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飼葉桶に生まれたキリスト(ルカの福音書2:1~7)


「飼葉桶に生まれたキリスト」(ルカ2:1-7

齋藤五十三

1.    ローマの平和の中で

6-7節(読む)

 今お読みした二節は待ちに待った救い主がちょうど生まれた場面なのに、拍子抜けするほどにあっさりしています。取り分け、この誕生前後のストーリーが華やかでしたから、なおのこと奇妙な感じなのです。このすぐ前のルカ1章には、何が描かれていましたか。そこには有名な絵画にもなった処女マリアへの受胎告知がありました。「マリア。あなたは神から恵みを受けたのです」と語る御使いの姿は、実に印象深いものでした。その他にも1章にはマリアの歌があり、ザカリアの預言ありと絵になる光景の連続なのですが、いざ、イエスさまの誕生となったら、実にあっさりとわずか二節。まるで華やかな前奏を聞いた後、いざメロディーに入ると、わずか二章節で終わってしまうかのような肩透かしです。

 でも冷静に考えれば、救い主誕生に華やかな期待を抱いていたのは、聖書を読んでいる私たちだけなのかもしれません。世界はローマを中心に動いている時代です。ひとたび皇帝の勅令が出ると、すぐにローマ世界の民が一気に大移動していく。そんな騒がしさの中、救い主の誕生はすっかりかすんでしまうのです。そう、イエスさまの誕生は歴史の片隅でひっそりと起こった、まことに小さな出来事であったのでした。

 しかも、生まれた場所が場所です。ギリシア語の原文を見れば、ここで言う宿屋は最低限の安宿で、そこにすら場所がなく、我らが救い主は何と飼葉桶に生まれていく。謙遜と言えば聞こえはいいですが、これは何とも寂しい、惨めな誕生でもあったのです。

 それに比べて、圧倒されるのが皇帝アウグストゥスの力です。この時代はローマの平和(ラテン語ではパクスロマーナ)と呼ばれるローマの武力による平和が約200年続いた時代でした。平和でしたから人々の大移動が可能で、ひとたび皇帝が声を上げれば、多くの民が一斉に動いていく。パクスロマーナは、この皇帝の絶大な権力に支えられていたのです。

 住民登録による人口調査は納税額を調べ、国家予算の算盤をはじくためであったと言います。いつの時代も権力者が考えることは同じです。日本では大昔、太閤検地と言って、豊臣秀吉が大勢の人々を動かし、いくら租税を取れるかと算盤をはじいたことがあったと思い出します。そう、権力者はいつもそのように富を求めて人々を意のままに動かしていく。そうした権力者の思惑の中、ヨセフとマリアがベツレヘムと上っていく。これがパクスロマーナであり、歴史はそのように皇帝の手中に置かれているかのようでした。そして救い主イエスさまも、歴史の大きな流れに翻弄され、片隅にあってひっそりとお生まれになったのでした。

 

2.    キリストを指し示すヒント

 そうです。住民登録をせよとの皇帝の大号令の中、それに流されるままに、ベツレヘムの飼葉桶で生まれたイエスさま。最初のクリスマスは歴史の片隅で起こった出来事でした。

 本日の聖書箇所において、救い主の誕生にフォーカスが合い始めるのは、4節から後の記述です。「ヨセフも、ダビデの家に属し」と切り出されますが、彼はもはや高貴な身分ではなく、一介の大工であったのでした。王ダビデの頃から年月が流れ、しかも王国は滅んでいましたから、ダビデの家系を名乗る一般民衆はごまんといたのだろうと思います。しかも、そのヨセフはガリラヤの町ナザレに住んでいた。後にキリストの弟子となるナタナエルが「ナザレから何の良きものが出ようか」と侮ったことからも分かるように、ナザレは地味で何の話題性もない、平凡な無名の町であったのです。ですから、この4節を読んでクリスマスの輝きを見出せる人は、ほんの一握りであろうと思います。しかしそれでも、ほんの一握りの人々を反応させるヒントがこの4節には隠されているのです。それは「ベツレヘムというダビデの町」というこの部分です。この部分を読んで何かがピンとくる人は、日頃から旧約聖書に通じている人であろうと思います。

