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心をひとつにして祈るとき(使徒の働き1章12~14節、2章1~4節)

 


「心を一つにして祈るとき」

使徒の働き1:12~14、2:1~4

先週五十三先生が、11節までの「イエスさま昇天」の記事から語ってくださいました。イエスさまは復活の後、彼らがイエスさまが昇天される様子を口をあんぐり開けて見ていたところ、彼らのかたわらにおられたみ使いが、「ガリラヤの人たち、どうして天を見上げて立っているのですか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行くのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになります。」と言われたのでした。彼らはハッとしました。そしてイエスさまが天に昇られる前に語られていたことを思い出したのです。

イエスさまはこう言われていました。「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。 ヨハネは水でバプテスマを授けましたが、あなたがたは間もなく、聖霊によるバプテスマを授けられるからです。」1:4-5

そうだ、イエスさまが天に帰られた今、私たちのするべきことは、「エルサレムを離れないで、父の約束を待つことだ」と彼らは思いました。そこでオリーブ山で主を見送った弟子(使徒)たちは、安息日に歩くことが許されている道のり(訳900m)を歩いて、エルサレムに向かったのです。 

彼らが泊まっていた部屋は大きな部屋だったようです。一説によると、この部屋はマルコの母マリアの家だと言われています。そこに、次から次へと人が加わって、最終的には120人になっていたと15節にあります。彼らはここに一週間ほど滞在ました。この滞在期間はどうしてわかるというと、聖霊は五旬節(ペンテコステ)にくだられたのですが、五旬節というのは、50日という意味で、イスラエルのお祭り、過ぎ越しの祭りから50日目に行われます。覚えているでしょうか。イエスさまは十字架にかかられる前に、弟子たちと過ぎ越しの食事をされました。そして次の日には十字架にかけられ、その日中に息を引き取られました。そして墓に納められ、3日目によみがえられ、40日の間弟子たちに現れ、天に上げられたのでした。ですからそこから計算すると、彼らがエルサレムの一室にこもっていた期間は一週間ほどということになります。

彼らが一つ所に集まって祈った目的は二つありました。一つは、約束の聖霊のバプテスマ(聖霊降臨)を待つためでした。そしてもう一つは、新しい使徒選びのためです。そのことについては、15節から26節までに記されています。ユダが欠けてしまったので、その分を補充する必要があったのです。21~22節「ですから、主イエスが私たちと一緒に生活しておられた間、すなわち、ヨハネのバプテスマから始まって、私たちを離れて天に上げられた日までの間、いつも私たちと行動をともにした人たちの中から、だれか一人が、私たちとともにイエスの復活の証人とならなければなりません」。ここから見ると、12弟子以外にも多くの人が、イエスさまと行動を共にしていたということがわかります。そして、その中から信仰的にも人格的にも適任だと思われる二人を選びました。そしてこの二人の内どちらにするかは、神さまにゆだねることにしました。そして、祈ってくじ引きをしたところ、マッティアに当たったので、彼が使徒に任じられたのです。使徒を補充するというのは慎重に進めなければいけないことでした。ですから、11人の使徒たちと多くの主の弟子たちが集まって、集中的に祈っているこの時に、この選挙とくじ引きが行われたのです。私たちも毎年総会ごとに役員を選ぶわけですが、背後にどれほどの祈りがなされているか、今一度考えさせられたことでした。 

さて、彼らが集まって集中的に祈った二つの目的の内のもう一つは、「父の約束」である聖霊を待ち望むためでした。皆さんの中で「待つ」のが得意な人がいるでしょうか。私は待つのが苦手です。そして、祈らずに行動に出て、失敗したことが数知れずあります。けれども聖書は「祈って待つ」ことを大切にしています。

