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つながれ いのちに(ヨハネの福音書6:53~58)

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ここは天の門(創世記28章)

「ここは天の門」 創世記28章   エサウのヤコブへの怒りが、あまりに激しく、殺意さえ抱いていることが分かった母リベカは、ヤコブを自分の故郷へ送り出すことを思いつき、夫イサクに提案します。イサク自身も、彼の父アブラハムが、イサクのお嫁さん探しに、わざわざハランにしもべを遣わして、妻リベカを見つけ出して連れて来てくれたことを思い出し、それに賛同します。また伏線としては、エサウの二人の妻のことがありました。彼女たちは、イサクとリベカの悩みの種でした。アブラハム、イサクのモットーは何だったでしょうか。「和して同せず」、カナンの地で平和を保ちつつ、なお神の民としてのアイデンティティを固守することではなかったでしょうか。二人の妻の何か問題だったかは、具体的に書かれていないのでわかりませんが、異なった神を礼拝する嫁たちは、生活の中にそれらを持ち込んだのではないかと推測できます。ですから、ヤコブの結婚相手は、なんとしても創造主にして唯一である神を礼拝する女性であってほしい、そんな願いがあったのではないでしょうか。 一方エサウはこの後、イサクがヤコブを祝福して送り出したこと。またリベカの故郷から妻を迎えるよう指示したことを知りました。しかも、その時に、カナンの娘たちから妻を迎えてはならないと命じていたことも知りました。それでエサウは、今いる妻たちのほかに、おじいさんのアブラハムが女奴隷ハガルに産ませた子ども、イシュマエルおじさんの娘を妻に娶ることにしたのです。例えるなら、欠陥住宅自体には、なんの修理もしないまま、その欠陥を補うために、建て増しするようなものです。彼に欠けているのは、心からの悔い改めだったと思うのですが、皆さんはどう思われるでしょうか。 話しは戻りますが、イサクはこの時にはすでに、ヤコブが神の祝福を引き継ぐ後継者であることを認めていました。神のみこころを求めないで事を進めても、神は道を閉ざされることを彼は学んだことでしょう。ただ、ヤコブを祝福の後継者とするならば、本来ヤコブではなく、エサウを外に出すべきなのですが、さすがにヤコブのしたことがあまりに卑劣だったことと、エサウの怒りが収まるために冷却期間が必要だったこと、そして、ヤコブを後継者とするためには、結婚が欠かせなかったために、イサクは、エサウはそばに置いたまま、ヤコブを遠くハランに送り...

サラの死と埋葬(創世記23:1~20)

「サラの死と埋葬」 創世記12章1~20節   サラが天に召されました。127歳でした。今の私たちの感覚からすると非常に長寿ですが、アブラハムが召されたのは175歳ですから、それを思うと、当時としてはそれほど長寿だとも言えないかもしれません。聖書にはたくさんの女性が登場しますが、亡くなったときの年齢が記されているのは、なんとサラだけだそうです。このことからも、アブラハムだけでなく、サラも聖書の救いの歴史の中で重要な役割を果たしていたことがわかりますね。 サラの生涯は幸せだったでしょうか。いろんなことがありました。夫が神さまから呼ばれたことによって、住み慣れた土地を離れなければなりませんでした。たいていの女性は定住志向ですから、寄留者として生きなければならないことは、サラにとってはつらいことだったことでしょう。時には、いのちの危険があるようなところに寄留することもありました。そんなときには、決まって夫アブラハムは、自分のことを兄だと言ってくれと頼むものですから、彼女は2回もその土地の王に召し抱えられる危機に遭いました。それは、サラの美しさのゆえでした。最近はルッキズムと言って、容姿が美しいことが幸せの条件のように思われています。確かに美しいことで得をすることもあるかもしれませんが、美しさゆえの悩みもあるようです。美しさゆえの誘惑があり、落とし穴があるからです。 けれども、サラの生前の一番の悩みは、やはり子どもがいないことでした。一時は自分で子を産むことをあきらめて、女奴隷ハガルを夫に与えて、彼女によって子をもうけようとしました。けれども、実際に身ごもったハガルを見るのは耐えがたく、ハガルに辛く当たり、彼女が逃げ出すぐらいひどくいじめたのでした。そんな事件があった後、不思議な3人の旅人が来て、「来年の今ごろ、サラに男の子を産む」と告げました。その時サラは、天幕の陰に隠れて、思わず心の中で笑ったのです。ところが神はご真実で、サラは本当に身ごもり、一年後には子どもが与えられました。その時サラは、すでに90歳。しかし、子どもが与えられた喜びに浸る日々もつかの間、今度は女奴隷ハガルの子イシュマエルが邪魔になります。そして、イサクの乳離れの祝いの席で、イシュマエルがイサクをからかったことを機に、夫にイシュマエルを追い出すようにと攻め寄り、とうとう二人を家か...

収穫のための働き手(マタイの福音書9:35~38)

「収穫のための働き手」(マタイ 9:35-38 )   天の父なる神さま、神の言葉に聴くひと時、どうか聖霊によって私たちの心を照らしてください。御言葉のうちに、生けるキリストに出会うことができますように。救い主、キリスト・イエスのお名前によってお祈りします。アーメン。   1.     収穫は多いのだろうか   37 節「そこでイエスは弟子たちに言われた。「収穫は多いが、働き手が少ない」。  これを聞いて日本の多くのクリスチャンが思うこと、それは「本当に収穫は多いのだろうか」という疑問だろうと思います。(働き手が少ないのはもっともとしても)「本当に収穫は多いのか」と。私たちはこれをなかなか実感できないのです。 ここで言う「収穫」とは、人々の魂を神の国に迎えていく、神の国の収穫です。「救われる人」と言い換えることもできるでしょうか。でも、そう聞くと思わず、「本当だろうか」と思ってしまう。日本のキリスト教会においては、そうした「収穫が多い」実感を得られないでいる人が大半なのではないかと思うのです。  「本当に収穫は多いのか」。しかしこれは、私たちが実感できる収穫では必ずしもないのです。 38 節には、「収穫の主、ご自身の収穫」つまり、神ご自身の収穫であると言われていますね。ですからここで言う「収穫」は、主ご自身がご覧になっている収穫の広がりのことなのです。神の目で見れば、収穫は確かに多い。そして、それをイエス・キリストご自身も実感して、このように口にされたのでした。「収穫は多いが、働き手が少ない」と。   2.     イエスの心で見る  確かに、イエスさまの心で世を見渡せば、多くの収穫が見えてくるのです。世の中には、神の国の福音を必要とし、そのために備えられている人々が実に多くいるのです。  マタイ9章を最初から読むと、そこにはまさに多くの人々が導かれる「収穫」が描かれています。もう、次から次へ、という感じです。たとえば、2節に登場する「中風で床に寝かせたまま」運ばれてきた人がいましたね。その病人に主は、「あなたの罪は赦された」と宣言していく。それから9節には、人生の目的を持てず、収税所に座っているマタイ本人が出てくるのです。そのマタ...