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ヤコブ一家の旅立ち(創世記31章17~55節)


「ヤコブ一家の旅立ち」

(創世記311755

神さまから、「あなたが生まれた、あなたの父たちの国に帰りなさい。わたしは、あなたとともにいる。」3節)とのお言葉をいただいたヤコブは、早速旅支度を始めます。しかし、そのあたりは抜かりないヤコブのこと、しっかりと時期を選んでいます。まともに、ラバンに掛け合っても、すんなり送り出してくれるとは到底思えない。だからと言って、すでに大所帯になってしまった今、こっそり出発するのは不可能。見つかったらひどい目に合うのは目に見えている。ヤコブは思案したあげく、「そうだ、羊の毛を刈る頃に家を出よう!」と決めました。

羊の毛刈りの時期は、春(4~5月)でした。子羊が生まれ、冬の間伸びた毛を刈るのに適した時気です。この毛刈りは、単なる農作業というだけではなく、収穫を感謝し、豊穣を願う盛大なお祭りでもありました。ですから、この時ばかりは、家の主(あるじ)自ら毛刈りに参加し、毛刈りが終わると、家族や雇人を招き、盛大な宴会を催す習慣があったようです。

20節「ヤコブはアラム人ラバンを欺いて、自分が逃げるのを彼に知られないようにした。」

時期を狙って逃げ出するというのは、理解できますが、この「欺いて」という言葉が気になります。26、27節でも、今度はラバンの口からも、「私を欺き」、「私を欺いて」と出ています。よっぽど腹に据えかねることがあったのでしょう。この「欺いて」の原語は、「心を盗む」という意味を持つそうです。そして実は、この「欺く」という言葉は、19節の「ラケルは、父が所有しているテラフィムを盗み出した」とありますが、ここに出て来る「盗み出す」と同じ単語なのです。こうなると事態は穏やかではありません。ヤコブさん、いったい何をしたの?と思います。詳しくは書いていないのでわかりませんが、何か相当のことをしたのではないかと想像します。ヤコブの悪い癖が、また出たようです。父や兄エサウを騙したヤコブの古い性質です。神さまが、あんなにはっきりと、「あなたが生まれた、あなたの父たちの国に帰りなさい。わたしは、あなたとともにいる」と言われたのに、神の守りを信じないで、なぜまた姑息な手を使ったのでしょうか。

さて、ラケルに目を移しましょう。19節後半「ラケルは、父が所有しているテラフィムを盗み出した。」テラフィムというのは、メソポタミア地方の家の守り神のようなもので、人の形をしていたようです。士師記やサムエル記でも「テラフィム」という偶像が出てきます。最近の考古額の見地から、どうやらテラフィムは、一家の相続権のシンボルだったこともわかってきました。ラケルは、それを盗み出したのです。なぜ、盗んだのか? 理由はいろいろ考えられます。一つは、金などでできていて価値があったということ。ラケルとレアの14節の証言からすると、「私たちの父の家には、相続財産で私たちの取り分がまだあるでしょうか」とありますから、せめて小さくても価値のありそうなテラフィムを相続財産として盗んでいこうと思ったのかもしれません。他に考えられるのは、ラケルが妹だということです。テラフィムが相続権のシンボルだとすると、それを持っていれば第一の相続者になるわけです。夫は、自分のことを愛してくれてはいるけれど、姉のレアは、事実上第一夫人ですし、子どももたくさん産んでいるので、万が一、夫が死ねば、姉と姉の子どもが相続者となるのが自然です。ですからせめて、テラフィムを手元に置いて、相続の話が出たときには、私にはこれがあるとご印籠のように出したいと思ったのでしょうか。また、単なる父への腹いせだった可能性もあります。ヤコブは自分を愛して、自分のために7年働いたのに、結婚初夜、父は、姉レアをヤコブの寝床に送ったのです。そしてそこから自分の不幸が始まったと言っても過言ではないでしょう。ラケルは、父ラバンへの復讐のために、テラフィムを盗んだとも十分考えられます。また、ある人は、ラケルが拝む対象として、テラフィムを盗んだと言いますが、彼女は、盗んだテラフィムをお尻の下に隠しています。しかも宗教的には穢れているとされる不浄の時期(生理の時)にお尻の下に敷いていますので、それは考えにくいのではないかと思います。とにかく彼女は、テラフィムを盗み出した。そしてそれがヤコブ一家を危機に陥れたのです。

