(きょうてん)と呼ばれるものがありますが、世界のはじまりと終わりについて、これほどはっきりと語っている書物はありません。そして創世記の1章1節は、とても重要です。私たちはここから、この世界がどうやっ

2024年1月8日五教会合同新年聖会

「あなたを守る方」 詩篇121篇 説教者:齋藤五十三師 はじめに  「都上りの歌」 礼拝を目指す巡礼者たちの歌   1.      都を目指す巡礼者たち(1~4節) ・シオンの山々が視界に入ってくるときに ・天地の造り主が共にいる ・共に都を目指す人々の存在   2.      主はあなたを守る方(包括的な守り) ・5節 戦いの中で傷を受けることがないように ・6節 いつも変わらぬ主の守り ・7節 人間に命(たましい)を与えて守る方 ・8節 わざわいの中でも主の守りは離れず   3.      礼拝者として生きる ・助けを主に求める ・礼拝者たちへの守り ・教会の交わりの中で The Lord be with you / And also be with you !

分かち合う教会(マタイの福音書14:13~21)

 「分かち合う教会」 マタイの福音書14:13~21 明けましておめでとうございます。新年早々、能登半島大地震が起き、大きな被害が出ました。コロナのせいで、何年も帰省できない人が多かった中、久しぶりに故郷に帰られて、被災した方もおられるでしょう。本当に胸が痛みます。また教団の委員会の関係で、新潟のシオンが丘教会の山口光先生と連絡を取りましたら、以下のようなメッセージが来ました。一部抜粋します。「元日に起きた能登半島地震の影響は、私が生活している新潟市西区も顕著で、教会の2階の扉が落ちたり、隣接する交流館や牧師館の浴室のタイルが剥がれたり、壁に亀裂が入りました。教会員の中には、お住まいの家が、地盤沈下で傾いてしまったところもあります。私は対応している最中、コロナにかかってしまい、昨晩は40度近くの熱が出ておりました。妻も罹患したので夫婦で今日は横になっています。」テレビのニュースでは出てこない多くの方々、また教会が被災しておられることを思うと、何かできることはないかと思わされます。今日のメッセージのタイトルは、「分かち合う教会」です。これは 2024 年の私たちの教会の年間テーマです。このような災害の時こそ、共に分かち合い、助け合うことを実践していきたいと思います。 さて、いわゆる「五千人の給食」の記事は、聖書の中でも有名な記事の一つです。また、四つの福音書すべてに記されている唯一の記事が、この五千人の給食の記事なのです。ですから、私たちはこの記事を通して、聖書が最も大事にしているメッセージをくみ取れるのではないかと期待します。 13節を見ると、イエスさまは一人、船に乗って寂しいところに行かれたとあります。どうしてそんな行動をとったのでしょうか。それは前の記事を見るとわかります。バプテスマのヨハネが、当時のユダヤの王、ヘロデ・アンティパスの誕生パーティーの余興で、首をはねられて殺されてしまったとの知らせを聞いたからです。イエスさまは、どんなに心を痛められたでしょうか。バプテスマのヨハネは、イエスさまにとって従兄弟でした。そして「主の通られる道をまっすぐにせよ」との神さまからの召命を受けて、イエスさまが公生涯に入る前に、「荒野で叫ぶ者の声」として、「天の御国は近づいた。悔い改めて、バプテスマを受けなさい!」と人々に伝えたのです。多くの人が、彼を通して、悔い改めに