 普通、「ダビデの町」と言う場合、旧約聖書では、ベツレヘムではなく都エルサレムを意味するのです。第二サムエル記5章で、王ダビデに向けて敵対するエブス人が「おまえはここに攻めて来ることはできない」と侮ったその町、つまりエルサレムをダビデが見事攻め取っていく。それ以来、エルサレムは「ダビデの町」と呼ばれるようになります。しかし、その「ダビデの町」という愛称をベツレヘムに関連づける預言が、実は一つだけあるのです。それが今朝の招きの御言葉ミカ書5章2節でした。「ベツレヘム・エフラテよ、あなたはユダの氏族の中で、あまりにも小さい。だが、あなたからわたしのためにイスラエルを治める者が出る。その出現は昔から、永遠の昔から定まっている」という御言葉。この御言葉に反応して、ベツレヘムに向かって幼子イエスを礼拝した人々が誰であったか覚えておられますか。そうです。東方から星を頼りにやって来た博士たちは、都エルサレムでこのミカ書の預言に出会い、ベツレヘムに向かったのでした。

 こうしたエピソードからも分かるように、救い主誕生を指し示す4節は、分かる人だけに分かるメッセージです。その背後には預言があるのです。永遠の昔からの預言が。でも、殆どの人は何も汲み取らずに読み過ごすことでしょう。しかし、この背後にある預言の約束ゆえに、分かる人は気づいて、この4節の意味の重さに目を留めていくのです。

 私たちはどうでしょうか。クリスマスの出来事と聞いて、おそらく真っ先に思い浮かぶのはマリヤの出来事であったり、羊飼いや東方の博士たちと言った、周りにいる人々の喜びの光景であって、この地味で目立たない救い主誕生のわずか数節に意味を見出して立ち止まる人は、実に少ないように思います。私たちは周囲で喜ぶマリヤや羊飼いたちの喜びに触れて、救い主を見つけたかのような思いになるのですが、誕生の出来事そのものを描いているのは、谷間にひっそりと隠れているかのようなこのわずか数節だったのでした。

 周囲の喜びに触発されて喜び、でも出来事そのものは見ていない。2019年に私はそんな経験をしました。コロナ前のあの年、ラグビーワールドカップが日本で開催されました。私が勤める東京基督教大学の職員さんの中にラグビーファンがいるのです。日本代表の開幕戦に応募したところ、大変な倍率の中、見事にチケットを獲得しました。ですからその方は、生の試合の目撃者となったのです。一方の私はと言えば、テレビや報道の喜びをまるで自分の喜びであるかのように錯覚し、一喜一憂する日々を過ごしました。でも、フト我に返ると、私は直接この目では一試合も見ていない。私自身は、周りの人たちの喜びが伝わって、一緒に喜んでいたにすぎなかったのです。

 クリスマスの出来事はどうでしょう。マリアの喜びをはじめ、羊飼い、博士、シメオンと言った、ストーリーを取り巻く人々の喜びも大切ですが、御言葉そのものを通して、救い主誕生の瞬間と、その背後にある預言の成就をどこまで受け取っていたのだろうかと、この度思わされたのでした。

 

3.    本当に必要な人に

それにしても、救い主の誕生そのものを描く聖書箇所が、どうしてこんなにも目立たぬ書きぶりなのでしょうか。誕生前後の出来事の華やかさに比べれば、地味な上にも地味であり、ローマ皇帝の権力のカゲで生まれた、実にひっそりとした書きぶりです。

どうして、こんなにもひっそりと、、。最後にその理由を考えたいのですが、どんな人々が最初のクリスマスに救い主に出会ったのかに注目すれば、その答えはおぼろげながら見えてくるだろうと思います。

