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イエスの昇天(使徒の働き1章9~11節)



使徒の働き1:9-11 「イエスの昇天」

 

 キリスト教の暦によると、本日はキリストが天に昇られたことを記念する昇天日です。普段はあまり意識されることのない日です。けれども注意深く学ぶと、今の時代を生きる姿勢について多くを教えられるのです。

 

1.    未消化のままに

 今朝の箇所は、イエスさまが使徒たちの見ている前で天に上げられていく、実に印象深い場面です。しかし、この場面以上に重要なのが、先立つ前の文脈なのです。キリストは復活後、四十日にわたって神の国を語り、大事な務めを託してから天に上げられました。イエスさまは使徒たちにエルサレムで待つようにと語り、これが地上での最後の言葉となったのです。

4-5節「使徒たちと一緒にいるとき、イエスは彼らにこう命じられた。『エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。ヨハネは水でバプテスマを授けましたが、あなたがたは間もなく、聖霊によるバプテスマを授けられるからです』」。

 

 私たちはキリスト教の暦を知っていますので、これを読むと「なるほど」と思う。こうやって昇天の後には聖霊が降るペンテコステが続くのですね。しかし、これを聞いた使徒たちは、すぐには悟れない。むしろ的外れの問いを返していくのです。

6節「主よ。イスラエルのために国を再興してくださるのは、この時なのですか」。

 

皆さん、この問いを読んでどう思いますか。もし福音書なら、「ああ愚かで悟りの鈍い者たちよ」と、イエスさまの叱責が続きそう。これはそんな質問です。使徒たちは今なおイスラエル王国の政治的再建を期待していた。私もここを読むとすぐに、「ああ愚かな使徒たちよ」と言いたくなる。

 しかし、イエスさまは叱責することはなかったのです。主は、ご自分と使徒たちの間に今もギャップがあるのをご存じです。このギャップは聖霊の降る日まで埋まることはない。人間の限界です。どんなに熱心な信仰者であっても限界がある。聖霊に心を照らされない限り見るべきものを見ることはできない。主イエスはそれをご存じでした。それで主はすぐに聖霊の約束を示すのです。

 8節「しかし、聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります。」

 

 間もなく使徒たちの上に聖霊が臨む。すると力を受けて為すべきことが見えるようになる。そして地の果てまでイエス・キリストの証人となるとの約束です。

 イエスさまの昇天は、この約束の余韻さめやらぬ中で起こります。聖霊が降る約束、そして力を受けて主の証人となる約束です。だから、この約束を握らないと、昇天の意味は見えてこないのです。

 

2.    見ている間に

 「聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。」

 この約束を語った直後に不思議なことが起こります。主イエスの体がフワッと浮いたのでしょう。そして天に向かって上昇を始め、あれよあれよという間に、雲に包まれ見えなくなってしまったのです。

 9節「こう言ってから、イエスは使徒たちが見ている間に上げられた。そして雲がイエスを包み、彼らの目には見えなくなった」。

 このとき使徒たちはいったい何を思いながら天を見上げていたのでしょう。この箇所では、上を見上げる動作を示す動詞がわずか三節の間に四回も繰り返される。茫然自失。使徒たちは主が上げられていくのを、おそらく口をアングリ開けて見つめるだけ。これはそんな場面です。使徒たちは「聖霊によって力を受ける」という約束をすぐには消化できない。ただ訳も分からず、自分たちが取り残される。そのさ中です。白い衣を身に纏う二人の御使いが突然声を発するのです。

  10-11節前半「イエスが上って行かれるとき、使徒たちは天を見つめていた。すると見よ、白い衣を着た二人の人が、彼らのそばに立っていた。そしてこう言った。『ガリラヤの人たち、どうして天を見上げて立っているのですか』」。

 

 「すると見よ」という驚きは、これが突然であったことを物語ります。この声がするまで、使徒たちは二人の御使いに全く気付かなかったのです。「二人」という人数は、彼らの言葉の確かさを意味しています。いつの時代にも二人の証言は、語られる内容の確かさを保証するからですね。

「ガリラヤの人たち、どうして天を見上げて立っているのですか」。「ガリラヤ」と彼らの出身に触れるあたり、この語り掛けはリアルです。上を見上げているのがもし私だったら、こんな感じでしょう。「ほら、そこの山形の人、なして天ばかり見上げて突っ立ってるんだ」というリアルです。(もちろん御使いになまりは無かったでしょう。けれど、ガリラヤ人はなまりで知られますので、「ガリラヤの人たち」という呼びかけだけで、ローカルなイメージが伝わるのです。)

「どうして天を」という言葉には多少の非難が込められています。先の4節、5節、8節で、為すべきことがすでに告げられていたからです。「エルサレムで待ちなさい!聖霊が間もなく降る。なぜ上を見てボーッとしているのか」というニュアンスでしょう。

しかし、そう言われても、悟りの良い使徒たちはいない。まだまだ消化しきれないのです。そんな彼らゆえに、後半の言葉が続きます。

11節後半「『あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行くのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになります。』」将来、イエスは帰って来る。安心しなさい、と。

 

3.    遠近両用で

そう、多少の非難の口調はあったものの、御使いは「今為すべき使命」と将来の約束を語る。言い方を変えるなら、使徒たちは二つの生き方を求められたのです。

第一は、この世界にあって聖霊を受け、キリストの証人として生きよ、という地上での使命です。主が上げられた「天」ではなく、この世界を見つめ、託された使命を生きよ。地の果てまでキリストを証しせよ、と。

