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両刃の剣を持つキリスト(ヨハネの黙示録2章12~17節)


「両刃の剣を持つキリスト」(黙示録2:12-17

 

はじめに

12節「また、ペルガモンにある教会の御使いに書き送れ。『鋭い両刃の剣を持つ方が、こう言われる──。』」

小アジア(今のトルコ)の七つの教会に目を留めています。最初の町エペソは小アジア最大の町、二番目のスミルナは商業で栄えた港町でした。本日のペルガモンは、文化の中心でした。有名なのは蔵書20万冊を超える図書館です。その規模は、当時のエジプト、アレクサンドリアに次ぐそうで、この町は学問の町でもあったのでしょう。町には多くの美しい建造物が立ち並んでいたそうですが、その中には相当数の異教の施設があったとのこと。特にペルガモンは、小アジアで最初に、ローマ皇帝カエサルを礼拝する神殿が建った町と言われます。そう、外見は美しくとも霊的には暗い。それがペルガモンであったのでした。

 ここで示されたキリストの姿は「鋭い両刃の剣を持つお方」です。この姿にペルガモンの兄弟姉妹たちは緊張を強いられたかもしれない。鋭い両刃の剣はいったい誰に向けられているのだろう。外の敵に向いているのか、あるいは教会の内に…。この両刃の剣を持つキリストは1章16節に現れて以来、変わることなく教会を見つめ続けていたのです。

 

1.    サタンの王座

2章13節「わたしは、あなたが住んでいるところを知っている。そこにはサタンの王座がある。しかしあなたは、わたしの名を堅く保って、わたしの確かな証人アンティパスが、サタンが住むあなたがたのところで殺されたときでさえ、わたしに対する信仰を捨てなかった。」

「サタンの王座」と聞くだけで、この町の恐ろしい様子が伝わってきます。皇帝崇拝の神殿に加えて異教の施設が立ち並んでいましたので、「やはりそうか」と思わされた。それにしても「サタンの王座」とは尋常ではないでしょう。実際、すでに殉教者を出していたのです。アンティパスとの実名が出てくるほどにリアルで、今なお迫害が教会を取り囲んでいたことを私たちに実感させるのです。

 迫害の中、教会はよく戦っていたようです。いや、「わたしの名を堅く保った」とありますので、戦ったより「耐えていた」の方が正確かもしれません。教会は、殉教者を出し、身の危険を感じながらも、主イエスの御名を捨てることがなかった。たとえ「皇帝カエサルが主である」と言えと強要されても曲げない。「イエスこそが主である」と「主の名」を保ち続けた。ペルガモンの兄弟姉妹たちの忍耐が目に浮かんできます。

 「わたしは知っている」。両刃の剣を持つキリストは言われます。ペルガモンの兄弟姉妹たちが暮らす町を知っているだけではありません。その中で信仰を守る、彼らの戦いと忍耐も知っている。それが私たちの主であることをもう一度心に留めたいのです。

 「サタンの王座」とは「皇帝崇拝」の神殿を指していたと思われます。そんなペルガモン教会を取り巻く現実は、日本の教会の歴史とも重なってきます。先週の五教会の新年聖会では、山口陽一先生が講師でした。日本キリスト教史を専門とする山口先生らしく、戦時中の教会を取り巻いていた天皇制を巡る戦いの歴史を紐解いてくださいました。戦時下では、日本の教会の指導者たちが朝鮮半島にわたり、朝鮮のキリスト教会に対し、「神社は宗教ではなく国民の儀礼である」と、彼らに神社参拝を強要したのです。皇帝カエサルを拝めと強要されたペルガモン教会と重なってきます。これにより朝鮮の教会は分裂。神社参拝に反対した牧師、信徒が総勢70名逮捕され、うち50名が獄死。戦後に解放された20名は「出獄聖徒」と呼ばれ、戦後の韓国キリスト教会の再建に汗を流したそうです。

 私がまだ大学生だった頃は、その出獄聖徒の何名かが存命中でした。私はその中の一人、孫牧師という方とお会いする機会があったのです。孫牧師は、私の当時の所属教会で説教をしてくださいました。内容は忘れましたが、最後に「命がけの信仰を持つように」と励ましてくださったのを覚えています。講壇から「命がけ」という言葉を初めて聞いた経験です。ちなみに私たちの教会にこれまで毎月出席され、今は大阪で奉仕しておられる李インソン先生は、この出獄聖徒の牧師たちによって戦後に再開された教会の流れであったと思います。私たちの身近なところに、こうした迫害の歴史を背景に持つ信仰者がいるのです。

