スキップしてメイン コンテンツに移動

祝福の源として(創世記12:1~9)


「祝福の源として」

創世記12:1~9

 12章から、後にアブラハムと呼ばれるアブラムの生涯をたどります。アブラムは、選びの民、イスラエル民族の直接的な祖先になるので、この後、彼についてのストーリーは、25章までに及びます。人は神に愛される存在として創造されたのに、神から離れ、自ら滅びに向かって行こうとします。それでも神は見捨てないで、救いのご計画をつないで行くために、アブラム選ばれました。アブラムを通して一つの民族を選ばれ、救いをつなごうとしたのです。いつも言うように、神の選びには、人間の側の理由は必要ありません。のちにイエスさまが、「神はこれらの石ころからでも、アブラハムの子を起すことができるのだ」とおっしゃっています。神さまの選びは、100パーセント神さまの愛のご意思によるので、私たちは安心して神さまにお任せしておけばいいのです。

さて、アブラムは、まだ若いころ、カルデアのウルというところに住んでいるときに、カナンの地に行くようにとの主の召しを受け、出発しました。そのころの族長は、父テラでした。一族は彼らが所有する家畜や財産を持って、ハランというところまで来ました。目的地は「カナンの地」でしたが、どういうわけかテラ一族は、このハランで途中下車してしまいます。そして、そのままそこに住み着いてしまったのです。なぜ、目的地まで直行しなかったのか。理由はいくつか考えられますが、一番考えられるのは、このハランというところは、自分たちが長く住んできたウルと、文化や宗教が大変似ていたということがあるでしょう。同じ月の神を拝み、経済的にも繁栄し、生活習慣も似ていました。アブラムの父テラは、天地万物の創造主なるまことの神を信じる家系にありました。ところが、長くウルのような異教の地に住む中で、創造主にして唯一の神だけを礼拝し、仕えるという生き方が揺らいでいたのでしょう。異教の習慣や信仰儀礼は、文化や習慣という隠れ蓑を着て、容易に私たちの生活の中に入って来ます。なんとなくまわりと合わせる気楽さのなかで、流されていってしまうのです。日本のような異教の文化習慣の中に生きる私たち信仰者は、身に覚えのある状態かもしれません。そして、ぬるいお風呂からは、いつまでも出られないように、私たちはそこから抜け出せなくなっているのではないでしょうか。

こうして、彼らはハランでストップしました。そこから動き出せないでいました。そして、父テラが歳を取って死にます。その時に、神さまは、もう一度アブラムに語りかけたのです。1節「あなたは、あなたの土地、あなたの親族、あなたの父の家を離れて、わたしが示す地へ行きなさい。」

このタイミングを見ると、神さまは父テラが亡くなるまで、待っておられたのかなとも思います。もう、あなたの判断で出発できるよね、とおっしゃっておられるようです。「あなたの土地」は、肥沃な土地だったかもしれない、かなりの私有地があったかもしれない。けれども神さまは、そこを出なさいとおっしゃいました。そして、「あなたの親族」からも離れるのだよと。今以上に親族の結びつきが強かったことは想像できます。気心知れたいっしょに育った兄弟や従妹たち、離れがたかったでしょう。「あなたの父の家」、その地では、名の知れた富豪だったかもしれません。この「家」に属していれば、何不自由なく暮らし、将来も安泰だったかもしれないのです。けれども神さまは言います。それらから離れなさいと。「離れなさい」というのは、ある人たちにとってはチャレンジです。その離れなければならない対象との結びつきが強ければ強いほど難しいことでしょう。

イエスさまは、「どうしたら永遠のいのちをいただけますか?」と問う富める若者に言いました。「自分の財産を貧しい人に分け与えて、そして私について来なさい」と。すると、その若者は悲しそうな顔をして去って行きました。たくさんの財産を持っていたからです。またイエスさまは、こうも言っています。「まことに、あなたがたに言います。わたしのために、また福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子ども、畑を捨てた者は、今この世で、迫害とともに、家、兄弟、姉妹、母、子ども、畑を百倍受け、来たるべき世で永遠のいのちを受けます。」(マルコ10:29-30)あいまいさが許されない迫害の時代でした。あれもこれもじゃない、あれかこれかの時代だったのです。イエスさまは、迫りました。「あなたは、それらを捨ててわたしについて来なさい」と。

