「祝福の源として」
創世記12:1~9
さて、アブラムは、まだ若いころ、カルデアのウルというところに住んでいるときに、カナンの地に行くようにとの主の召しを受け、出発しました。そのころの族長は、父テラでした。一族は彼らが所有する家畜や財産を持って、ハランというところまで来ました。目的地は「カナンの地」でしたが、どういうわけかテラ一族は、このハランで途中下車してしまいます。そして、そのままそこに住み着いてしまったのです。なぜ、目的地まで直行しなかったのか。理由はいくつか考えられますが、一番考えられるのは、このハランというところは、自分たちが長く住んできたウルと、文化や宗教が大変似ていたということがあるでしょう。同じ月の神を拝み、経済的にも繁栄し、生活習慣も似ていました。アブラムの父テラは、天地万物の創造主なるまことの神を信じる家系にありました。ところが、長くウルのような異教の地に住む中で、創造主にして唯一の神だけを礼拝し、仕えるという生き方が揺らいでいたのでしょう。異教の習慣や信仰儀礼は、文化や習慣という隠れ蓑を着て、容易に私たちの生活の中に入って来ます。なんとなくまわりと合わせる気楽さのなかで、流されていってしまうのです。日本のような異教の文化習慣の中に生きる私たち信仰者は、身に覚えのある状態かもしれません。そして、ぬるいお風呂からは、いつまでも出られないように、私たちはそこから抜け出せなくなっているのではないでしょうか。
こうして、彼らはハランでストップしました。そこから動き出せないでいました。そして、父テラが歳を取って死にます。その時に、神さまは、もう一度アブラムに語りかけたのです。1節「あなたは、あなたの土地、あなたの親族、あなたの父の家を離れて、わたしが示す地へ行きなさい。」
このタイミングを見ると、神さまは父テラが亡くなるまで、待っておられたのかなとも思います。もう、あなたの判断で出発できるよね、とおっしゃっておられるようです。「あなたの土地」は、肥沃な土地だったかもしれない、かなりの私有地があったかもしれない。けれども神さまは、そこを出なさいとおっしゃいました。そして、「あなたの親族」からも離れるのだよと。今以上に親族の結びつきが強かったことは想像できます。気心知れたいっしょに育った兄弟や従妹たち、離れがたかったでしょう。「あなたの父の家」、その地では、名の知れた富豪だったかもしれません。この「家」に属していれば、何不自由なく暮らし、将来も安泰だったかもしれないのです。けれども神さまは言います。それらから離れなさいと。「離れなさい」というのは、ある人たちにとってはチャレンジです。その離れなければならない対象との結びつきが強ければ強いほど難しいことでしょう。
イエスさまは、「どうしたら永遠のいのちをいただけますか?」と問う富める若者に言いました。「自分の財産を貧しい人に分け与えて、そして私について来なさい」と。すると、その若者は悲しそうな顔をして去って行きました。たくさんの財産を持っていたからです。またイエスさまは、こうも言っています。「まことに、あなたがたに言います。わたしのために、また福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子ども、畑を捨てた者は、今この世で、迫害とともに、家、兄弟、姉妹、母、子ども、畑を百倍受け、来たるべき世で永遠のいのちを受けます。」(マルコ10:29-30)あいまいさが許されない迫害の時代でした。あれもこれもじゃない、あれかこれかの時代だったのです。イエスさまは、迫りました。「あなたは、それらを捨ててわたしについて来なさい」と。
今、祈祷会でローマ書を読んでいますが、そこでパウロは、私たちの救いについて、こんな風に語っています。私たちは本来、野生の木の枝で、もともと野生の木につながっていただけれど、今や、そこから切り離されて、キリストという幹に接ぎ木されたのだと。そうなのです。私たちは、一度切り離される必要があるのです。そうしなければ、どうして新しい幹に接ぎ木できるでしょうか。
この仏教や神道、新興宗教や異端、またそれ以上に無神論がはびこる日本で、クリスチャンは1パーセントにも満たないと言われています。そんな少ない確率の中で、私たちは本物の救いに出会ったのです。いつまでも偶像礼拝、占い、やめられない罪の習慣などとの関係を続けていないで、すっきりと離れませんか。そうするなら、私たちから、新しい祝福の流れが始まるのです。
2、3節をお読みしましょう。
「そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとする。あなたは祝福となりなさい。わたしは、あなたを祝福する者を祝福し、あなたを呪う者をのろう。地のすべての部族は、あなたによって祝福される。」
