スキップしてメイン コンテンツに移動

本当に主はよみがえって(ルカの福音書24章33~53節)


「本当に主はよみがえって」

ルカの福音書243353

先週はイースターで、エマオの途上で二人のお弟子さんがイエスさまに出会ったお話しをしました。食事の席で、イエスさまがパンを取って裂いた時に、さえぎられていた弟子たちの目が開かれ、目の前のお方がイエスさまだとわかったのです。その瞬間イエスさまは見えなくなりましたが、二人は復活のイエスさまに会ったことを他の弟子たちにも伝えたくて、すぐさま立ち上がり、もと来た道をエルサレムに引き返して行ったのでした。当時のエルサレムは城壁に囲まれていて、その城壁の門は日没の時間になると、閉ざされたといいますから、急がなくてはいけません。きっと彼らは11㎞の道のりを走るようにして戻ったのではないかと思います。

彼らが到着すると11人の弟子(ユダを抜いた?)とその仲間が集まっていました。そして彼らは何やら興奮して話し合っているようでした。話し合っている内容は、34節「本当に主はよみがえって、シモンに姿を現された」でした。ここで言うシモンはもちろんペテロのことです。えっ?イエスさまいつの間にペテロに会ってたの?と私たちは思います。おそらく、女たちの墓が空っぽだったという知らせを受けて、ペテロはすぐに墓に行って、確かに空であることを確認したのですが、その後に、復活のイエスさまが個人的にペテロに出会ったのではないかと思われます。ルカの福音書には詳しくは書かれていませんし、他の福音書にもないのですが、それ以外考えられません。とにかく、その話でもちきりの時に、エマオ途上で復活のイエスさまに出会った二人の弟子(クレオパともう一人)が、息せき切ってみんなが集まっている部屋に帰ってきて、「道中起こったことや、パンが裂かれたときにイエスだとわかった次第を話した」のでした。そこにいた人々は、その日、朝から起こっている一連の出来事を聞いて、大騒ぎだったのではないでしょうか。

さらに、そんな状態の彼らの真ん中に、突然イエスさまが現れたのです。36「これらのことを話していると、イエスご自身が彼らの真ん中に立ち、『平安があなたがたにあるように』と言われた。」これもまた復活のからだの不思議です。ドアをノックして普通に入って来ても十分驚きなのに、みんなが話をしている真ん中にいきなり現れるなんてどうしたことでしょう。人々は驚きを通り越して、「おびえて震え上がり、幽霊を見ているのだと思った」(37節)とあります。当然でしょう。生身のからだを持った人が、突然現れたり、消えたりするはずがありません。ただ、エマオの途上でも、イエスさまが突然姿を消した…という話は聞いていたはずですが。

イエスさまを「幽霊」だと勘違いして弟子たちが怯える場面、他の個所でも見たことがありますね。イエスさまが湖の上を歩いて渡るのを見かけた弟子たちが、幽霊だと思ったあの場面です。この「幽霊」と訳されている言葉は、ギリシャ語でファンタスマと言って、幻想とか幻覚を意味します。つまり弟子たちは、湖の上を歩いているそのお方をイエスさまだと認識できていなかったということです。それに対して、ここに出てくる「幽霊」はプニューマといって、これに相当するヘブル語は「ルーアッハ」といい、息とか風を意味する言葉です。つまり、弟子たちはこの彼らの真ん中に立たれたお方は、イエスさまだと認識していたのですが、それがイエスさまの「霊」、からだを持たない霊だと思ったということです。「~だと思った」というのは、ドケオと言って、「そう見えた」「そう思い込んだ」と言う意味があります。この記事を記したルカは、のちにこの言葉から派生したドケチズム(仮現説)という異端思想が出て来ることを知っていました。この説は、見える物と見えないものを分離させ、見えない者こそ高尚で聖いとし、見える物を軽視します。ですからルカはここで、イエスは霊だけではなく、肉体をもってよみがえったということを強調しているのです。

イエスさまはからだをもってよみがえりました。以前のからだとは違いました。それはエマオの途上で弟子たちがイエスだと認識できなかったこと、また、突然消えたり、現れたりすることからも分かります。けれどもイエスさまは、確かにご自分がからだをもって復活したことを弟子たちに知ってほしいと思っています。ですから、取り乱し、心に疑いを抱いている弟子たちに言います。39「わたしの手やわたしの足を見なさい。まさしくわたしです。わたしにさわって、よく見なさい。幽霊なら肉や骨はありません。見て分かるように、わたしにはあります。」イエスさまはこう言って、彼らに手と足を見せられました。そこには十字架の傷跡もあったでしょう。そして「さあ、さわってみなさい」と言うのです。

