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よのおわりまでともに(マタイ28:16~20)

 


「世の終わりまでともに」(マタイ28:16-20

 

1.    疑う者たち

16  さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示された山に登った。17  そしてイエスに会って礼拝した。ただし、疑う者たちもいた。

 

 「十一人の弟子たち」と聞いて一瞬、「あれっ、十二人ではないのか」と思われた方もあるかもしれません。そう、一人欠けている。イエスを裏切ったユダが欠けて十一人なのでした。彼は銀貨三十枚でイエスを売り渡したものの、後に心責められて自ら命を絶ったのでした。ここで山に集まったのは、そうした十字架の試練を目撃したサバイバーたちです。けれども、この十一人とて無傷ではなかったのです。ペテロは三度、イエスを知らないと否定し、他の弟子たちも皆、十字架の主を見捨てて逃げてしまったのでした。

 そう、十一人はいずれも挫折を経て、脛に傷を持っていた。その彼らが今再びガリラヤで一つ所に集まっているのです。これは意義深いこと。これが復活のメッセージの力です。挫折し、傷を負った者たちをも一つに集め、傷や躓きを癒していく。これが復活の恵みです。

 「イエスが指示された山に登った」とありました。どこの山かは不明です。実はマタイの福音書において「山」には特別の意味が込められています。有名なのは「山上の説教」。その他にも重要なことがしばしば「山」で起こっていく。ですから十一人が、彼らの原点であるガリラヤに帰り、そこで「山」に登った。きっと何か大事なことがここで起ころうとしている。そんな予感を誰もが覚える場面です。

 弟子たちは山に登りました。イエスさまの指示に従ったのです。すると、そこでイエスさまが待っていたのです。弟子たちが登ったあと「イエスが現れた」とは記されていません。待っておられたのです。イエスさまは弟子たちを心待ちにしていたのです。何しろ天使を通してあらかじめ、「先にガリラヤへ行く」と伝えたイエスさまでした。先にガリラヤに行って、弟子たちを心待ちにしている。そんな主の思いが滲んでくるところです。

 けれども、この箇所に私は少し驚きました。山に登ってイエスさまに会いながらも、十一人の中に「疑った者たち」がいたのです。復活の主に出会い、彼らはまず礼拝した。これは自然のことでしょう。主は復活し、神ご自身であることが誰の目にも明らかとなったはずだからです。けれど、礼拝しながらもその中には、心の中で疑いを抱く者たちがいたのです。

 この十一人は、これまで三年以上、イエスさまと寝食を共にした弟子たちです。そして今や、目の前に復活の主イエスを見ている。それなのに何を疑うのか、と私は驚いた。

でも、これが人間の現実です。聖書には、「疑った弟子たち」の名は記されません。誰もが疑い得るからなのでしょうか。そして、そもそも復活とはそれほどの奇跡なのだと思う。新約時代の人々は原始的かつ幼稚で信じやすかったわけではないのです。そもそも復活とは、容易には信じられない事柄なのです。

 この疑った弟子たち、いったい何を疑ったのですか。何を疑ったかを聖書は語っていない。さまざまな疑いがあり得たと思います。「本当によみがえったのか」と復活そのものを疑った人もあったでしょう。また、山で待っていた主イエスの「意図」を疑った者もいたと思う。何しろ彼らは十字架のイエスさまを見捨てて逃げた十一人です。「今更どの面下げて」という深い恥じらい。自分たちが赦されるはずがない、という赦しへの疑いもあったでしょう。裏切った相手との再会は、やはり気まずい。それが人間の現実です。

 だからこそ、18節には「目を見張る」思いを抱きました。挫折した十一人に向かい、まるで両腕を広げるかのようにして主イエス自ら近づいていくのです。「イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた」。原文を読むと、ここは印象深いのです。ここには三つの動詞が続いて現れ、特別なニュアンスを伝えています。近づく主イエスを見つめる弟子たちには、それがスローモーションに見えたかもしれない。挫折した弟子たち、しかも心に疑う者もいるのに、主イエスの側から心を開いて近づいてくる。あの放蕩息子を自ら迎えに走った父親のように、主イエス自ら「待っていたよ」と腕を広げるように近づいていく。このようにして弟子たちが赦され、受け入れられていることが明らかになります。これは何気ない、しかし、慰め深い場面です。復活の主ご自身が、自分から弟子たちに近づき語り掛けていく。

 私たちも時に、疑いを抱いて礼拝に集うことがあるかもしれない。自分のような者が赦されるはずはないと、心に恐れを抱きながら。どうか重荷を下ろして下さい。そんなあなたにも主自らが近づき、御言葉をもって語り掛けてくださるのです。それが復活の主と出会うということです。

 

2.    権威をもって遣わす

そのように主イエスが近づいて語られたこと。当然のことながら、それは叱責の言葉ではありませんでした。驚くべきことに主は、欠け多き十一名を世界に向けて遣わしていくのです。

 

 18 イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。「わたしには天においても地においても、すべての権威が与えられています。 19 ですから、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。父、子、聖霊の名において彼らにバプテスマを授け、 20 わたしがあなたがたに命じておいた、すべてのことを守るように教えなさい。

 「すべての権威」と言われる、権威の大きさを噛みしめたいと思います。これは実に大きな権威。マタイ福音書において「権威」は大事なテーマです。「山上の説教」においてイエスさまは「権威ある者」として語られましたね。そのようにイエスさまはずっと神の子としての権威をお持ちだったのですが、十字架、復活を経て罪と死に打ち勝ち、その権威が完成したのです。今や天地において主イエスに並び立つ権威を持つ者はいない。復活の主は世界の王となられたのです。だからこそ十一名を、世界に向けて遣わすことができるのです。