今、祈祷会でローマ書を読んでいますが、そこでパウロは、私たちの救いについて、こんな風に語っています。私たちは本来、野生の木の枝で、もともと野生の木につながっていただけれど、今や、そこから切り離されて、キリストという幹に接ぎ木されたのだと。そうなのです。私たちは、一度切り離される必要があるのです。そうしなければ、どうして新しい幹に接ぎ木できるでしょうか。

この仏教や神道、新興宗教や異端、またそれ以上に無神論がはびこる日本で、クリスチャンは1パーセントにも満たないと言われています。そんな少ない確率の中で、私たちは本物の救いに出会ったのです。いつまでも偶像礼拝、占い、やめられない罪の習慣などとの関係を続けていないで、すっきりと離れませんか。そうするなら、私たちから、新しい祝福の流れが始まるのです。

2、3節をお読みしましょう。

「そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとする。あなたは祝福となりなさい。わたしは、あなたを祝福する者を祝福し、あなたを呪う者をのろう。地のすべての部族は、あなたによって祝福される。」

さて、この2節の中に「祝福」という言葉が何回出て来るでしょう。5回です。神さまが、私たちをどんなに祝福したいと願っておられるのかわかるでしょう。人を祝福する。それは、人を創造された初めから変わらない神さまの願いなのです。ところが、人は、その価値がわからなので、神の祝福を軽んじ、他のところからの祝福を求め、神から離れ、神の祝福を拒絶するのです。

それだけではありません。神さまは、私たちを祝福の源にしようとしておられます。私たちを基にして祝福を広げようとしておられるのです。私たちの教会のフードパントリーに食料提供をしてくださっているセカンドハーベストジャパンは、現在250ほどのフードパントリーに食料を提供しています。私たちのフードパントリーはその一つです。そして私たちのフードパントリーから現在43家庭140人に食料をお届けしています。これと同じように、私たちは、祝福の源です。神さまの祝福の拠点なのです。神さまの倉庫には祝福があふれています。そして私たちを通して、その祝福を広く、多くの人に届けたいと思っておられるのです。

それにしてもアブラムの神さまの召しへの応答は見事です。4節「アブラムは、【主】が告げられたとおりに出て行った。」彼は妻サライと甥のロト、そしてすべての財産と使用人や家畜を伴って、旅立ちました。その身支度から、もう帰るつもりがないのがわかります。彼はとうとうぬるま湯から飛び出したのです。神さまの祝福の約束にかけました。「約束」なので、まだ見ていません。それでも、ともかく、神さまの祝福の約束を信じて踏み出したのです。75歳でした。へブル書を見ると、アブラムはカナンの地という広範囲の目的地は示されていたけれども、具体的にはどこを目指していいのかもわからなかったのです。けれども彼は、神さまが示される方向に向けて、一歩を踏み出しました。そして、カナンの地を北から南に向かって、旅をつづけたのです。そして、カナンの中部シェケムというところまで来たときに、神さまは、「わたしは、あなたの子孫にこの地を与える」と言われました。

「えっ、ここですか?」と私なら聞いていたでしょう。なぜなら、そこには先住民族、カナン人がすでに住んでいました。そしてここに「モレの樫の木」とありますが、この木はいわゆる「神木」です。日本の神木には、紙垂(しで)がついたしめ縄が張られていたりしますが、どんな様子だったのでしょう。せっかく、異教の地を出てきて、心機一転やり直すつもりだったのに、この状態。そして、相変わらず、自分たちには子がいない。神さまちょっと話しが違うんじゃないのと言いたくもなるでしょう。

けれども、アブラムはどうしたのでしょう。神さまにここだよと言われると、はい、わかりましたと、大きな神木の傍らで、石を積み重ねて祭壇を築き、まことの神さまに礼拝をささげたのです。「自分に現れてくださった主のために」とあります。そう、主が現れてくださって、「ここだよ」と言ってくださった。そのみことばの約束があれば大丈夫。主が共におられるなら、主の祝福は必ず成就する、彼はそう信じて、感謝と賛美の礼拝をささげたのです。

