「さあ、天を見上げなさい」 (創世記15:1~6)
1節冒頭の「これらのことの後」とは、ロト救出大作戦が終わった後ということです。主のことばが幻のうちにアブラムに臨みました。実はこの「臨んだ」という言葉、ここにきて初めて使われています。今までは、神さまがアブラムに何か言葉を与える時は、「言われた」、「仰せられたと」となっていました。「臨んだ」という表現は、神さまの臨在を表しています。アブラムは、「ああ、今、神さまはここにおられる!」、そんな圧倒的な臨在の中で、神のことばを聞いたのではないでしょうか。
「アブラムよ、恐れるな。わたしはあなたの盾である。あなたへの報いは非常に大きい。」(1節)
「恐れるな」と主は言われます。主の臨在を前に、人は恐れを覚えます。神さまの圧倒的な聖さを前に罪人は恐れ、ひれ伏すことしかできません。ところが主は、「恐れるな」とおっしゃって、主の方から近づいて来られるのです。そして、恐れるアブラムやさしく語りかけられます。「私はあなたの盾である」。「主は私の盾」とは、詩篇でよく出てくる表現ですね。「盾」は、敵の攻撃から私たちを守る武具です。神さまは、いつも私たちの味方で、私たちを傷つける攻撃から私たちを守ってくださる。それだけではない。主ご自身が攻撃の矢面に立ち、飛んでくる矢や剣を、自ら受けてくださるのです。先の戦いで、アブラムが勝利を得ることができたのも、主が敵の攻撃からアブラムを守ったからだよ、そうおっしゃっているようです。
「あなたへの報いは非常に大きい」と主はおっしゃいました。「報い」と聞いて私たちは、先の戦いの戦利品をめぐるソドムの王とのやり取りと思い出します。アブラムは言いました。「私は、いと高き神、天と地を造られた方、【主】に誓う。糸一本、履き物のひも一本さえ、私はあなたの所有物から何一つ取らない。それは、『アブラムを富ませたのは、この私だ』とあなたが言わないようにするためだ。」 (14:22~23) この時、アブラムは一切の戦利品を拒否しました。つまり、戦いに勝利した報いを人には求めなかったのです。人からの報いはいらない、人からの誉め言葉、人からの賞賛、人からの尊敬、そんな変わりやすいものはいらない。そんなものではなく、主からの報いをいただきたい。主からの報いこそ、私にとって本当に価値あるものなのだ。アブラムはそう思っていたのです。そんなアブラムを主は喜んでくださり、そして言われたのです。「あなたへの報いは非常に大きい」
ところが、この言葉を聞いて、アブラムは神さまに対して不満の声をあげます。アブラムは今まで、主が自分に子孫を与えてくださるという約束、土地を与えてくださるという約束を信じて、ここまで来ました。75歳でハランを出て、すでに何年経ったでしょうか。ところが相変わらず子どもは与えられず、自分もサライも年を取るばかり。土地にしても、多くの財産は持っていましたが、寄留者のままで定住できていません。神さまの約束はいつになったら実現するのでしょうか。そして、アブラムは思わず、自分の中にくすぶる不満を口にします。
アブラムは言った。「【神】、主よ、あなたは私に何を下さるのですか。私は子がないままで死のうとしています。私の家の相続人は、ダマスコのエリエゼルなのでしょうか。」さらに、アブラムは言った。「ご覧ください。あなたが子孫を私に下さらなかったので、私の家のしもべが私の跡取りになるでしょう。」(2-3)
「報いは大きいって、あなたは何を私に下さろうとしておられるのですか。家畜ですか?金ですか銀ですか、多くの奴隷ですか。けれども神さま、あなたがどんなに私を物質的に豊かにしてくださっても、子がいなければ、継ぐ者がいないじゃないですか。私の代で終わりです。そして、あの一等頭ダマスコのエリエゼルが継ぐのです。主よ、あなたのお約束の実現は、こういうことなのですか?」 こうしてアブラムは、神さまのお約束と現実のギャップを訴えたのです。そうなのです。神のみことば、お約束と現実にはいつもギャップがあります。その狭間で、私たちは不信仰に陥ります。
「まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。」(マタイ6:33)このみことばで励まされた人も多いでしょう。そして、意気込んで実践してみますが、ほどなく現実とのギャップに挫折してしまいます。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます」(使徒16:31)もいいみことばです。けれども、長年家族のために祈り、福音を語り、礼拝に誘っても、全然救われない。そしてみことばの約束と現実とのギャップに、ほどなく祈ることさえしなくなるのではないでしょうか。ここにいるアブラハムは、そんな私たちと同じ、みことばの約束と現実とのギャップに悩む人です。
皆さんは、このアブラムの姿をどう思いますか。神さまに不満をぶつけるアブラムは不信仰でしょうか?不敬虔なのでしょうか?私はそうは思わないのです。私はここでアブラムの本気を見ます。神さまの約束に本気で期待しているのです。神さまの約束の実現をあきらめていない。だから、現実とのギャップに悩み、神に訴えかけているのです。親子関係に当てはめてみましょう。例えば、親が子どもに、子どもがずっとほしがっていた何かを買ってあげると約束していたとします。けれども、いつまで待っても買ってくれない。もう自分との約束を忘れてしまったかのようにも見える。あなたが子どもならどうしますか?健全な親子関係であれば、子どもは親に訴えるでしょう。いつになったら買ってくれるの?いつまで待てばいいの?忘れてないよね。お父さんは約束したんだよ。子どもは親に必死に訴えるのです。私は、アブラムの姿を見ながら、アブラムと神さまとの関係の深まりを見ます。親子なのだな~と思います。神さまは、「恐れるな」とおっしゃった。「私はあなたの盾」、いつもあなたの味方だよとおっしゃった。だから、アブラムは安心して、自分の心の内の不安を訴えることができたのです。私たちも、本気でみことばの約束を信じていい。そして現実を訴えたらいい。神さまのみこころはどこに?いつなのですか?と問うたらいいのです。主はご真実なお方ですから、私たちの祈りに必ず答えてくださいます。