少し余談ですが、8節が示す「地の果て」とはいったいどこだと思いますか。主イエスが言われた「地の果て」とはどこか。文字通り「地の果て」、つまり特定の場所ではない、という見方があると思います。それからローマ書15章を読むと、パウロが度々「イスパニア(スペイン)」に行きたいと言っています。パウロは使徒の働き後半の主要人物ですね。そのパウロの目指したスペインが「地の果て」なのかもしれない。まあ、余談なので、気楽に楽しく使徒の働きを味わってください。「地の果て」とはどこか。

私は、示唆される「地の果て」はローマだと思っているのです。1章8節の約束は、使徒の働き全体の主題です。この約束を握る使徒たちが、聖霊によって「地の果て」を目指す。途中に迫害あり、殉教あり。そんな姿に私たちはハラハラしながら読み進める、それが使徒の働きのストーリーです。その終盤、パウロがローマを目指すようになる。そして最後にパウロはローマに辿り着き、キリストを証ししながら使徒の働きは結ばれます。「地の果て」とはおそらくローマ。パウロが最後にローマで証しすることになる。このエンディングに私たちは1章8節の約束の成就を見るのです。ああ、主の約束は確かであった、と。

いずれにせよ、使徒たちは御使いの言葉に目を覚まし、1章8節の約束を握りながら、この世界にあって汗を流す。これが彼らの第一の生き方です。

 しかし、それだけではない。使徒たちは、この世界だけでなく、遠い将来をも待ち望むように促されます。これが第二の生き方。「このイエスは、天に上って行くのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになります」。将来を見つめて待て、ということでしょう。これは6節、「イスラエルのために国を再興してくださるのですか」という、的外れの質問に対する答えでもあります。イエスさまの再臨が答えです。やがてイエスは帰って来る。その日、神の国は完成する。それはイスラエルだけの王国ではない。世界を包む神の国。その日、キリストを王とする国が完成を迎えるのだ、と。

 

そうです。使徒たちは第一にこの世界、そして同時に将来を期待して待つ。近くと遠く、信仰のメガネは遠近両用です。私たちは近くを見つめ、同時に将来も待ち望む。近くと遠く。多くの場合、人はどちらかに偏ってますね。

 私は昔から遠くを見るのが好きです。子どもの頃は、星座早見表で冬の星座をよく見ました。結婚してからは十年、二十年先の夢ばかり語り、「あなたは今を生きていない」とよく笑われました。

 そんな私が、五十代半ばに、自慢の視力に衰えを感じた。眼鏡屋で診てもらうと「老眼が始まっている」と言われ。最初はショックでした。まず「老眼鏡」という名前が嫌で…。でも、実際眼鏡をかけると手元など近くが良く見える。「ああ、近くを見ることも大事だ」と実感をしたのです。

 私たちには地上で、今のいのちを生きる務めがあります。一日一日に使命がある。それは時に重く、逃げたくもなるのです。私は台湾時代に宣教師を辞めかけました。とても担えないと病気の中で思った。今はTCUです。学生たちがいるので小声で言いますが、中間管理職の苦悩です(笑)。でも、「逃げるまい」と自分に言い聞かせています。私たちの送り出す学生たちが世界に出て行き、キリストの証人となるのです。中には文字通り地の果てを目指す卒業生もいる。

 

結び

 将来を見つめることも大事です。今の時代、信仰者であっても、地上のことしか顧慮しない人が増えているように感じます。この世界で夢をつかみ、幸せになることが人生最大の目的であるかのように。

 私の出身教会の教会学校での話です。小学生の女の子が、イエスさまの再臨の話を聞いてうれしくなった。嬉しくて嬉しくて、それ以来しばらく、朝になると窓を開け、「イエスさま、来てください」と空に向かって呼び掛けたそうです。「イエスさま来てください」と空に語る。こういう心も失わないようにしたい。

 最後に皆さんに一つのことを問います。皆さんは生きている間に、再臨のイエスさまに会いたいという願いをお持ちですか。問い方を変えましょう。「用意はできていますか」。「明日、イエスさまが来られても大丈夫ですか」。

 中には、「怖い」という方もあるでしょう。準備が出来ていない、と。タラントのたとえをご存じでしょうか。ある主人(イエスさまのことです)がしもべたちに通貨タラントを委ねて旅に出る。しもべたちには、主人の帰るまで、タラントを十分に用いることが期待されている。「ダメだ。私はまだタラントを十分用いてはいない。これでは叱られる」と、そんな恐れを抱く方もあるかもしれない。

 でも、安心して待てばいい。少なくとも今日の箇所は安心を教えます。約束の言葉はこうなっています。「このイエスは、天に上って行くのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになります」。「このイエス」。王なるキリストと言わずに、「このイエス」。「イエス」とは地上を生きた「人」としてのお名前です。それは罪人と食事を共にし、嫌われ者の取税人ザアカイさえ招いた、私たちに近しい名前です。私はイチジク桑の木の下で、急に上を見上げてザアカイを呼ぶイエスさまの姿が大好きです。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。わたしは今日、あなたの家に泊まることにしている」。初対面のはずなのに「ザアカイ」。イエスさまは近しくザアカイを知っていた。そのような近しさを表す名前、人である「イエス」。このイエスが再び来られる。その日、私たち一人一人の名前を呼ばれるでしょうか。「いそみ」「ちえこ」帰って来たよ。「わたしだ、イエスが帰って来たよ」と。

信仰の生き方は遠近両用。今日の使命に行きながら、将来の再臨を心待ちしたい。そのように願わされたこの朝の御言葉のときでした。お祈りしましょう。


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