イエスさまが手と足を見せたことによって、彼らはこのお方が確かに肉体を持ったイエスさまであることがわかって、じわじわ~と喜びが湧いてきたのですが、まだ、彼らの理性や常識が邪魔して、「不思議がって」いました。イエスさまは、そんな弟子たちを見て次の手を出してきました。41節「ここに何か食べ物がありますか?」とイエスさまが尋ねると、そこにいた誰かが、台所から?魚を一切れ持ってきました。イエスさまは、それを取って、彼らの前でむしゃむしゃと食べ始めたのです。なんだか、イエスさまってユーモラスですね。きっとにやにやしながら、「ん~、おいしいね~」なんて言って食べたんでしょう。

イエスさまの復活はからだの復活でした。体から魂が抜け出したようなものではないし、一度心肺停止したのに心臓がまた鼓動を始め、息を吹き返すような蘇生でもない、ましてや、たとえ死んでも私たちの心の中で生きているというような観念的なよみがえりでもないのです。イエスさまはからだをもってよみがえってくださいました。これは私たちにとってもとても重要なことです。なぜなら、私たちもやがて同じように新しいからだをもってよみがえるからです。Ⅰコリント15:20「しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。」私たちはいつか死にます。そしてこの肉体は朽ちていきます。けれども十字架によって私たちの罪を贖い、よみがえってくださったイエス・キリストを信じる私たちは、一度死んでもよみがえります。イエスさまが初穂として、死者の中から、からだをもってよみがえってくださったように、私たちも新しい、栄光のからだをもってよみがえるのです。

ハイデルベルク信仰問答問57 「身体のよみがえり」は、あなたにどのような慰めを与えますか。

答 わたしの魂が、この生涯の後(のち)ただちに、頭(かしら)なるキリストのもとへ迎え入れられる、というだけではなく、やがてわたしのこの体もまた、キリストの御力によって引き起こされ、再びわたしの魂と結び合わされて、キリストの栄光の御体(みからだ)と同じ形に変えられる、ということです。

 イエスさまは、手と足を見せ、また魚を食べて見せ、ご自分のからだのよみがえりを示したあと、このイエスさまの復活が、聖書の預言の成就であること、また、神さまの救いのご計画の成就であることを聖書から説き明かし始めました。

イエスさまの復活は、死んだ者が復活するのですから、出来事として不思議で、力ある「みわざ」です。それは神にしかできないすばらしい奇跡です。けれども、復活のすごさ、復活の持つ大きな意味は、それだけではありません。イエスさまの復活は、神さまが永遠の昔からもっておられた救いのご計画の成就でした。預言者たちを通して、私たちのためにメシア、救い主が送られることが、聖書の中でずっと語られてきたのです。例えば、推理小説では、最後に謎解きが行われます。そうして謎が解かれたときに、私たちは小説の初めから伏線がたくさん引かれていたことに気づくのです。それと同じで、イエスさまが復活した今、もう一度聖書を紐解き、あちこちに引かれていた伏線を回収する作業がここでなされているのです。当時のユダヤ人たちは、聖書に精通していましたから、ああ、ここにもヒントがあった、ここにも伏線が引かれていた、ここにも預言されていた、神さまは答えを見せてくれていたと、イエスさまの復活の光を当てならが、今弟子たちは聖書を見直しています。

48節「あなたがたは、これらのことの証人となります。」神さまの救いのご計画が、イエスさまの復活を通して成就したことの証人となるのです。ただ、弟子たちはまだ弱い。今日の聖書個所の中だけでも、怯えたり、震え上がったり、取り乱したり、疑ったり、不思議がったりしています。この時も、弟子たちは不安そうな顔をしていたのでしょう。イエスさまは言いました。49節「見よ。わたしは、わたしの父が約束されたものをあなたがたに送ります。あなたがたは、いと高き所から力を着せられるまでは、都にとどまっていなさい。」彼らが確信をもって、力強く、イエスさまの復活の証人として立ち上がるためには、ペンテコステ(聖霊降臨日)を待たなくてはいけません。

