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愚かな金持ちのたとえ(ルカの福音書12章13~21節)

 


2026年5月31日説教

説教題:「愚かな金持ちのたとえ」
聖書箇所:ルカの福音書12章13節~21節

 祈り 

状況説明

本日読んだ聖書の出来事は、イエスが群衆に向かって話している最中におこりました。群衆の中からある人が声を上げ、このように言いました。「先生。遺産を私と分けるように、私の兄弟に言ってください」

当時、遺産の分け方については律法に記されていました。この人がどのような状況に置かれていたかは明らかになっていませんが、少なくとも遺産相続の取り分について不満があったことは確かでしょう。「先生」と呼ばれ、律法にも詳しいであろうイエスに、彼は自分の兄弟を説得するようにお願いするのです。しかしイエスはこう答えます。「いったいだれが、わたしをあなたがたの裁判官や調停人に任命したのですか。」イエスは彼の期待には応えず、兄弟への説得を断ります。そしてこう言われます。「どんな貪欲にも気を付け、警戒しなさい。人が有り余るほど持っていても、その人のいのちは財産にあるのではないからです」ここでイエスは「貪欲」に警戒するように言います。イエスは遺産についてお願いした彼に「貪欲」が潜んでいることを見抜かれたのです。実は当時の「ラビ」つまり「先生」と呼ばれる存在は律法の論争などに採決を下すのが慣習でした。ですので、イエスに遺産相続の問題を持ちかけることは不自然なことではなかったのです。しかし彼は自分の配分が有利になるようにと心の中で願っていたのでしょう。イエスには彼の心に潜む貪欲という問題を取り扱われたのです。

 貪欲とは何か

では貪欲とはどんな状態でしょうか。一般的に貪欲とは、「もっともっと」と求めて「満たされること」を知らない状態のことです。そして聖書にはこうも書かれています。コロサイ人への手紙3章5節「ですから、地にあるからだの部分、すなわち、淫らな行い、汚れ、情欲、悪い欲、そして貪欲を殺してしまいなさい。貪欲は偶像礼拝です」。聖書は、貪欲は偶像礼拝だと言います。これはどういうことでしょうか。先ほど貪欲は「もっともっと」と求めることだと言いました。その「もっともっと」の奥には「これさえあれば安心だ」「これがないと不安」「これがないと満足できない」「私にはこれしかない」といったような気持ちがあるのです。物質的なものをよりどころにし、そこに満足を見出そうとする。いったん満足したかのように見えても、また欲しいと求めてしまう。例えば、お金や物質的な豊かさ、人からの称賛、成功、承認、など。これらの物質や欲求自体は悪いものではありません。問題なのは、それに満足や安心を求め依存してしまうことです。肉体を持つ私たちはどうしても物質や評価に満足を求めてしまいます。そして、心の中心にそれが置かれ、支配されていくのです。しかし本来私たちの心の中心には何が置かれるべきなのでしょうか。私たちの本当の満足を与えてくださるのはどなただったでしょうか。そうです。神さまだけが私たちの心の拠り所であり、安心であり、満足です。本来神さまが座るはずの心の王座に別のものを座らせてしまうこと、そんなつもりがなくてもそれは神さまからすれば偶像礼拝なのです。遺産の取り分を多くしようとイエスに願い出た彼もまた貪欲という偶像礼拝の中にあったのです。そして挙句の果てには自分の遺産のためにイエスを自分の願いをかなえる道具として利用してしまうのです。気が付かないうちに私たちは貪欲に陥ります。今、皆さんの心の王座には何が座っているでしょうか。

愚かな金持ち

さて、イエスは群衆に向けてこのようなたとえ話をします。16節後半から20節

「ある金持ちの畑が豊作であった。彼は心の中で考えた。「どうしよう。私の作物をしまっておく場所がない。」そして言った。「こうしよう。私の倉を壊して、もっと大きいのを建て、私の穀物や財産はすべてそこにしまっておこう。そして、自分の魂にこう言おう。「わが魂よ、これから先何年分もいっぱい物がためられた。さあ休め。食べて、飲んで、楽しめ。」しかし、神は彼に言われた。「愚か者、お前の魂は、今夜お前から取り去られる。お前が用意した物はいったい誰のものになるのか。」

 この金持ちのどこが間違っていたのでしょうか。ここで注目したいのが、「私の」という言葉です。原語で見ても「私の」という所有の意味を持つ言葉が4回繰り返されます。「私の倉」「私の穀物や財産」「自分の魂」。この金持ちにとって、倉も穀物も財産も自分の命でさえ、自分の物だったのです。しかし聖書はどう語るでしょうか。申命記10章14節にはこうあります。「見よ。天と、もろもろの天の天、地とそこにあるすべてのものはあなたの神、主のものである」この世界にあるものはたとえ自分の手で得た物であっても例外なく神さまのものです。それは、財産も、家も、食べ物も、自然も、子供も、命や時間もそうです。それを神さまは私たちに託し、どのように使うのか見ておられます。