神さまは、更に南に旅を続けるように導きます。アブラムは言われるがまま、テントを張り、テントをたたみ、旅を続け、またテントを張り、礼拝をし、テントをたたみ、また旅を続けたのでした。ソロキャンプじゃありません。小さなファミリーキャンプでもない、大所帯です。結局彼は生涯、定住することはありませんでした。ずっと天幕生活だったのです。へブル書では彼のことをこんな風に書いています。

少し長いですが、へブル書11章8節から9節を読みましょう。

「信仰によって、アブラハムは相続財産として受け取るべき地に出て行くようにと召しを受けたときに、それに従い、どこに行くのかを知らずに出て行きました。信仰によって、彼は約束された地に他国人のようにして住み、同じ約束をともに受け継ぐイサクやヤコブと天幕生活をしました。」

13節

「これらの人たちはみな、信仰の人として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるか遠くにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり、寄留者であることを告白していました。」

私たちは地上では旅人寄留者です。なぜなら、私たちはすでに神さまの子ども。やがて神さまが治められる王国を受け継ぐプリンス、プリンセスだからです。ですから、この地上で、楽ができなくても、この地上ではちょっと異質な人であっても、この世で食べたり飲んだり、着たり、遊んだりという楽しみを享受できなくてもいいのです。私たちはやがて御国を相続することをはるかに見て喜び迎えているからです。私たちは御国を待ち望みながら、この世のぬるま湯から飛び出して、神さまの祝福の約束にかけて生きるものなのです。祈りましょう。


コメント

このブログの人気の投稿

サラの死と埋葬(創世記23:1~20)

「サラの死と埋葬」 創世記12章1~20節   サラが天に召されました。127歳でした。今の私たちの感覚からすると非常に長寿ですが、アブラハムが召されたのは175歳ですから、それを思うと、当時としてはそれほど長寿だとも言えないかもしれません。聖書にはたくさんの女性が登場しますが、亡くなったときの年齢が記されているのは、なんとサラだけだそうです。このことからも、アブラハムだけでなく、サラも聖書の救いの歴史の中で重要な役割を果たしていたことがわかりますね。 サラの生涯は幸せだったでしょうか。いろんなことがありました。夫が神さまから呼ばれたことによって、住み慣れた土地を離れなければなりませんでした。たいていの女性は定住志向ですから、寄留者として生きなければならないことは、サラにとってはつらいことだったことでしょう。時には、いのちの危険があるようなところに寄留することもありました。そんなときには、決まって夫アブラハムは、自分のことを兄だと言ってくれと頼むものですから、彼女は2回もその土地の王に召し抱えられる危機に遭いました。それは、サラの美しさのゆえでした。最近はルッキズムと言って、容姿が美しいことが幸せの条件のように思われています。確かに美しいことで得をすることもあるかもしれませんが、美しさゆえの悩みもあるようです。美しさゆえの誘惑があり、落とし穴があるからです。 けれども、サラの生前の一番の悩みは、やはり子どもがいないことでした。一時は自分で子を産むことをあきらめて、女奴隷ハガルを夫に与えて、彼女によって子をもうけようとしました。けれども、実際に身ごもったハガルを見るのは耐えがたく、ハガルに辛く当たり、彼女が逃げ出すぐらいひどくいじめたのでした。そんな事件があった後、不思議な3人の旅人が来て、「来年の今ごろ、サラに男の子を産む」と告げました。その時サラは、天幕の陰に隠れて、思わず心の中で笑ったのです。ところが神はご真実で、サラは本当に身ごもり、一年後には子どもが与えられました。その時サラは、すでに90歳。しかし、子どもが与えられた喜びに浸る日々もつかの間、今度は女奴隷ハガルの子イシュマエルが邪魔になります。そして、イサクの乳離れの祝いの席で、イシュマエルがイサクをからかったことを機に、夫にイシュマエルを追い出すようにと攻め寄り、とうとう二人を家か...