 

さあ、ヤコブはラバンを欺き、家族とすべての財産を携え、ラバンの家を抜け出し、3日ほどの道のりを進みました。そして三日目に、誰かが「ヤコブがいません!」とラバンに告げました。ラバンは青ざめました。ヤコブと娘たち、孫たち、そして彼の家畜や召使いたちのすべてがいなくなり、もぬけの殻になっていました。そして、こともあろうか、家の守り神、テラフィムがなくなっていたのです。血相を変えたラバンは、大急ぎで身内の者たちを率いて後を追いました。ヤコブの故郷、カナンの地に向かっていることは間違いないでしょう。こうして、彼らは7日の道のりを追っていき、やっとギルアデの山地でヤコブに追いつきました。彼らは、お互い山地の上で天幕を張りました。これは当時の戦争の時の様相です。例えば、ダビデがまだ年若い時、イスラエル軍とペリシテ軍がエラの谷を挟んでそれぞれ山の上で対峙した様子が描かれています。これは今にも戦いが繰り広げられそうな場面なのです。

ところが、神さまは先手を打っていました。神さまはラバンの夢に現れ、「あなたは気を付けて、ヤコブと事の善悪を論じないようにしなさい」と告げていたのです。意味深な言葉です。「事の善悪を論じるな」一体これはどういう意味なのだろうか。ラバンは、道々考えながらここまで来たのではないでしょうか。彼は、29節を見ると、「私には、あなたがたに害を加える力があるが…」とあるように、一気に攻め込む勢いで馬を走らせて来たと思うのですが、ここでのラバンの語調は、抑え気味のような気がします。26-30節「何ということをしたのか。私を欺いて、娘たちを、剣で捕らえられた者のように引いて行くとは。なぜ、あなたは逃げ隠れて私を欺き、私に知らせなかったのか。タンバリンや竪琴で喜び歌って、あなたを送り出しただろうに。しかもあなたは、私の孫や娘たちに口づけもさせなかった。あなたは全く愚かなことをしたものだ。 私には、あなたがたに害を加える力があるが、昨夜、あなたがたの父の神が私に、『あなたは気をつけて、ヤコブと事の善悪を論じないようにせよ』と告げられた。それはそうと、あなたは、あなたの父の家がどうしても恋しくなって出て行ったのだろうが、なぜ私の神々を盗んだのか。」

ラバンの語調に、「事の善悪を論じるな」という神の言葉が意識されています。もちろん、「タンバリンや竪琴で喜び歌って送り出しただろうに」というのは、ありえないことですが、少なくとも彼はここで「事の善悪を論じて」はいないのです。けれども、彼は一つだけ、どうしても確認したいことがありました。「それはそうと…」とラバンは切り出します。娘たちを黙って連れ出したことは、まあいい。けれども、なぜテラフィムを盗んだのか。それを返してほしいというのです。