しかし、自分で稼いだものや自分の命が自分のものであるという価値観は現代においては普通のことではないでしょうか。初めて聖書の言葉を聞く人にとっては自分で得たものが自分の物ではないというのはいささか不思議な話かもしれません。しかしながらすべてが神さまの物であると知っているキリスト者はこの世の価値観とは違う生き方を示されています。とはいえ、人は弱い生き物です。すべてが神さまの物であることを知りながら自分の物かのように思いこんでしまうこともあるのではないでしょうか。人は自分の持っているものが自分のものであると思うとき、それをコントロールできると思い込んでしまいます。この金持ちも、未来があると思い込み、自分の未来のために人生設計をします。そして安心を得るのです。多くの場合、人は心配事や不安があるとき、コントロールしようとする心理が働きます。この金持ちも「どうしよう」と心配から始まっていました。未来のことで心配するのは当然です。しかしそこに神さまが備えてくださるという信頼がなければ自分でコントロールし、自分の力でどうにかしようとしてしまうのです。しかし、その結果どうだったでしょうか。金持ちは、自分で蓄えた穀物も財産も使うことなく命を取り去られるのです。私たちの時間、そして命は神さまの物です。私たちのコントロール下にはありません。神さまのご支配のもと私たちは生きています。しかし心配することはありません。主は良いお方であり、必要なものを一番ご存じであり、すべてを備えてくださいます。この愚かな金持ちには神さまに信頼を置くという視点はありませんでした。私たちはどうでしょうか。誰に信頼を置くでしょうか。主は、私たちが安心して恵みの中で生きることを喜んでおられます。

 天に富を蓄える

最後に21節をみていきます。

21節「自分のために蓄えても、神に対して富まない者はこの通りです」

神に対して富むとはどういうことでしょうか。マタイの福音書6章19節から21節にはこう書かれています。

「自分のために、地上に宝を蓄えるのはやめなさい。そこでは虫やさびで傷物になり、盗人が壁に穴を開けて盗みます。自分のために、天に宝を蓄えなさい。そこでは虫やさびで傷物になることはなく、盗人が壁に穴を開けて盗むこともありません。あなたの宝のあるところ、そこにあなたの心もあるのです。」

ルカで言われていた富というのはここでいう宝と同じものだと考えてよいでしょう。この箇所でも地上ではなく、天に宝を、富を蓄えるようにと言われています。この地上で宝を蓄えたとしても、そこには虫が入り、さび、傷物になり、盗まれてしまいます。傷ついた宝石が宝として価値があるのでしょうか。盗まれた金がどうして自分の宝だということができるでしょうか。この地上で宝とされているものは儚く空しいのです。

しかし、天に蓄えた宝は、虫が入ることも錆びつくことも傷つくことも盗まれることもありません。それは一生宝として残り、富として蓄えられていくのです。しかし、それは地上で価値あるものとされないことが多いのです。誰かからも見られない、称賛されない、評価されない。それでも心を込めて主のために一生懸命にする奉仕。人に見られているからではなく、主の喜ばれることを誠実にしたいというその心を主は見ておられます。天に富を蓄えるというのは、主のために自分をささげ、主の喜ばれることをすることです。もちろん人前での奉仕も主のためですが、天に蓄える宝は、たいていの場合、人から見えなかったり、評価されなかったりすることが多いのです。

私の話になりますが、今月の初めに友人の結婚式がありました。その感謝会の入場でヴィオラの演奏奉仕を頼まれていました。一か月前に頼まれたこともあり急いで楽譜を作成し、時間を割いて練習をしました。しかし打ち合わせ不足もあり、二人が入場するタイミングが早く、当日その曲の三分の一も弾けずに終わってしまったのです。せっかく練習したのに。悔しい。そんな思いが私の中を巡りました。神さまはこの奉仕を受け取られなかったのかとも思ったのですが、それは違いました。誰にも見えないところでできる限りの準備をしているところも神さまは見ておられ、それを奉仕として受け取られたのでした。私は、主のために働くことは時に自分の栄光を捨て、主の栄光のためにささげることなのだと学んだのでした。

地上に富を蓄える時、それは自分に栄光を求め、自分にスポットライトが当たっている時ともいえるでしょう。しかし、天に富を蓄えるとは自分のためにではなく、主の栄光を求めることです。私たちの心はどちらを向いているでしょうか。「あなたの宝のあるところ、そこにあなたの心もあるのです」

 結び

まとめます。

遺産を分けるようにイエスに頼んだ彼の心はこの地上にありました。彼は貪欲という偶像礼拝に陥っていたのです。私たちはどうでしょうか。神さまを本当の満足として生きるようイエスは教えておられます。

また、自分の得たものは自分のものだという価値観が一般的な世の中ですが、私たちは、すべては神さまの物であることを知っています。主を知っている私たちの生き方は現代の価値観とは異なる生き方になるかもしれません。誰からも称賛されないかもしれません。それでも主の栄光のために一生懸命、誠実にできることをしていく、これが天に富を積むということです。その姿を主はお喜びになります。そして、この富は一生消えることがありません。

心配する必要はありません。主はすべての物を用意してくださいます。恐れることなく主に信頼し、主の恵みの中で安心して生きていきましょう。

祈ります。


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