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一つに集められること(エペソ人への手紙1章1~14節)

 


2026614日 新船橋キリスト教会 礼拝メッセージ

エペソ人への手紙 13-14節 「一つに集められること」

吉澤 和也 実習生

 〇導入

初めに、エペソ人への手紙の特徴をともに見て参りたいと思います。

まず、この手紙の宛先についてです。11節には「エペソの聖徒たちへ」とありますけれども、実はその宛先ははっきりとはわからないようです。私たちの聖書は、オリジナルの書から書き写された「写本」というものを元にして作られています。しかし、その「写本」のうちには、この「エペソの」という部分が書き換えられたものも見つかっています。そこから、この書は「多くの教会で回覧板のように回し読みされていたのだろう」と理解されています。そのように言われると、「この手紙の信ぴょう性が無いのではないか」と、不安になる方がいらっしゃるかもしれません。しかし、このことは見方を変えれば、「どのような教会に対しても共通して伝えるべき、教会の根幹が語られている」と言えるのです。したがって、今回も、時間と空間を越えて、この新船橋キリスト教会にも届いたパウロからの手紙だと、捉えたいと思います。

また、本文の内容にも興味深い特徴があります。特に、本日お読みした3節から14節を読むと、そこには繰り返されているフレーズがあることに気づきます。それは「ほめたたえられる」という言葉です。3節から始まり、6節、12節、14節と4回出て来ます。これにしたがって、内容を3つの「かたまり」に分けていきますと、そこに三位一体の神様が浮かび上がってくるのです。

また、この文章全体について。原語のギリシャ語では、この3節から14節は、一つの文章、一文で書かれているのです。パウロはこの長い文を、途切れることなく一気に書き上げたことがわかります。そこには「父・子・聖霊の神様が一体となって、救いのみこころを成し遂げる」という、その「救いのつながり」を際立たせる、パウロの意図があったと言えるでしょう。それでは、ここから、全体の「つながり」を意識しながら、「かたまり」ごとに、読み深めていきたいと思います。

 

○展開

神の救いの計画

3-6節:父なる神の計画】

まずは3節から6節を見ます。冒頭は「私たちの主イエス・キリストの“父である”神がほめたたえられますように」という言葉で始まります。つまり、ここではすべての造り主“父なる神様”に焦点が当たります。父なる神様は「キリストにあって、天上にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福して」くださっている、とあります。

「天上にあるすべての霊的祝福」とは何でしょうか。それは、4節に説明されます。4節。

すなわち神は、世界の基が据えられる前から、この方にあって私たちを選び、御前に聖なる、傷のない者にしようとされたのです。

つまり、私たちを天地創造よりも前から救いに選んでくださっていたこと。罪に(けが)れた私たちが、神の愛によって御前に聖なる、傷のない者にしようとされていること。そのこと自体が、父なる神様の“天上にあるすべての霊的祝福”なのです。

 

7-12節:キリストによる実現】

 続いて、7節から12節。ここでは「このキリストにあって」と始まるように、神の御子イエス・キリストに焦点が当たります。父なる神様の救いのご計画を実現なさるのはキリストです。キリストは、十字架によって贖いのみわざを成し遂げられました。

 この十字架と復活による回復には、壮大な神様のみこころの奥義があるのです。その“みこころの奥義”については、910節で語られます。

その奥義とは、キリストにあって神があらかじめお立てになったみむねにしたがい、時が満ちて計画が実行に移され、天にあるものも地にあるものも、一切のものが、キリストにあって、一つに集められることです。

父なる神様のみこころの奥義とは、「一切のものが、キリストにあって、一つに集められること」です。この「集められる」という言葉のニュアンスは「一つの所にまとめられる」イメージです。すなわち、「キリスト」という中心に向かって、すべてのものがぐーっと集められていく。そして、神の秩序のうちにまとめられるというイメージなのです。「天にあるものも地にあるものも」。最も離れた二つであっても、神様のゆえにすべてが集められる。その御業の広さや大きさが、豊かに表現されています。