それを聞いたヤコブは言います。31節「あなたがご自分の娘たちを私から奪い取りはしないかと思って、恐れたのです。」だから、あなたを欺いて出てきました。けれども、テラフィムを盗んだ件については、語気を強め、反論します。「あなたがご自分の神々をだれかのところで見つけたら、私はその者を生かしておきません。私のところに何があるか、私たちの一族の前で、ご自分で調べてください。そして持って行ってください。」事の事実を知っている私たちは、そんなこと言っちゃっていいの!?と思いますが、ラケルが盗んでいるとは全く思っていないヤコブは強気です。そして、ラバンは家宅捜索を始めます。そして、まずはヤコブの天幕をくまなく探し、続いてレアの天幕、そして二人の女奴隷の天幕に入って探しますが、見つかりません。最後にラケルの天幕に入りました。一番最後にしたのは、ラケルが一番盗んだ可能性が低いと見たからでしょうか。そしてラバンは、彼女の天幕の隅々まで探しましたが、見つかりません。当のラケルは、ラクダの上に座っています。盗んだテラフィムは、ラクダの二つのこぶの間のくぼみのところに入れたのでしょうか。その上に鞍を敷いて、座り、しれっとして言います。35節「父上、どうか怒らないでください。私はあなたの前で立ち上がることができません。女の常のことがあるからです」。そう言われてしまうと、もう何も言えません。ラバンは捜索をあきらめました。

 

するとヤコブは、それ見たことかと、たまりにたまった不満と怒りが、噴出しました。自分がラバンに仕えていた20年間、一度でもあなたのものを取ったことがあったか?私は当然の権利も主張せず、あなたの群れに損失が出ないように、自分に落ち度がなくても、何か損失が出たときには、自分がそれを被ったではないか。それをいいことに、あなたは私に責任のないことまでも、糾弾し、責任を負わせたではないか。私は、あなたの群れを任されていることのプレッシャー、ストレスとでどんなに大変だったかと、堰を切ったように語ります。そして最後に付け加えるのです。42節「もし、私の父祖の神、アブラハムの神、イサクの恐れる方が私についておられなかったなら、あなたはきっと何も持たせずに私を去らせたことでしょう。神は私の苦しみとこの手の労苦を顧みられ、昨夜さばきをなさったのです。」

ヤコブの20年の苦しみとラバンがヤコブにした仕打ちは、私たちも見てきました。ヤコブの言うことはもっともです。けれども、この42節を見ると、ここでヤコブは、自分は正しい、ラバンは悪いという構図を打ち立てています。自分は神の側、ラバンは神に裁かれる側と。しかし、ここで忘れてはいけないことがあります。それは、ラケルがテラフィムを盗んでいたということです。もし、神が守って、そのテラフィムが見つからないようにしてくださらなければ、ヤコブは、「私はその者を生かしておきません!」と宣言した通りに、最愛の妻、ラケルを亡き者にしなければならなかったのです。神は、ラバンに「事の善悪を論じるな」と忠告しましたが、これは実は、ヤコブへのメッセージでもあったのです。ヤコブはラバンを欺いて脱走しました。そして彼の妻は実際盗みを働いていたのです。完全に正しい人はいません。「義人はいない。ひとりもいない。」とローマ3章10節にある通りです。伝道者の書7章16節にはこうあります。「あなたは正しすぎてはならない。自分を知恵のありすぎる者としてはならない。なぜ、あなたは自分を滅ぼそうとするのか。」どうして私たちの間に争いがあるのでしょうか。それは私たちが正しすぎるからです。どうして戦争は起こるのでしょうか。それは互いに、自分たちが正しいと信じているからです。自分たちに大義があると信じているからです。自分こそは、正しい。神は自分の側にある! 人も国もこうして自分を義として戦うのです。

 

しかし、完全に正しい人間はいません。完全に正しい国もありません。正しいお方は、イエス・キリストお一人です。イエス・キリストだけが、人として生まれながら、一度も罪を犯すことなく、その生涯を全うされ、それゆえに、私たちの罪をその身に負って、私たちの代わりにさばきを受けることがおできになったのです。私たちは、ヤコブのように口角泡を飛ばして、自分の正しさを論じる者ではなく、神の御前にへりくだって、胸を打ち叩いて、罪人の私を憐れんでくださいと祈るものでありたいと思うのです。

幸いなことに、ラバンとヤコブは和解します。そして、いっしょに食事をし、記念碑を立て、境界線を定めることによって、平和の道を選びとることができました。「ですから、これは人の願いや努力によるのではなく、あわれんでくださる神によるのです。」(ローマ9:16)祈りましょう。


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