すると見よ、【主】のことばが彼に臨んだ。「その者があなたの跡を継いではならない。ただ、あなた自身から生まれ出てくる者が、あなたの跡を継がなければならない。
圧倒的な主の臨在の中で、みことばがアブラムに臨みました。「ダマスコのエリエゼルじゃない。あなたの子が、あなたから生まれる子が、あなたの跡を継ぐのだよ」私たちは、主の約束と現実のギャップを埋めるために、自分で今の状況のつじつま合わせをします。「神さまは、私に子孫を与えると言ったけれど、いつまでも与えられない。私はもう年を取ってしまった。これは私の子孫ではなく、しもべのエリエゼルが跡を継ぐということなのだ。」けれども実は、主のみことばは、いつもわかりやすく単純です。自分でつじつま合わせをし、抜け道を造って納得させなくていいのです。神さまは、アブラムの抜け道をふさぎました。けれども、この時、「あなたとサラの子として」と言わなかったので、アブラムは後で、またつじつま合わせをしましたね。アブラムとサラの女奴隷との間に子をもうけたのです。みことばを単純に受け取る。裏読みをしない、奇をてらった解釈をしない。「あなたの子孫を祝福する」と言われた神さまは、それをそのまま実現されるからです。
そして主は、彼を外に連れ出して言われた。「さあ、天を見上げなさい。星を数えられるなら数えなさい。」さらに言われた。「あなたの子孫は、このようになる。」(5節)
主はアブラムを外に連れ出し、満天の星を見せます。皆さんは満天の星を見たことがあるでしょうか。圧倒されるほど美しく、また壮大です。主はアブラムに言います。「天を見上げなさい」。聖書が「天」という時には、主が住まわれるところを指すことが多いです。神さまはここで、自分を見て、現実を見て、そこから抜け出せなくなっているアブラムに、自分ではなく、現実ではなく、天(神さま)を見上げるように言います。そして「星を数えられるなら数えなさい」と言うのです。そこにあったのは、無数の星でした。その数は無限です。聖書を見ると、神さまはいったんここで、言葉を切っています。アブラムが実際、星を数えるのを待ったのではないかと思うのです。アブラムは、星を数え始めます。「一つ、二つ、三つ…、百、百一、百二、百三…」星の一つ一つがまだ見ぬ子孫の顔に見えてきたでしょうか。そして、主はおっしゃるのです。「あなたの子孫は、このようになる」視覚というのは、私たちに大きなインパクトを与えます。アブラムは、信仰の目で、神の約束の実現を見ました。それはリアルにアブラムに迫ります。彼は、神さまのスケールの大きさに圧倒されました。そして自分の小ささ、無力に気づいたのです。考えてみれば、人は、命一つ作ることさえできません。アブラムは、限界ある自分ばかり見て、「自分に子どもが生まれるなんて無理だ」と神さまに訴えました。けれども天を見上げ、満天の星を数えた時に思ったのです。「ああ、このお方は、天地万物を創られ、今も治め、全知全能の神だった。」命一つ作ることのできない私とは、スケールが違う。このお方を私の常識に当てはめるのはナンセンスだ。
アブラムは【主】を信じた。それで、それが彼の義と認められた。(6節)
この「信じる」という言葉は、私たちがお祈りの最後に「アーメン」というあのアーメンの派生語で、「信じる」「信頼する」「確かである」という意味です。アブラムの不安、不満は払しょくされました。老いた自分たちに子どもは与えられるのか、どんな方法で与えられるのか、それはいつなのか、そんな細かなことはどうでもよくなった。「このお方が与えられると言ったら与えられるのだ」と、このお方ご自身を全面的に信頼して、お任せするのだと決心したのです。私たちも祈りの最後「アーメン」と言います。このアーメンは、私の願いは主にお伝えしましたよ。でも私とはスケールの違う知恵と力の源であり、私のことを私以上によく知って、愛して、良いものを備えてくださる主のみこころのままに。あなたを信頼してお任せします、「アーメン」。私たちはそう心を込めて、祈りを閉じるのです。
こうして神は、アブラムを「義」と認めました。聖書の「義」は、神さまとの正しい関係にあることを表します。アブラムは、神さまの前に正直な思いを打ち明け、神からの視覚教材付きの答えをいただく中で、神を信頼しおゆだねし、神さまとの関係が矯正され、整えられました。そして神さまは、そんな彼を義と認めたのです。
主を信じて義と認められる。人の行いにはよらない。それが「信仰義認」です。私たちプロテスタント教会の大切な教理です。神さまは私たちを愛して、私たちを罪と死から救うために、御子イエス・キリストを与えてくださいました。そして御子イエスさまは、私たちの一切の罪を負い、十字架で私たちの代わりに刑罰を受け死んでくださったのです。そのことを信じて、ただ受け取るなら、私たちの罪はゆるされ、完全に神さまとの関係が正常化します。そして私たちは神の子として、永遠に生きる。それが「信仰義認」です。アブラムは信仰の父と呼ばれました。私たちも信仰の父アブラムに倣いましょう。自分でも現実ではなく、天を見上げて、主を全面的に信頼し、お任せするなら、私たちもアブラムの子どもなのです。祈りましょう。
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