イザヤ6章1〜8節
大茄子川 秀瑛
「驚くばかりの恵み」
本日の箇所は、「死んだ。」という言葉から始まります。
一節「ウジヤ王が死んだ年に、私は、高く上げられた御座に着いておられる主を見た。」
「ウジヤ王が死んだ」このニュースは、国全体に不安の闇を落としました。
ウジヤ王は頼れる王でした。彼は16歳で王に即位し、52年もの間、ユダの国を治めました。これはユダ王国史上、二番目に長い統治でした。その期間、彼は、経済、軍事、農業において成功を収め、国全体に平和と繁栄をもたらしました。ウジヤ王は正に、国の頼れる柱でした。しかし、頼れる柱は折れ、王は死んだ。「これから、この国はどうなっていくのだろうか。」人々の心にそのような不安が広がる年に、イザヤは主を見たのです。
イザヤが見た主は、高く上げられた王座に着座しておられました。
地上の国王の席は空になった。しかし、天にある、世界の王の席には、主が着座しておられた。この地上は移ろい変わりゆくが、しかし、不動の神は昨日も今日も明日も変わらず、世界を支配し、導いておられる。
イザヤの見た、その光景は慰めでした。しかし、同時に恐怖でもあった。イザヤは神の「聖さ」を見たからです。神の側で仕える、セラフィムと呼ばれる天使たちは互いに歌い交わします。
3節「聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主。その栄光は全地に満ちる。」
聖書で同じ言葉が繰り返される時、それは強調を意味しました。例えば、イエス様は、これから本当に大切なことを話す、という時、「まことに、まことに、あなた方に言います。」と言われました。「まことに、まことに、」と2度繰り返すことで、「これから話すことは、重要な事なのだ」と聞く人達に強調したのです。
同じように天使達も、言葉を繰り返すことによって、強調しています。しかし、天使は2度の繰り返しでは足らず、3度繰り返して、「聖なる、聖なる、聖なる」と言いました。神は単に「聖なる方」なのではない。私たちの理解を遥かに超えた、無限に聖なる方なのです。
では、「聖なる」とは、どういう意味なのでしょうか。ヘブライ語の「聖」という言葉には、「分離する」とか「区別されている」という意味があります。他のいろいろな物から区別されて、特別であること。それが「聖」という言葉の意味です。
イメージの為に、聖なる茶器の話をしたいと思います。
皆さんご存知のように、日本には、「茶道」という文化があります。戦国時代、手柄を挙げた武将には、褒美として「領土」もしくは「茶器」が与えられました。「領土」もしくは「茶器」ですから、茶器には、凄い価値があるわけです。そんな、価値ある茶器の中で、最も価値ありとされていたのが、今から800年前、中国で作られた「曜変天目」と言う茶器でした。「曜変天目」は、色は黒いのに色彩豊かに輝く、そんな不思議な茶器です。今現在、現存している「曜変天目」はたった3点のみ。しかも、この3点は国宝に認定されており、値段にすれば10億とも、50億とも言われています。さて、そんな「曜変天目」を何かの間違いで私がゲットしたとしましょう。誰かに貰った!私はその「曜変天目」を他の皿とは区別します。間違っても、私の家にある、100均で買ってきたお皿と同じ棚にしまうようなことはしません。また、他の皿みたいに、お味噌汁を注いで使うようなことはしません。私は「曜変天目」を他の皿とは区別して、頑丈な金庫にしまいます。そして、家宝にします。なぜなら、「曜変天目」は、他の皿とは次元が全く異なる特別な茶器、すなわち聖なる茶器だからです。
さて、神は聖なるお方です。この世のあらゆるものから区別されて、特別なお方です。神によって造られた世界と、造った神ご自身とでは、住んでいる次元が全く違います。例えば、この世界は時間と共に朽ちていきます。しかし、神は朽ちることなく、永遠です。人間は何かに頼らなければ生きていくことが出来ません。しかし、神は何にも、誰にも頼る必要がなく、ご自身で充足しておられます。人間は罪の汚れを持っています。しかし、神には一点の罪のしみも、汚れもありません。神は、この世界とは次元の全く異なる、聖なる、聖なる、聖なるお方なのです。神のような方は、他にいません。
聖なる神の特別さは、栄光となり輝きました。その輝きは、天使が2枚の翼で顔を覆い隠すほどの眩い輝きでした。その輝きを、イザヤは直接見てしまった。イザヤはどうなったのでしょうか。「どうなったのか」に注目する前に、まず、「どうならなかったのか」に注目したいと思います。イザヤは神を賛美しませんでした。天上の天使たちの賛美の輪に、イザヤは加わりませんでした。また、イザヤは神を見て喜びませんでした。むしろイザヤは、恐怖して言ったのです。
5節「ああ、私は滅んでしまう」
神を前にして、イザヤは自分の罪に気がつきました。そして、神に滅ぼされると思ったのです。イザヤは神を直接見るまで、自分のことを「良い人間だ」と思っていたのではないでしょうか。イザヤの時代は、道徳的に堕落した時代でした。その時代の中で、イザヤは他の人と比べて正しい人間だったでしょう。まさか自分が、神に滅ぼされるほどの罪人だったとは、夢にも思わなかったはずです。