 一方、私たちの同盟基督教団は、戦前には国策に協力して神社を参拝するなど、歴史の負債を負っています。教団としてこれまで、過去の罪責の告白を何度か残してきました。ペルガモン教会の戦いは、実は私たちにも身近な話であった。しかも昨今の日本では、ナショナリズムが強まっていますね。日本に暮らす外国籍の方々が、最近、暮らしていて緊張を覚えることが多くなったとおっしゃいます。そう、私たちの身近にも「サタンの王座」があるのかもしれない。そして、そこに生きる私たちをも両刃の剣を持つキリストが見つめている。このことを心に留めておきたいと思うのです。

 

2.    内なる敵― バラム

14節「けれども、あなたには少しばかり責めるべきことがある。あなたのところに、バラムの教えを頑なに守る者たちがいる。バラムはバラクに教えて、偶像に献げたいけにえをイスラエルの子らが食べ、淫らなことを行うように、彼らの前につまずきを置かせた。」

ペルガモン教会は、「サタンの王座」という外からの攻撃にはよく耐えていました。一方で、どうも内側から崩れつつあったようです。外からの力には強くとも、内側に脆さを抱えている。こうしたケースはしばしば見受けられる現実だろうと思います。

 バラムは、旧約聖書の民数記23章、24章に出てくる怪しげな予言者です。最初、モアブの王バラクに頼まれ、神の民イスラエルを呪おうとします。けれども、神がそれを妨げて呪うことができず、結局はイスラエルを祝福してしまう。しかし、外からの攻撃がダメなら、今度は内に罠を仕掛けよう。それが功を奏した話が民数記25章です。女性を送り込んで誘惑し、色仕掛けで偶像の肉を食らわせ、淫らな罪をおかさせた。そうやってイスラエルを神の祝福から引き離そうと仕掛けたのが、怪しい予言者バラムだったのでした。

 人間というのはこういうことがありますね。戦いの後の気の緩み。「これくらい皆やっている」と、世の空しい楽しみに誘き寄せられて祝福を失ってしまうのです。ローマ皇帝を神とする皇帝崇拝の圧迫には警戒しても、教会は内側から崩れてかけていた。「これくらい、どうってことない」と甘いささやきで、教会を罠にかけつつあったのが、15節のニコライ派です。彼らはまるでバラムのよう。内側で油断させ、甘い汁を吸わせ、しかもそれにハマって、ニコライ派の教えを「頑なに守る」者たちまで教会内に出てくる始末です。

 新約聖書のバラムとも言えるニコライ派。その誘惑が教会を蝕みつつあった。この辺り、二章初めのエペソ教会とは対照的です。エペソ教会は外からの迫害だけでなく、内から誘惑するニコライ派異端ともよく戦った。外にも強く、内側の守りも堅い。あっぱれエペソ教会と言いたくなりますが、エペソ教会は「初めの愛」を失ってしまっていたのでした。

 このように見てくると、完璧な教会など一つもないのだ、と気づかされます。だから私たちは心を柔らかくして、いつもキリストの言葉に教えられる必要があるのです。御言葉を聴く心の柔らかさを失うと、教会はすぐにドロップアウト、道から転げ落ちて行く。たとえ辛口でも、「責めるべきことがある」と言われる、キリストの言葉に耳を傾けていくのです。

 さあ、どうしたらいいのでしょう。ペルガモン教会を蝕みつつあるニコライ派の教え。教会はどうしたらいいのか。主イエスは言葉を継いでいきます。

 16節「だから、悔い改めなさい。そうしないなら、わたしはすぐにあなたのところに行き、わたしの口の剣をもって彼らと戦う。」

 為すべきことはシンプルです。「悔い改めなさい」。悔い改めとは回れ右、生き方を大きく転換していくこと。両刃の剣を持つキリストは、教会に向かい「悔い改めなさい」と命じていく。ニコライ派の教えに染まっているのは、まだ一部の人たちだったと思います。しかし、教会全体に向けて、「悔い改めなさい」。教会として事態を放置しておいてはいけないという、アラート、警告を鳴らしていくキリストでした。教会としてすぐに対処せよ。もしすぐにアクションを起こさないのならばと、キリストは釘を刺します。「そうしないなら、わたしはすぐにあなたのところに行き、わたしの口の剣をもって彼らと戦う。」「そうしないなら」すぐに悔い改めないなら「すぐにわたしが行く」と。これは脅しではなく、キリストの抱いた危機感です。急がなければ、取り返しのつかないことになってしまう。教会がいのちを失ってしまう。だから、いざという時は、「すぐに来て『わたしの口の剣をもって彼らと戦う』」と言われるキリストでした。ここで両刃の剣の意味が明らかになります。「ああ、このためであったのか」と。