さて、この2節の中に「祝福」という言葉が何回出て来るでしょう。5回です。神さまが、私たちをどんなに祝福したいと願っておられるのかわかるでしょう。人を祝福する。それは、人を創造された初めから変わらない神さまの願いなのです。ところが、人は、その価値がわからなので、神の祝福を軽んじ、他のところからの祝福を求め、神から離れ、神の祝福を拒絶するのです。
それだけではありません。神さまは、私たちを祝福の源にしようとしておられます。私たちを基にして祝福を広げようとしておられるのです。私たちの教会のフードパントリーに食料提供をしてくださっているセカンドハーベストジャパンは、現在250ほどのフードパントリーに食料を提供しています。私たちのフードパントリーはその一つです。そして私たちのフードパントリーから現在43家庭140人に食料をお届けしています。これと同じように、私たちは、祝福の源です。神さまの祝福の拠点なのです。神さまの倉庫には祝福があふれています。そして私たちを通して、その祝福を広く、多くの人に届けたいと思っておられるのです。
それにしてもアブラムの神さまの召しへの応答は見事です。4節「アブラムは、【主】が告げられたとおりに出て行った。」彼は妻サライと甥のロト、そしてすべての財産と使用人や家畜を伴って、旅立ちました。その身支度から、もう帰るつもりがないのがわかります。彼はとうとうぬるま湯から飛び出したのです。神さまの祝福の約束にかけました。「約束」なので、まだ見ていません。それでも、ともかく、神さまの祝福の約束を信じて踏み出したのです。75歳でした。へブル書を見ると、アブラムはカナンの地という広範囲の目的地は示されていたけれども、具体的にはどこを目指していいのかもわからなかったのです。けれども彼は、神さまが示される方向に向けて、一歩を踏み出しました。そして、カナンの地を北から南に向かって、旅をつづけたのです。そして、カナンの中部シェケムというところまで来たときに、神さまは、「わたしは、あなたの子孫にこの地を与える」と言われました。
「えっ、ここですか?」と私なら聞いていたでしょう。なぜなら、そこには先住民族、カナン人がすでに住んでいました。そしてここに「モレの樫の木」とありますが、この木はいわゆる「神木」です。日本の神木には、紙垂(しで)がついたしめ縄が張られていたりしますが、どんな様子だったのでしょう。せっかく、異教の地を出てきて、心機一転やり直すつもりだったのに、この状態。そして、相変わらず、自分たちには子がいない。神さまちょっと話しが違うんじゃないのと言いたくもなるでしょう。
けれども、アブラムはどうしたのでしょう。神さまにここだよと言われると、はい、わかりましたと、大きな神木の傍らで、石を積み重ねて祭壇を築き、まことの神さまに礼拝をささげたのです。「自分に現れてくださった主のために」とあります。そう、主が現れてくださって、「ここだよ」と言ってくださった。そのみことばの約束があれば大丈夫。主が共におられるなら、主の祝福は必ず成就する、彼はそう信じて、感謝と賛美の礼拝をささげたのです。
神さまは、更に南に旅を続けるように導きます。アブラムは言われるがまま、テントを張り、テントをたたみ、旅を続け、またテントを張り、礼拝をし、テントをたたみ、また旅を続けたのでした。ソロキャンプじゃありません。小さなファミリーキャンプでもない、大所帯です。結局彼は生涯、定住することはありませんでした。ずっと天幕生活だったのです。へブル書では彼のことをこんな風に書いています。
少し長いですが、へブル書11章8節から9節を読みましょう。
「信仰によって、アブラハムは相続財産として受け取るべき地に出て行くようにと召しを受けたときに、それに従い、どこに行くのかを知らずに出て行きました。信仰によって、彼は約束された地に他国人のようにして住み、同じ約束をともに受け継ぐイサクやヤコブと天幕生活をしました。」
13節
「これらの人たちはみな、信仰の人として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるか遠くにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり、寄留者であることを告白していました。」
私たちは地上では旅人寄留者です。なぜなら、私たちはすでに神さまの子ども。やがて神さまが治められる王国を受け継ぐプリンス、プリンセスだからです。ですから、この地上で、楽ができなくても、この地上ではちょっと異質な人であっても、この世で食べたり飲んだり、着たり、遊んだりという楽しみを享受できなくてもいいのです。私たちはやがて御国を相続することをはるかに見て喜び迎えているからです。私たちは御国を待ち望みながら、この世のぬるま湯から飛び出して、神さまの祝福の約束にかけて生きるものなのです。祈りましょう。
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