 イエスさまは復活された後、40日間、多くの人々に、その復活のからだを現わされました。そして40日後イエスさまは、弟子たちをべタニア(オリーブ山のふもと)の近くまで連れていき、手をあげて祝福しながら人々から離れて行き、天に上げられたのです。そこに集まっていた多くの人々は、天に上げられたイエスさまを見て礼拝しました。

私は今回、この「彼らはイエスを礼拝した」というところで、はっと気が付きました。イエスさまは、復活されたことによって、弟子たちの礼拝の対象になったのだということです。イエスさまがいっしょに歩まれていた頃、弟子たちにとって、イエスさまは偉大な預言者であり、教えに力ある教師(ラビ)であり、イスラエルをローマから解放する救世主でした。けれども、十字架につけられて殺されたイエスさまを見、三日目によみがえったイエスさまに出会った彼らは、イエスさまこそ、神のご計画によって人の救いを成就するために地上に送られた神の御子キリスト、救い主、神ご自身であることがわかったのです。そしてこのお方を賛美し、礼拝することは、神を礼拝することだとわかりました。

この後私たちは、教会福音讃美歌158番「小羊をばほめたたえよ」を賛美します。3番「いのちの主を ほめたたえよ/ 死をほろぼしたる 力の主を/神の民よ 復活の主に/栄えの冠を ささげ歌わん」4番「王なるイェスを ほめたたえよ/すべてを治める 支配の主を/とわにいます 平和の主に/栄えの冠を ささげ歌わん」

罪と死に打ち勝って、よみがえり、今は天で王の王、主の主として、父なる神の右の座におられる私たちの主イエス・キリストを高らかに賛美しましょう。



コメント

このブログの人気の投稿

サラの死と埋葬(創世記23:1~20)

「サラの死と埋葬」 創世記12章1~20節   サラが天に召されました。127歳でした。今の私たちの感覚からすると非常に長寿ですが、アブラハムが召されたのは175歳ですから、それを思うと、当時としてはそれほど長寿だとも言えないかもしれません。聖書にはたくさんの女性が登場しますが、亡くなったときの年齢が記されているのは、なんとサラだけだそうです。このことからも、アブラハムだけでなく、サラも聖書の救いの歴史の中で重要な役割を果たしていたことがわかりますね。 サラの生涯は幸せだったでしょうか。いろんなことがありました。夫が神さまから呼ばれたことによって、住み慣れた土地を離れなければなりませんでした。たいていの女性は定住志向ですから、寄留者として生きなければならないことは、サラにとってはつらいことだったことでしょう。時には、いのちの危険があるようなところに寄留することもありました。そんなときには、決まって夫アブラハムは、自分のことを兄だと言ってくれと頼むものですから、彼女は2回もその土地の王に召し抱えられる危機に遭いました。それは、サラの美しさのゆえでした。最近はルッキズムと言って、容姿が美しいことが幸せの条件のように思われています。確かに美しいことで得をすることもあるかもしれませんが、美しさゆえの悩みもあるようです。美しさゆえの誘惑があり、落とし穴があるからです。 けれども、サラの生前の一番の悩みは、やはり子どもがいないことでした。一時は自分で子を産むことをあきらめて、女奴隷ハガルを夫に与えて、彼女によって子をもうけようとしました。けれども、実際に身ごもったハガルを見るのは耐えがたく、ハガルに辛く当たり、彼女が逃げ出すぐらいひどくいじめたのでした。そんな事件があった後、不思議な3人の旅人が来て、「来年の今ごろ、サラに男の子を産む」と告げました。その時サラは、天幕の陰に隠れて、思わず心の中で笑ったのです。ところが神はご真実で、サラは本当に身ごもり、一年後には子どもが与えられました。その時サラは、すでに90歳。しかし、子どもが与えられた喜びに浸る日々もつかの間、今度は女奴隷ハガルの子イシュマエルが邪魔になります。そして、イサクの乳離れの祝いの席で、イシュマエルがイサクをからかったことを機に、夫にイシュマエルを追い出すようにと攻め寄り、とうとう二人を家か...

