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11月, 2024の投稿を表示しています

しなやかに主に仕える(ピリピ人への手紙4:10~13)

「しなやかに主に仕える」 ピリピ人への手紙4:10~13 ピリピ人への手紙は、ピリピ教会に宛てられた手紙です。ピリピ教会の誕生した由来については、みなさんご存じでしょうか ? パウロは第二次伝道で、もともとはエペソに行って伝道しようと思っていたのですが、御霊によってそれを禁じられました。どうしたものかと考えあぐねているときに、いわゆる「マケドニアの叫び」を幻のうちに聞いたのです。マケドニアの人々が「私たちを助けてください」とパウロに懇願しました。そこで彼は、この叫びを主からのものだと確信し、予定を変更し、マケドニア地方のピリピに向かったのでした。 ピリピは商業で栄えていた町でしたが、そこにはユダヤ人の会堂がありませんでした。当時はユダヤ人が10人いれば会堂が立つと言われていましたので、この辺りは、よっぽどユダヤ人が少ない地域だったのでしょう。パウロは新しい町に入るとまずは、ユダヤ人の会堂で説教することを常としていましたが、ここではそれができずに困っていたところ、川のほとりに「祈り場」があるという噂を耳にしました。会堂がないところでは、「祈り場」というところを設けて、そこで天地万物を創造主、唯一の神を信じるグループが、小さな集まりをもっていたようです。そこでパウロは、早速その川のほとりの「祈り場」に行きました。するとそこに、紫布の商人リディアがいました。彼女は、ユダヤ人ではありませんでしたが、旧約聖書の神を信じる「神を敬う人」と呼ばれる人でした。また彼女は、今でいう女性実業家で、当時高級な紫布を外国から仕入れては、ピリピで売りさばくという、いわゆる貿易商のような仕事をしていたのです。彼女は、この小さな群れのリーダー的な存在でした。ですから、パウロがこの祈り場を訪れた時に、早速彼に説教をお願いしました。パウロはいつものように、イエスさまこそ、ユダヤ人が待ち望んでいたメシアだと、このお方を信じるなら、新しく生まれ変わることができると、イエス・キリストの福音を語りました。すると聖霊が働いて、リディアは、その場でイエスさまを心に受け入れ、パウロを家にお連れして、一家そろって、またおそらく従業員もそろって福音を聞き、皆がイエスさまを信じ、洗礼を受けたのです。これがピリピ教会の誕生でした。ですから、ピリピ教会の特徴としては、以下のことが言えるでしょう。①異邦人が多い。...

「神の選びの不思議」(創世記11:10~32)

「神の選びの不思議」 創世記 11 : 10 ~ 32 先回、「バベルの塔」のところからおはなしをしてから3週間が空きました。今日は11章のバベルの塔の記事の後からの説教になります。 実はこの11章は、創世記全体を見ると、大きな区切りになる個所です。私たちは創世記1章から丁寧に読み進めてきましたが、今までは、世界の初め、人類の初めの歴史が描かれていました。創世記1~2章は、神が造られたすばらしい世界と神のかたちに造られ、神の御寵愛を一身に受けた人間の姿が描かれました。そして3章以降は、神の言いつけに背き、神に背を向けて生き始めた人間の罪と悲惨の歴史が綴られました。そして人の罪が際限なく増大する様子を見られた神は、一度区切りをつけるために、大洪水によって地を滅ぼすことにしたのです。けれども、ノアとノアの一族を神は選ばれ、救いの道を残されました。こうして洪水によって一度リセットされた人類は、今度こそ、神の前に清く正しく生きるかと思いきや、再び、アダムとエバの罪、神より知恵ある者となろうという高慢に陥り、バベルの塔を建て、神はそれを、言語を通じなくするという方法をもってやめさせたのでした。こうして人類は、同じ言語を使う者たち、氏族が集まって住み、それぞれの国を形成するようになったのです。 そんな中でも神の救いの道は、途切れることなく続いていました。創世記5章には、アダムからノアに至るまでの系図が書かれていました。そして、今日読んだ11章の10節以降には、ノアからアブラムに至るまでの系図が書かれています。どちらも10代ずつにまとめられています。この10代で区切りとする方法は、民族を代表するための完全数を表しているのだそうです。 アダムからノアまでの10代、ノアからアブラムまでの10代は大変似ていますが、それぞれ特徴があります。見てみましょう。アダムからノアまでの10代は、一代ごとに、「こうして彼は死んだ」と区切られています。これは、神が、人が罪を犯したさばきとして、「人はちりだからちりに帰らなければならない」と死を制定したことを受けてのことだと思われます。当時の人は700歳から900歳という寿命でしたが、最後は必ず死んだのです。人は死ぬものとなったということを強調しているのでしょう。 ところが、ノアからアブラムの系図では、この「こうして彼は死んだ」と...