信仰者が見る世界(創世記24章)

2025/8/24 創世記 24:1-67 「信仰者が見る世界」 序 この主の日の朝、新船橋キリスト教会の皆さまとご一緒にみことばに聴けることを主に感謝しています。今日私たちが開いているのは、創世記 24 章です。新船橋キリスト教会では創世記を順番に読み進めていると伺っていますが、実は私がお仕えしている教会でも創世記を読み進めています。今回、こちらでどの箇所から説教をするか千恵子先生にご相談したところ、せっかくなら創世記の続きをそのまま読み進めようということになりまして、今日は先週の 23 章に続いて、 24 章を開いています。ご一緒にみことばに聴いていきましょう。お祈りします。   無茶なミッション? この 24 章、大変長い 1 章です。五十三先生の素敵なお声で 1 章全部を朗読していただくのもいいかなと思いましたが、中身を見ると、情報が繰り返されている部分もありますので、抜粋して 1-28 節と、 50-61 節を読んでいただきました。 まず、事の経緯を確認しておきましょう。 24 章は、アブラハムがしもべにある重大なミッションを託すところから始まります。 1 節を見ると、「 アブラハムは年を重ねて、老人になっていた 」とありますから、アブラハムは遺言に近いような思いでこのミッションを託したのかもしれません。実際、今日の箇所の最後にアブラハムは出てきませんから、アブラハムはこのしもべが出かけている間に息を引き取ったのではないかと推測する人もいます。いずれにせよ、アブラハムは「自分がこの世を去る前に何とか」という思いで、しもべにミッションを託しました。 ミッションの内容は、いわゆる「嫁探し」です。彼らが今滞在しているカナンの地ではなく、アブラハムの生まれ故郷に行って、息子イサクの妻になる女性を探してきなさい、という内容です。結婚というのは家と家が結ばれることでしたから、カナンの女性と結婚する場合、アブラハム一族はカナンの人々と同化することになってしまいます。すると、カナンの人々が信仰していた異教の神々や風習がたくさん入ってくることになります。それでは、神さまの祝福の約束を子孫に受け継いでいくことができません。だから、私の生まれ故郷に行って探してきなさいと命じたわけです。また、たとえその相手がこの地に来ようとしなかったとして...

ここは天の門(創世記28章)

「ここは天の門」 創世記28章   エサウのヤコブへの怒りが、あまりに激しく、殺意さえ抱いていることが分かった母リベカは、ヤコブを自分の故郷へ送り出すことを思いつき、夫イサクに提案します。イサク自身も、彼の父アブラハムが、イサクのお嫁さん探しに、わざわざハランにしもべを遣わして、妻リベカを見つけ出して連れて来てくれたことを思い出し、それに賛同します。また伏線としては、エサウの二人の妻のことがありました。彼女たちは、イサクとリベカの悩みの種でした。アブラハム、イサクのモットーは何だったでしょうか。「和して同せず」、カナンの地で平和を保ちつつ、なお神の民としてのアイデンティティを固守することではなかったでしょうか。二人の妻の何か問題だったかは、具体的に書かれていないのでわかりませんが、異なった神を礼拝する嫁たちは、生活の中にそれらを持ち込んだのではないかと推測できます。ですから、ヤコブの結婚相手は、なんとしても創造主にして唯一である神を礼拝する女性であってほしい、そんな願いがあったのではないでしょうか。 一方エサウはこの後、イサクがヤコブを祝福して送り出したこと。またリベカの故郷から妻を迎えるよう指示したことを知りました。しかも、その時に、カナンの娘たちから妻を迎えてはならないと命じていたことも知りました。それでエサウは、今いる妻たちのほかに、おじいさんのアブラハムが女奴隷ハガルに産ませた子ども、イシュマエルおじさんの娘を妻に娶ることにしたのです。例えるなら、欠陥住宅自体には、なんの修理もしないまま、その欠陥を補うために、建て増しするようなものです。彼に欠けているのは、心からの悔い改めだったと思うのですが、皆さんはどう思われるでしょうか。 話しは戻りますが、イサクはこの時にはすでに、ヤコブが神の祝福を引き継ぐ後継者であることを認めていました。神のみこころを求めないで事を進めても、神は道を閉ざされることを彼は学んだことでしょう。ただ、ヤコブを祝福の後継者とするならば、本来ヤコブではなく、エサウを外に出すべきなのですが、さすがにヤコブのしたことがあまりに卑劣だったことと、エサウの怒りが収まるために冷却期間が必要だったこと、そして、ヤコブを後継者とするためには、結婚が欠かせなかったために、イサクは、エサウはそばに置いたまま、ヤコブを遠くハランに送り...