信仰者が見る世界(創世記24章)

2025/8/24 創世記 24:1-67 「信仰者が見る世界」 序 この主の日の朝、新船橋キリスト教会の皆さまとご一緒にみことばに聴けることを主に感謝しています。今日私たちが開いているのは、創世記 24 章です。新船橋キリスト教会では創世記を順番に読み進めていると伺っていますが、実は私がお仕えしている教会でも創世記を読み進めています。今回、こちらでどの箇所から説教をするか千恵子先生にご相談したところ、せっかくなら創世記の続きをそのまま読み進めようということになりまして、今日は先週の 23 章に続いて、 24 章を開いています。ご一緒にみことばに聴いていきましょう。お祈りします。   無茶なミッション? この 24 章、大変長い 1 章です。五十三先生の素敵なお声で 1 章全部を朗読していただくのもいいかなと思いましたが、中身を見ると、情報が繰り返されている部分もありますので、抜粋して 1-28 節と、 50-61 節を読んでいただきました。 まず、事の経緯を確認しておきましょう。 24 章は、アブラハムがしもべにある重大なミッションを託すところから始まります。 1 節を見ると、「 アブラハムは年を重ねて、老人になっていた 」とありますから、アブラハムは遺言に近いような思いでこのミッションを託したのかもしれません。実際、今日の箇所の最後にアブラハムは出てきませんから、アブラハムはこのしもべが出かけている間に息を引き取ったのではないかと推測する人もいます。いずれにせよ、アブラハムは「自分がこの世を去る前に何とか」という思いで、しもべにミッションを託しました。 ミッションの内容は、いわゆる「嫁探し」です。彼らが今滞在しているカナンの地ではなく、アブラハムの生まれ故郷に行って、息子イサクの妻になる女性を探してきなさい、という内容です。結婚というのは家と家が結ばれることでしたから、カナンの女性と結婚する場合、アブラハム一族はカナンの人々と同化することになってしまいます。すると、カナンの人々が信仰していた異教の神々や風習がたくさん入ってくることになります。それでは、神さまの祝福の約束を子孫に受け継いでいくことができません。だから、私の生まれ故郷に行って探してきなさいと命じたわけです。また、たとえその相手がこの地に来ようとしなかったとして...

ここは天の門(創世記28章)

「ここは天の門」 創世記28章   エサウのヤコブへの怒りが、あまりに激しく、殺意さえ抱いていることが分かった母リベカは、ヤコブを自分の故郷へ送り出すことを思いつき、夫イサクに提案します。イサク自身も、彼の父アブラハムが、イサクのお嫁さん探しに、わざわざハランにしもべを遣わして、妻リベカを見つけ出して連れて来てくれたことを思い出し、それに賛同します。また伏線としては、エサウの二人の妻のことがありました。彼女たちは、イサクとリベカの悩みの種でした。アブラハム、イサクのモットーは何だったでしょうか。「和して同せず」、カナンの地で平和を保ちつつ、なお神の民としてのアイデンティティを固守することではなかったでしょうか。二人の妻の何か問題だったかは、具体的に書かれていないのでわかりませんが、異なった神を礼拝する嫁たちは、生活の中にそれらを持ち込んだのではないかと推測できます。ですから、ヤコブの結婚相手は、なんとしても創造主にして唯一である神を礼拝する女性であってほしい、そんな願いがあったのではないでしょうか。 一方エサウはこの後、イサクがヤコブを祝福して送り出したこと。またリベカの故郷から妻を迎えるよう指示したことを知りました。しかも、その時に、カナンの娘たちから妻を迎えてはならないと命じていたことも知りました。それでエサウは、今いる妻たちのほかに、おじいさんのアブラハムが女奴隷ハガルに産ませた子ども、イシュマエルおじさんの娘を妻に娶ることにしたのです。例えるなら、欠陥住宅自体には、なんの修理もしないまま、その欠陥を補うために、建て増しするようなものです。彼に欠けているのは、心からの悔い改めだったと思うのですが、皆さんはどう思われるでしょうか。 話しは戻りますが、イサクはこの時にはすでに、ヤコブが神の祝福を引き継ぐ後継者であることを認めていました。神のみこころを求めないで事を進めても、神は道を閉ざされることを彼は学んだことでしょう。ただ、ヤコブを祝福の後継者とするならば、本来ヤコブではなく、エサウを外に出すべきなのですが、さすがにヤコブのしたことがあまりに卑劣だったことと、エサウの怒りが収まるために冷却期間が必要だったこと、そして、ヤコブを後継者とするためには、結婚が欠かせなかったために、イサクは、エサウはそばに置いたまま、ヤコブを遠くハランに送り...