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4月, 2025の投稿を表示しています

イエスは岸辺に立たれた(ヨハネの福音書21:1~14)

「イエスは岸辺に立たれた」 ヨハネの福音書21章1~14節   21:1 その後、イエスはティベリア湖畔で、再び弟子たちにご自分を現された。 「その後」というのは、復活されたイエスさまが、エルサレムで弟子たちに 2 回現れた後ということです。一回目は、イエスさまがよみがえられたその日、弟子たちが鍵のかけられた一つの部屋に集まっているときに、イエスさまは弟子たちの真ん中に立たれて、シャロームと言われたのでした。それから 8 日待って、今度は、もう一度同じところで、今度はほとんどトマスのために現れてくださいました。イエスさまは、トマスに、その両手の傷、脇腹の傷を示して、「あなたは見たから信じたのですか?見ないで信じる者は幸いです」と言われました。 そしてその後、弟子たちはガリラヤに移りました。なぜでしょうか。イエスさまの復活の第一目撃者でもあり、証言者でもある女性の弟子たちが、イエスさまが収められていた墓に現れたみ使いの伝言を弟子たちに伝えたからでした。その伝言については、ヨハネの福音書には書かれておらず、マタイの福音書とマルコの福音書に書かれています。マルコの方をお読みします。マルコの福音書16章7節「さあ行って、弟子たちとペテロに伝えなさい。『イエスは、あなたがたより先にガリラヤへ行かれます。前に言われたとおり、そこでお会いできます』と。」彼らは、この言葉を受けて、ガリラヤに来たのです。ガリラヤに来てどれぐらいたったのか、書かれていないのでわかりませんが、ほどなくして、ペテロが言います。「私は漁に行く」と。じっと家の中でイエスさまが現れるのを待っていても仕方ない。目の前には、広いティベリア湖畔(ガリラヤ湖畔)がある。イエスさまに呼ばれる前は漁師だった彼らの血が騒ぎます。ペテロが「私は漁に行く!」というと、待っていましたとばかりに、他の弟子たちも「私たちも一緒に行く!」と言って、総勢 7 人で、ぞろぞろと湖に向かいました。 この7人については、2節に記されています。まずは、シモン・ペテロ、そしてデドモと呼ばれるトマス、先週の説教に出てきた「見ないと信じない!」と言ったトマスです。ガリラヤのカナ出身のナタナエル。聞きなれない名前かもしれませんが、彼も十二弟子の一人で、バルトロマイという名前でも呼ばれています。はじめにイエスさまのことを紹介...

死んで葬られたイエス(マルコの福音書15:33~47)

「死んで葬られたイエスさま」 マルコの福音書15章 33 ~47節   天の父なる神さま、尊いお名前を心から賛美します。今日も十字架のできごとを追っていきます。どうぞ、十字架をただ眺める観客、傍観者になるのではなく、十字架のもとに私たちを置いてくださって、十字架を見上げる者としてください。イエスさまの御名によってお祈りします。アーメン   今日はイエスさまがいよいよ十字架にかかって死んで葬られる場面です。先週の説教でも触れましたが、使徒信条では、「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、死にて葬られ」と続きます。この「死にて葬られ」というのが、非常に重要です。Ⅰコリントの 15 章3~5節では、こんな風に書かれています。 「 15:3 私があなたがたに 最も大切なこと として伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書に書いてあるとおりに、私たちの罪のために 死なれたこと 、また、 葬られたこと 、また、聖書に書いてあるとおりに、三日目に よみがえられたこと 、また、ケファに現れ、それから十二弟子に 現れたこと です。」 ここには、最も大切なことは、イエスさまが死なれたこと、葬られたこと、よみがえられたこと、人々の前に現れたことだと書いてあります。キリスト教会2000年の歴史の中では、多くの異端が現れては消えていきましたが、中には、霊肉二元論に立つギリシア哲学の影響を受けてイエスの死を否定する人たちも現れました。物質的・身体的なものは悪であり、必ず滅びる。他方、霊的・精神的なものは善であり、永遠に存在する。だから「聖い神の御子イエスに人間の罪深い肉体などなく、従って、死ぬこともない。体のように見えたのは幻のようなものだったのだ」と主張しました。けれども、イエスさまは、真の人でした。 100 %神でしたが、100%人でもあったのです。イエスさまの肉体が本当に死んだのでなければ、復活もないということになります。イエスさまの復活がなければ、私たちの復活の望みもありません。ですから、今日の個所で確認したいことは、イエスさまは本当に死なれたということ、そして葬られたということです。 さて、イエスさまが十字架にかかられると、やがて闇が全地をおおいました。「闇」というのは、神不在を意味します。ある人は、これは、...