私たちは創世記を読んでいますが、まさに「祈って待つ」ことを教えられてきました。アブラハムとサラは、神さまが子孫を空の星のように与えてくださるという約束が与えられ、その約束の成就のために、祈りつつ待ち続けました。途中何度も失敗しましたが、最終的にはアブラハム100歳、サラ90歳の時にイサクを身ごもりました。また、ヤコブはラバンのもとで、20年という歳月を、苦しみの中で故郷に帰る日を待ちましたし、ヨセフもエジプトに売られてから家族と再会するまで、22~23年待つことになります。そしてイスラエルの民がイスラエルで苦役に服す期間は400年。さらに出エジプトを果たし、約束の地カナンに帰るまでは、荒野で40年を過ごさなければなりませんでした。創世記はまさに「祈って待つ」ことを私たちに教えているのです。

「祈りつつ待つ」、「待ちつつ祈る」ということは簡単なことではありません。自分でやるべきことをやりつくし、それでも事が動かないとき、私たちはやっと主を見上げ、必死で祈り始めるのです。神さまは、ひょっとしたら私たちを祈らせるために待たせるのかもしれません。五十三師は両親の救いのために40年以上毎日祈り続け、そしてとうとう聞かれました。私たちは義弟の家族の救いのためにも祈っています。主はこの祈りにも必ず答えてくださると信じます。

さて、祈って待つために必要なことは何でしょうか。一つは切実な願いです。私たちはそこに切実な願いがない限り祈り続けられません。そして、信仰です。神さまへの信頼です。神さまはご真実なお方、神さまは良いお方、神さまは私を愛しておられる。そして良い計画を持っておられる。それを信じる信仰です。そして私たちは、主を信じ、待ち望みつつ祈るときに、この神への信仰が成長していくのです。祈りと信仰の成長は相乗効果があるのです。

話を戻しましょう。弟子たちは、イエスさまが自分たちのそばからいなくなり、不安と行き詰りを覚えていました。また、イエスさまが殺された後、その迫害の矛先が自分たちに向かうのではないかとの恐怖もありました。彼らはそんな中で、イエスさまがおっしゃっていた「父の約束」「聖霊が与えられる」という約束の実現を、ひたすら祈っていたのです。何しろ、イエスさまは「いつ」ということについては、何もおっしゃっていませんでした。彼らは、120人もの人間が一室にこもって何日も祈り続けるという尋常ではない状態の中で、ただひたすら祈っていたのです。

ところが、祈りの答えは、意外に早かった。五旬節のこの日、とうとう聖霊が降りました。マタイの福音書7:11節にはこう書いてあります。「天におられるあなたがたの父は、ご自分に求める者たちに、良いものを与えてくださらないことがあるでしょうか。」この「良いもの」というのは、第一義的には聖霊のことだと言われています。主は求める者には、必ず聖霊を与えられるお方なのです。 

次に聖霊が降ったときに起こったことを見ていきましょう。

まずは「響き」です。激しい風が吹いてきたかのような「響き」と表現されています。台風が直撃すると、激しい風に、家が揺れ、窓がガタガタとなるじゃないですか。そんな響きが起こったのです。私はこの描写を見るときに、エゼキエル書37章の記事を思い出します。

預言者エゼキエルは、神の霊によって一面に干からびた骨が転がる谷へと連れて行かれます。この「枯れ果てた骨」は、国を滅ぼされ、捕囚となって「私たちの望みは消え失せ、絶やされてしまった」と嘆くイスラエルの民を象徴しています。神がエゼキエルに「これらの骨に向かって預言せよ」と命じます。彼が預言すると、カタカタと音がして骨と骨が繋がり、筋や肉が生じ、皮膚が覆いました。 次に「息(風)よ、四方から吹いてきて、これらの者たちに吹き込め」と預言すると、骨に息が入り、彼らは生き返って自分の足で立ち上がりました。この幻の意味は、たとえ墓の中にいるような絶望的な状況であっても、神が「わたしの霊」を彼らの内に入れるとき、民は再び生き返り、約束の地へ帰ることができるという、強力な「回復と救いの約束」です。同じように、人間の目には完全に終わったように見える状況であっても、神の言葉と聖霊の息が吹き込まれるとき、すべては力強く再生され、新たな希望へと立ち上がることができるのです。