 「あらゆる国の人々を弟子としなさい」と主は命じます。この命令が、この派遣の中心メッセージです。「弟子としなさい」とはどういうことでしょう。ここでイエスさまは、単に「福音を伝えなさい」とはおっしゃいませんでした。ここではそれ以上のことが命じられているのです。

 そもそも「弟子」とは何でしょう。弟子、それは恩師の思いを自分の思いとする人。そして師の教えを受け継ぎ、それを生きて伝えていく人です。つまり「弟子とする」とは、イエスのように生きるキリスト者を育てよ、ということです。これは単なる伝道ではありません。イエスさまはここでハードルを二段も三段も上げているのです。

「誰かをキリストの弟子とせよ」と、もし私たちが命じられたなら、どうでしょう。「どうしたらいいのか」と途方に暮れてしまうかもしれない。けれども、十一名はイメージできたと私は信じます。彼らは三年の間同じ釜の飯を食べ、神の国を伝える主の姿を見てきたのです。見るだけでない。共に汗を流し、祈り、一緒に生きた。イエスのように生きることがどういうことか。彼らは肌感覚で分かっていたと思う。

 宣教師だった時代、「どうやったらキリストの弟子を育てることができるのか」と、ある先輩宣教師が語ってくれました。「なるほど」と心にしっくりきたのを覚えています。それは「時間を共に過ごすこと」だと。時間を共にして語り合い、何かに一緒に取り組み、共に祈り、礼拝する。そうやって共に過ごすと、必ず相手に影響を与えるようになる、と。そう、それこそはイエスさまが三年の間努めたことでした。そして、そのように私たちが誰かと共に過ごし、その誰かにキリストの香りを伝えていくには、まず私たちが主イエスの教えを生きて、見せていくことが必要です。

 キリストの弟子を育てるため、具体的に為すことは二つあります。一つは洗礼を勧める。これは入り口です。もう一つはキリストの教えを守り生きることを励ます。共に生きる中でこれらに努めるとき、そこにはキリスト者、キリストの弟子が育っていくのです。

 

3.    使命を生きる者とともに

 「あらゆる国の人々を弟子としなさい」と命じられて、十一名はいったい何を思ったでしょう。彼らは挫折を経た弟子たちです。中には復活の主を前に心に疑いを抱く者もいました。主イエスの派遣のスケールの大きさに比べて、それを受け取った弟子たちは余りにも小さい。だからこそ、です。だからこそ、20節最後の約束が続くのです。

 「見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。」

 主イエスが共にいる。それは、主イエスが委ねた務めを弟子たちが担うことができるように、との心遣い。この務めは到底、彼らの力で担えるものではないのです。だから主は共にいると約束された。主は世界の王です。天地にはこの方に並び立つ権威を持つ者はいない。そのお方が遣わされていく弟子たちと共におられる。

 逆の言い方をしましょう。この使命に生きようとする者は、共にいる主イエスを知るのです。もし私たちが、身の回りにいる誰かをキリストの弟子にしようと汗を流すなら、私たちの目も開かれる。「主イエスはいつも共におられる」のだ、と。

 十一人は挫折を経た弱さと欠けを背負う弟子たちです。自分に自信があろうはずもない。弱さと欠けを背負う弟子たちが、共にいる主に信頼して歩み続けた。そのようにしてキリストの教会は世界へと広がり続けてきたのです。

 

結び

 「見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。」

 「共にいる」という約束は、小さな心の平安を約束するものではありません。これは、キリストの弟子を育てようと汗を流す、主の働き人に向けた約束なのです。

 

 光陰矢の如し。私も千恵子牧師も共に神学校を卒業して以来、早三十五年目に入りました。私たちが最初に仕えた新潟の教会に一人の女子高生がいました。その姉妹は後に牧師と結婚し、千葉のとある教会で長年福音を伝えてきたのです。実はその姉妹のお嬢さんが、この四月にTCUに入学して来られました。私は深い感慨を覚えました。同時に私自身、これまでずいぶん長い道のりを歩いて来たのだな、と気づいた。最近、私は困っているのです。懐かしい再会があっても、すぐに名前が出てこない。これ本当に困ります…。思い出せない昔のことが増えてきた。私は宣教師でしたから、全国の二百以上の教会を訪ねて、それぞれに良き出会いがあったことだけは覚えている。でも、名前や場所、どんな出会いだったのか、思い出せないことが多くなってきました。

 でも、それは当然かもしれないと気づきました。私は自分の力で歩いて来たわけではないのです。共にいる主に支えられて今日がある。主は天地の王、すべての権威をその御手に持つ。このお方がいたから歩いて来られた。今心から、「足あと」の詩は自分の人生だったと思います。「主よ、あなたは共にいてくださいましたね。約束の通りに」。そんな感謝を主に伝えたいと思います。

 

 皆さん、私たちの旅路はまだ終わっていません。中には旅路に踏み出したばかりの方もあるでしょう。でも、あなたが旅路のどこにあっても恐れる必要はない。主が共におられます。まずは、誰かが洗礼に至るように祈りましょう。そして私たち自身が主の教えを生きて見せ、主の教えを生きる素晴らしさを伝える。すると目が開かれる。私たちは一人ではない。主が共におられるのです。この方は天地を治める主、すべての権威がその手の中にあるのです。お祈りします。

 

天の父よ、感謝します。私たちを聖霊によって今日もお遣わしください。出会う方々一人一人にキリストの香りを伝え、主の弟子となる魂が起こされていきますように。世界の王、復活の主イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。


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