「見ないで信じる」(ヨハネの福音書20:19~29)

「見ないで信じる」 ヨハネの福音書 20 章19~ 29 節   1.       今日のお話のテーマは、「見ないで信じる」です。みんなは、見ないで信じるのは得意ですか?私は苦手です。そしてすぐに「証拠見せてよ!」と言います。今日のお話に出てくるトマスさんは、そんな先生にそっくりな人です。 2.       イエスさまは、神さまなのに、この地上に人間になって生まれてくださいました。みんなと同じように、おぎゃあ、おぎゃあと生まれて、おっぱい飲んで、おむつを替えてもらって、 1 歳ぐらいで歩けるようになって、そうやって大きくなったのです。そして 30 歳で、神さまのお仕事を始めました。神さまのお仕事というのは、「みんな神さまに愛されてるよ。自分勝手に生きないで、神さまのところに帰ろうよ」と呼びかけるお仕事です。そして、神さまがどんなにみんなのことを愛しておられるかをいつも語り、病気の人がいれば治してあげて、さびしい人のお友だちになってあげました。そうやって、神さまの愛を見せたのです。 3.       ところが、人々は、イエスさまが神さまの子だということを信じません。それどころが、自分を神の子だなんていうイエスは悪い奴だ!と言って、「死刑にしろ!」「十字架につけろ!」と言って、 4.       とうとう十字架につけてしまいました。こうしてイエスさまは、悪いことは何もしていないのに、それどころかいいことばかりしてきたのに、十字架につけられて殺されてしまったのです。 5.       イエスさまの遺体は、布でぐるぐる巻かれて、お墓の中に納められました。そして、大きな石で蓋をされたのです。 6.       そして、このお墓の前には、番兵が置がいて、だれもイエスさまの遺体を盗まないように、厳重に見張りをしていました。ところが…、 7.       3 日目の朝に、イエスさまの女のお弟子さんた...

総督ピラト(マルコの福音書15:1~15)

皆さんは、「冤罪」という言葉を知っておられると思います。冤罪とは、「無実の罪」を意味する言葉です。実際には犯罪者でないのに犯罪者として扱われることを指す、いわゆる「ぬれぎぬ」です。最近の有名な冤罪としては、袴田事件(はかまたじけん)があります。1966年(昭和41年)6月30日に日本の静岡県清水市の民家で発生した強盗殺人・放火事件。現場の家に住んでいた味噌製造会社専務の一家4人が殺害されて金品を奪われ、家に放火されました。そして後日、同社の従業員だった袴田巌が逮捕・起訴され、後に死刑判決が確定しましたが、その取り調べは過酷を極め、炎天下で一日平均12時間、最長17時間にも及び、水も与えずトイレにも行かせず、精神的・肉体的拷問が繰り返されたと言います。そして、この冤罪の汚名を晴らすために60年もの月日を費やして戦ってきた姉、ひで子さんは、もう 92 歳になるそうです。そうして、彼女はカトリック信者です。きっと、神さまはすべてをご存じだという信仰、そしてきっと無実を晴らしてくださるという信仰が、彼女を支えたのではないかと思うのです。 今日の聖書箇所には、冤罪によって、死刑に処せられた一人の男が出てきます。イエス・キリストです。そして、無実だと知りつつ、死刑を言い渡した裁判官、総督ピラトが出てきます。今日は、そんなピラトの心の動きを、彼の言葉から追っていきたいと思います。 ①     あなたはユダヤ人の王なのか(2節) 前の晩、ユダヤ人の最高法院による協議が行われました。協議とは名ばかり。そこでは、はじめに判決ありの、でっちあげの証言がなされ、まずは、イエスの宗教上の罪が確定しました。大祭司がイエスさまにした質問します。14章61節「おまえは、ほむべき方の子、キリストなのか。」つまり、「おまえは、この天地万物の創造主であり、今も統べ治める王の王である神の子、やがてはイスラエルを救う救世主、メシアなのか?」という問いです。するとどうでしょう、それまで、いくら不利な証言をされても何もお答えにならなかったイエスさまは口を開きます。「わたしが、それです。あなたがたは、人の子が力ある方の右の座に着き、そして天の雲とともに来るのを見ることになります。」(62節)そして、その最高法院でイエスは、死に値するということになりました。けれども、当時のユ...