今の日本の教会は、ひょっとしたらこの霊的に枯れた骨のように干からびている状態かもしれません。教会の統廃合が進み、教会はどんどん減っています。けれども、私たちが待ち望み祈り続けるときに、主は聖霊を送ってくださるのではないでしょうか。そして、死んだような日本のクリスチャンたちが生き返り、喜びに満ちた賛美と礼拝をささげ、「フードシェアしんふな」のときに外に並んでいる人々が、礼拝のために行列をつくる…、そんな「響き」がいつか起こる! 私たちはそんな幻を見ながら待ち望み、祈り続けたいと思うのです。

次に「炎」です。3節には、「炎のような舌が分かれて現れ、一人ひとりの上にとどまった」とあります。激しい風が吹いてきたかのような響きは、家全体に響き渡りました。炎のような舌は、一人ひとりの上にとどまりました。聖霊が、金を精錬する炎のように私たちの内に注がれるとき、私たちは罪の自覚が生まれます。私たちを創り、愛し、愛を注ぎ続けていた主を知らずに自分勝手に歩んできた罪。あるいは神を知りながら、神に従わず、自分を王として歩んできた罪。聖霊は、私たちにそのような罪を示し、心を深くえぐり、神の前に跪かせます。そして、イエスさまの十字架を仰ぎ見させるのです。そして、古い私たちは死に、枯れた骨に肉と筋、皮膚が付き、そこに息が吹き込まれ、いのちが与えられたように、私たちも聖霊によって新しいいのちが与えられます。ただし、救いに関しては一人ひとりです。こればっかりは、教会全体とはいかない。家族全員とはいかない。一人ひとりなのです。

ですから、みことばの宣教が必要です。4「すると皆が聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、他国のいろいろなことばで話し始めた。」聖霊に満たされた初代教会の人々は、それこそ命がけで福音を宣べ伝えました。神さまがどんなに人々を愛しているか、私たちを罪と悲惨から救い出すために、どんなに大きな犠牲が払ってくださったのか、その犠牲のゆえに私たちの罪はゆるされ、生まれ変わり、神の子どもとなることを、彼らは大胆に語り始めたのです。聖霊に満たされると、神さまのみ思いが、神さまの愛とあわれみが私たちの思いとなり、それを語らないではいられなくなるのです。

しかもこの時は、「他国のいろいろなことばで」というおまけつき。その日は五旬節のお祭りの日、世界中からの巡礼者がエルサレムを訪れていたその日でした。彼らは母語で福音を聞いたのです。そして、使徒の働き18節のみことが、まずは今ここで成就しました。「しかし、聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります。」彼らは、エルサレムにいながら、世界宣教を果たしたのです。

考えてみれば、今この日本でも同じことが起こっています。イスラム圏の方、共産圏の方、母国にいたら、まず福音を聞く機会のない人々が、留学や就労、結婚、また難民という形で日本に来られる。そして、彼らはこの国で福音に触れる経験をするのです。そのために多くの教会が、在日外国人伝道に取り組んでいます。私たちの属している同盟教団はまだまだですが、広島の広福音キリスト教会では、ミャンマー人のための礼拝を行っていると聞いていますし、他にも英語礼拝を始めた教会もいくつかあるようです。私たちの教会も小さな取り組みですが、外国人の方が来られれば、五十三師が、説教と週報を、何語にでも翻訳して出してくれます。このような取り組みは、まさにペンテコステのときに、エルサレムで多くの外国人が母語で福音を聞いた、その出来事の再現ともいえるのではないでしょうか。

 世の終わりは確実に近づいています。イエスさまが再び来られる日は、もうすぐそこです。私たちは、それを肌感覚で感じ始めています。ですから、祈りましょう。集まって、心を一つにして祈りましょう。聖霊の大いなるお働きによって、福音が全世界に満ちるように、そしてあらゆる国の人々が、あらゆる言語を話す人々が、みな福音を聞くように、祈り待ち望み、聖霊の力を受けて福音を宣べ伝えていきましょう。



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