 悔い改めなければ、剣で戦うと言われるキリスト。それは厳しさと同時にあわれみでした。すぐに剣を取るのは厳しさです。しかし、その時にキリストは、教会全体を剣で打つことはしない。その時には、ニコライ派の教えを握る、一部の人々と戦われるのです。

 さあ、教会はどうするでしょうか。一部にニコライ派の教えを握る人々がいることを憂え、教会全体で対応するのか。それとも対応の難しさに、手をこまねくことになるのか。すぐにアクションを起こさなければ、キリスト自らが来て一部の人々と戦うと言われる。 たとえ一部であっても、もし、キリストが剣を振るうなら、教会には様々な痛みが残っていくことになるでしょう。そう、だからこそ、主が再び来られる前に、教会として悔い改めたいと思う。一部の罪に対して傍観者となることがないように。もし私たちがペルガモンの教会ならば、教会として悔い改めたい。そのように教会は、外にも内にも様々な危険や戦いがあることを覚えていたいと願ったのでした。

 

3.    白い石

17節「耳のある者は、御霊が諸教会に告げることを聞きなさい。勝利を得る者には、わたしは隠されているマナを与える。また、白い石を与える。その石には、それを受ける者のほかはだれも知らない、新しい名が記されている。」

さて、「勝利を得る者」、つまり最後までキリストの御名を堅く保った者には、いったい何が約束されているでしょう。「隠されているマナ」と「白い石」。実に不思議な二つのプレゼントです。

 「隠されているマナ」とは何でしょう。隠されているので、多くを語ることはできません。しかし、マナは食べ物ですから、14節の「偶像にささげたいけにえ」を食べる話と繋がってくると考えられています。キリストの名を握り続けるなら、この世の空しい食べ物ではなく、キリスト自らが豊かな祝福のマナで養ってくださる。イスラエルが荒野を旅した時に天から降ったのが恵みのマナです。そのマナを再び降らせて、「わたしがあなたがたを養おう」と。これは、そんな主の約束であると言われています。将来、神の国が完成した時に、私たちは何を食べることになるのか。神の国の聖餐式の食卓を、今から楽しみにしたいものです。

 ここでより不思議なのが「白い石」というプレゼント。古代には、公の宴会への入場券に「白い石」が使われたこともあったと言われます。でも正確にはよくわからない。むしろ、ここで注目したいのは、その石には「新しい名」が記されているという、この点です。「新しい名」に注目して、今日の結びとしましょう。

 名は体を表すと言うように、名前はその人のアイデンティティと関係します。主なる神はしばしば、信仰者の成長に応じて、新しい名前を与えました。例えば、最初はアブラムであったのが、神との絆を深めゆく中、創世記17章で「アブラハム」「多くの国民の父」という新しい名を神はお与えになりました。新約聖書にもありますね。マタイ16章、主の弟子のシモンが見事な信仰の告白をした時、イエスさまはシモンに岩を表す「ペテロ」という名を示し、キリストの教会に仕えるようにと招いたのでした。

 そんな出来事に照らせば、勝利を得る者は、神の国で新たなアイデンティティを与えられるのだと思います。皆さんにも新しい名前が与えられるのです。どんな名前がいいですか。「新しい名」を持つ。それは新鮮な経験であろうと思います。

 もう二十年以上も前、宣教師となる準備を兼ねて留学した折りに、私たち夫婦で英語名を持った方が良いのではないか、という話になったことがありました。私は「いそみ」ISを使いますので、「アイザック」がいいのではないか。アイザック・イソミ・サイトウ。千恵子牧師は、CHを使うので、ある人が Christiがいい、と勧めてくださいました。結局私たちは英語名を使わなかったのですけれど、新しい自分になれる気がして、何だか楽しい気持ちになりました。

 そうです。神の国において私たちは新しい名前を持つ。それは、名前だけでなく、私たちのいのちが新たにされるからです。しかも、実はそれがすでに始まっているのです。今日の招きの御言葉です。「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。」私たちはキリストにあって新しいいのちを頂きました。それがやがて完成する日が来ます。その時私たちは、新しい名前を持つ、新しい自分に会うことができる。その日を楽しみにしながら、キリストの名を堅く握り続けたいと願うのです。お祈りします。


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