ローマの支配の片隅でひっそりと生まれたキリスト。そのキリストに出会ったのは、いったいどんな人々だったのか。真っ先に思い至るのは、この直後に出て来る羊飼いです。彼らは貧しく、当時の社会では侮られ、軽んじられている人々でした。でも、貧しい人々だけがキリストに出会ったわけではないのです。例えば2章後半に出て来る老人シメオン。彼は救い主を見るまでは死なないと言われた人でしたね。また84歳に至るまで、断食と祈りをもって礼拝の日々を過ごしていたアンナという老婆もいました。その他にはマタイ福音書に登場する、星を頼りに旅をした後、最後は御言葉に導かれて救い主に出会った東方の博士たちのような人々もいました。

 

 こうした最初のクリスマスに救い主と出会い、礼拝者となった人々を見ていて気付かされるのは次のことです。それは御言葉に促されて捜し求める人々、すなわちイエス・キリストを必要とする人々が、このお方に出会っているということ。イエス・キリストを求め、また必要とする人々が、最初のクリスマスに救い主に出会っていく。

 そんなことを思う時に、御使いの知らせを聞いて心動かされた羊飼いたちの言葉は印象的です。15節「さあ、ベツレヘムまで行って、主が私たちに知らせてくださったこの出来事を見届けて来よう」。そう、神の言葉を伝え聴いて、神の救いへの期待を持って訪ねた人々が、それぞれに出会っていく。そして「地の上に平和があるように」と言われるように、救い主に出会ってまことの平和を見出していく。それがキリストの誕生であったのでした。

 羊飼いたちを動かした、御使いたちの賛美を最後に心に留めたいと思います。14節「いと高き所で、栄光が神にあるように。地の上で、平和が みこころにかなう人々にあるように」。御言葉、すなわち神の御心に応答する人々のうちには平和が訪れていく。それはまことの平和です。

 この時代はローマの武力による平和、パクスロマーナが支配した時代でした。そんな時代の中でひっそりと生まれたキリストに出会った人たちは、神からくるまことの平和を見出していく。ルカ福音書はこの箇所を通して、誰が本当の平和の君であるのかを問いかけているのです。それはローマ皇帝アウグストゥスなのか、それとも、飼葉桶に生まれたお方なのか。

 まことの平和の君は、光り輝く場所、力や富が支配する場所にはおられない。もちろん、今の時代の輝き、町中のイルミネーションやパーティーの喧騒の中にも救い主はいない。そうではなくて、御言葉により平和を求める人々だけが、まことの救い主を見出していく。

 ひっそりと目立たぬ飼葉桶に生まれたキリストです。「宿屋には彼らのいる場所がなかった」との言葉も印象的でした。今の時代、この言葉が胸に響く人も多いのではないでしょうか。生きづらさを抱え、世の中に居場所を見出せない人の多い時代です。しかし、そんな人々にもキリストはまことの平和をもたらしていく。このひっそりとした書きぶりは、逆に、キリストの平和の揺るぎない確かさ、深さ、温かさを物語っているようにも思うのです。

 

 昨年もお話ししました。台湾で宣教師だった二年目、2005年の秋から私の心身は不調でした。疲れているのに神経が高ぶって眠れず、大きな不安感の中で日々を過ごしていました。12月に入ると、療養のために一時帰国が決まりました。そんな帰国を前にする中、私たち家族はクリスマスを迎えたのです。クリスマスの夜、日本語教会のキャンドルサービスに参加しました。クリスマスの歌を久しぶりに日本語で歌う中、心が次第に穏やかになるのを感じました。そして、数か月もの間失っていた心の平安を、あの夜、取り戻すことができたのです。疲れているけれど、心に平和が戻って来た。あふれる笑顔は無理だけど、小さな笑顔を取り戻し、静かにクリスマスの歌を歌ったのです。あれは不思議なクリスマスでした。

へりくだってお生まれになった平和の君を信じ、私たちは神の言葉に聴いていきたいのです。御言葉を通して、この謙遜な救い主を見出したいのです。そこには必ず平和が訪れる。小さく目立たない平和かもしれない。しかし、誰も奪うことのできない揺るがない平和が訪れるのです。 お祈りします。

 

父よ感謝します。どうか御言葉と聖霊によって私たちを導き、この暗い時代に灯りをともすキリストの平和を私たちも見出し、また証しすることができますように。救い主、キリスト・イエスのお名前によってお祈りします。アーメン。


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