まいごのひつじ(ルカの福音書15:1~7)

①「不良ひつじのジョニー」 みことば:ルカの福音書15: 1~7   ②ひつじ園という羊の牧場があります。 ここで羊たちは毎日遊んだり勉強したりお仕事したりしながら暮らしています。 お仕事と言っても、毛を刈ってもらったり、お乳を搾ってもらったり、お世話されることがお仕事です。 強いて言えば、もぐもぐたくさん食べることが、ひつじさんたちの一番のお仕事かもしれません。 ここには羊飼いのおじさんがいて、いつも悪いオオカミから守ってくれて、おいしい草がたくさんあるところに連れて行ってくれるので安心です。 ときどき、ひつじ同士ケンカすることもあるけれど、おじさんが助けてくれるので、みんな平和に暮らすことができます。   ③ひつじ園には一匹の不良羊がいます。 名前はジョニーです。 ジョニーはいつもイライラしています。 だから他の羊たちはジョニーが苦手です。 ジョニーに近づくといじめられてしまうので、みんなジョニーから遠くに離れてしまいます。   ④ジョニーは自分よりも力の弱い羊をいじめたり、仕事をさぼったり、他の羊のお菓子をとったり、いつも自分勝手です。 「フン!強い者が一番偉いんだぜ! お利口さんなんてかっこ悪いぜ! 俺は別に友だちなんかいらないぜ!」 ジョニーはそう言って暴れます。   ⑤ある日、羊飼いのおじさんが羊たちに言いました。 「今日はみんなで隣の草原に遠足に行きまーす。 みんな列になってついてきてくださーい。」 わーい。羊たちは大喜びです。 隣の草原には、とっても美味しいクルクル草があるのです。 でもジョニーは… 「ケッ。かったるいなー」 またブツブツ文句を言っています。 ⑥みんなでゾロゾロと列になって隣の草原に向かいます。 しかしジョニーは、 「みんなでチンタラ歩きたくねーぜ! 俺はバイクで行くぜ!」と言って、 自分だけバイクに乗ってビューンと行ってしまいました。 「おーい!ジョニー!道はちゃんと分かるのか~?」 ひつじかいのおじさんは叫びますが、 「へっ。隣の草原なんてしょっちゅう一人で行ってるんだぜ。 道ぐらい分かるに決まってるぜ!」 ジョニーはそう言って走って行ってしまいました。 ...

青年の成長(マルコの福音書14:51~52)

「青年の成長」(マルコ1 4 : 51 ~ 52 ) <マルコ 14 章 51 ~ 52 節> 51   ある青年が、からだに亜麻布を一枚まとっただけでイエスについて行ったところ、人々が彼を捕らえようとした。 52   すると、彼は亜麻布を脱ぎ捨てて、裸で逃げた。 1.     裸で逃げた  お読みした箇所は、十字架の前夜、イエスさまが逮捕された直後でした。すぐ前の 50 節にあるように、主イエスが逮捕されると、皆は、イエスさまを見捨てて逃げてしまう。その直後に、本日の聖書箇所「ある青年」の記事が挿入されていくのです。「挿入」と言ったのは、この 51 節、 52 節が何とも不自然だからです。話の流れを一瞬止めてしまうかのような不自然さで、これら二節の無い方が、むしろスムーズに流れるくらいです。    この青年、多少の勇気は持ち合わせていたようです。皆が見捨てて逃げたにもかかわらず、この青年は一人でイエスさまについていく。 どうも彼は、イエスさまと近い関係だったようですね。それでイエスさまを逮捕した人々は、この青年をも捕まえようとしたのでした。人々は彼を、イエスに近い人物として認識したのです。  しかし、お粗末なことに、捕まりそうになった途端、彼は恐れをなし、亜麻布を脱ぎ捨て、裸で逃げてしまうのです。 惨めです。逃げながら、彼自身も惨めさを噛み締めていたのではなかったですか。自分も結局はイエスさまを見捨てた一人にすぎなかった。しかも裸で逃げている。  とにかく、この二節は、何とも不自然な挿入です。わざわざここに捻じ込んだかのよう。福音書記者マルコは、どうしてここに挿入したのでしょう。  古い映画ファンの方なら、ホラーやミステリーの先駆けとなったイギリスの映画監督、ヒッチコックをご存じだと思います。私は怖い映画は好きではないのですが、有名ですから何本か見ました。彼の映画には一つの特色があって、どこかで一瞬、監督自らが通行人などのチョイ役で登場するのです。映画ファンは、期待するわけです。今回はどこでヒッチコックが出て来るだろうと。  この「青年」の登場の仕方、どこかそれと似ています。お分かりですか。この青年とは、この福音書を記したマルコであると一般に言われています。 それにし...