人間は、他の人と比較して、自分は良い人間だ、マシな人間だ、と思うものです。気難しい人を見ると、自分はあの人と違って心の直ぐな人だと思います。ニュースに犯罪を犯した人が映ると、自分はあんな悪い人間ではないと思います。下を見れば、自分よりも悪い人は沢山いる。だから、自分は大丈夫だ。そう思うものです。
しかし、それは神の前ではどんぐりの背比べです。例えるならそれは、真っ黒なヘドロの沼に首まで浸かりながら、「私の方が君よりも泥が少ない」と競い合っているようなものです。他人と自分を比べあっているうちは、そもそも自分がヘドロの中にいることに気がつかない。しかし、天を見上げ純白の神を見た時、人は初めて「私はヘドロの中にいたのだ。」と自分の絶望的な汚れに気がつくのです。
罪に気づいたイザヤは続けて言いました。
「私は唇の汚れた者で、唇の汚れた民の間に住んでいる。」
イザヤは特に、唇の汚れを意識しました。口は心と繋がっています。ですから、イザヤが意識した唇の汚れとは、単に「悪い言葉を言ってしまった」という表面的なものではなく、もっと根深い、心の問題です。イザヤは民の唇も汚れていると言っていますが、主は、イザヤ29章13節で、民を次のように責められました。
「主は言われた。『それは、この民が口先でわたしに近づき、唇でわたしを敬いながら、その心がわたしから遠く離れているからだ。』」
人は心にもない事をする事が出来ます。心は神から遠く離れながらも、口では神を賛美する。また、心では相手を呪いながらも、口では祝福を語る。そのような器用な事が出来てしまう。それは、単に悪口を言うよりも、神を欺こうとしている分、より根深く、恐ろしい罪です。
しかも、そのような心の罪は非常に気がつきにくい。悪口を言ったならば、自分で気がつけます。しかし、心の罪は、他の人から忠告されたり、後になって自分の心を注意深く顧みたりする中で、もしかすると気づけるかも、と言う程度の非常に分かりづらいものです。罪は潜伏している。ですから、神の圧倒的な光の前に出ない限り、人は自分の汚れに気がつけないのです
自分の罪に気がついたイザヤは、死を覚悟しました。罪のない聖なる神は、罪を放置することなく、裁かれるからです。しかし、神はイザヤを裁くことなく、驚くべきことをされました。
6、7節「すると、私のもとにセラフィムのひとりが飛んで来た。その手には、祭壇の上から火ばさみで取った、燃えさかる炭があった。彼は、私の口にそれを触れさせて言った。『見よ。これがあなたの唇に触れたので、あなたの咎は取り除かれ、あなたの罪も赦された。』」
イザヤは死を覚悟した。しかし、神は彼を赦されたのです。なぜ神は赦されたのでしょうか?この赦しの根拠はなんでしょうか?それは、炭が取られた、あの祭壇にありました。祭壇、それは罪ある人間の代わりに、罪ない動物が罰せられ、殺される場所でした。イザヤに下るはずの罰は、祭壇の生贄の上に下された。それによって、イザヤは赦されたのです。ですから、イザヤが受けた赦しはタダではありませんでした。犠牲が伴う赦しだったのです。
旧約の祭壇は、新約のイエス様の十字架を指し示しています。イエス様こそ、神に捧げられた真の生贄だからです。天の御座で聖なる、聖なる、聖なる栄光に光り輝くべきお方は、その栄光を捨て、見窄らしい姿で地上に来られました。イエス様は衣服を剥ぎ取られ、尊厳を奪われ、十字架上で人々の前に晒し者にされた。イエス様は私たちの代わりに、打たれ、刺され、砕かれた。それによって私たちは赦されたのです。ですから、罪の赦しはタダではありません。神の大きな犠牲を伴う赦しなのです。その犠牲を神は払われました。皆さん、私たちは、自分の想像以上に罪深い。しかし、私たちの想像以上に、神は愛と恵みに富んでおられます。私たちの神のような方は他にいません。
最後に、神の恵みを受けたイザヤの変化を見たいと思います。
8節でイザヤは、神の呼ばわる声を聞きました。
「私は主が言われる声を聞いた。『だれを、わたしは遣わそう。だれが、われわれのために行くだろうか。』」
この呼びかけにイザヤは答えます。
「『ここに私がおります。私を遣わしてください。』」
この応答は、神から無理強いされたものではありませんでした。神の愛と恵みに対する、感謝の爆発が「私を遣わしてください。」と言わせたのです。
クリスチャンの人生は、恵みに対する感謝の応答の人生です。
心にイエス様の十字架に対する感謝が溢れている時、神に従うクリスチャンの人生は本当に嬉しいものです。しかし、恵みに対する感謝を失うと、途端にクリスチャン人生は味気なく、窮屈な義務になってしまいます。自発的な神への愛がなくなるからです。ですから、私たちはいつも、何度でも、十字架の恵みに帰らなければなりません。
今日の聖書箇所に向かう中、一つの讃美歌が私の心に上ってきました。それは、元奴隷船の船長であり、悔い改め、回心した後に多くの讃美歌を書き残したジョン・ニュートンの、アメージンググレイスです。「驚くばかりの恵みなりき。この身の汚れを知れる我に。」
私たちの罪は驚くほどに深い。しかし、神の恵みはそれ以上に深い。我らの神のような方は他にいません。今日共に、十字架の恵みを覚えましょう。そして、神の愛と赦しの証人として、今週一週間、それぞれの日常に遣わされて参りましょう。お祈りします。
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