今、世の中にある、あらゆる断絶は、神のみこころが実行に移され、どんなに和解の難しい離れた二つであっても、キリストを中心に、そのすべてのものが一つに集められていくのです。そのことが、天地創造の前から、神様があらかじめ立ててくださっていたみむねであって、キリストの十字架がそれを成し遂げてくださるのです。

 

13-14節:御霊による保証】

 13節から14節は聖霊の働きです。聖霊は、私たちの内に住み、いつもともにおられる助け主ですね。私たちは聖霊に導かれて、キリストを主とする信仰生活を続けられます。しかし、ここでは、その聖霊の別の大切な役割も述べられています。

それは、聖霊によって私たちには「証印が押されている」ということです。「証印」というのは、持ち主を明らかにし、品質を保証するしるしです。約束の聖霊が私たちに与えられていることは、私たちが神様のものであることを明らかにしています。そして、その品質も、神様の御前で「聖なる、傷のないものである」という“しるし”が押されているということなのです。

さらに、14節に「聖霊は私たちが御国を受け継ぐことの保証です」とあります。この「保証」というのは、「手付け金」と訳すことができる言葉です。つまり、将来私たちに御国が渡されるという大きなことの約束として、前もって聖霊が支払われているということです。しかし、聖霊はただの保証ではありません。私たちのうちに住まれ、ともに働いてくださることで、私たちは聖霊によって神の御国の前味を味わうことができる、その恵みにも預かっているのです。

 

このように、3節から14節でパウロは、たった一つの文章をもって、有機的につながる、三位一体の神様の壮大な救いのご計画を明らかにします。ひとつひとつのことは何度も聞いているかもしれません。しかし、それらが神様の全体の働きであり、「つながり」のある働きであること。しかも、それらは天地創造の前からの永遠の単位で計画されていることを覚えたいのです。その神様のみこころの奥義は、キリストによって世界が一つに集められることであると覚える時、私たちは改めて、神様の救いの計画の壮大さを全身で感じることができます。

 

神様の一つに集める救いの働き

では、私たちは、その神様のみわざのすばらしさを、どれだけ実感し、どれだけ期待できているでしょうか。すべての断絶が回復され、一つに集められる、このご計画に、どれだけ真剣に向き合い、本当のこととして受け取ることができているでしょうか。

私は、このようなことを語られる時、神様の偉大なご計画に希望をもつと同時に、それが実現されていくことに半信半疑であることに気づくのです。それは、私たちの身のまわりに「一つに集められること」とは程遠い、世界の崩壊と関係の分裂が増え広がっているからです。ロシア・ウクライナの戦争は激しさを増して、兵士だけでなく多くの市民も犠牲になっています。先日は、停戦合意をしたはずのイランとイスラエルの間に再び争いが生じて、中東情勢は混乱を極めています。世界各国はそれぞれ戦争の備えを進め、日本でも軍事力の強化が声高に叫ばれています。それぞれの国が自国ファーストとして世界に向き合う時、そこには自己中心の押し付け合いが生じます。そこに、対立と争いが生じることも当然でしょう。そして、まさにこの自己中心性は、人間が堕落によって持つことになった罪の核心であると言えるのです。

罪の核心である自己中心性。このことを見つめる時、「分裂と崩壊の世界」は、ずっと身近な、個人の間にも広がっていることに気づかされます。職場や学校、そして時には教会や家族の間に、その歪みが生じます。互いをけん制し合い、いがみ合ったり妬み合ったりしてしまいます。遠くの存在よりも、むしろ近い存在になればなるほど、その難しさは膨れ上がっていく。表面的にはうまく関係をつくれるのかもしれません。しかし、関わりが深くなればなるほど、私たちはその関係の間に難しさを覚えます。自己中心の思いが入り込み、歪みや隔たりを生じ、痛みや傷が残ることになってしまうことがあるのです。

その人間関係の多くの困難に直面する時、神様の回復を「期待できない」自分がいるように思うのです。「神様が全能の方であることはわかっている。神様が愛の方であることもわかっている。しかし実際に、神様、あなたは、本当にすべてを一つにしようとされているのでしょうか」。神様の回復を信じ切れない私は、三位一体の神様をどれだけ心からほめたたえることができているでしょうか。

 

そこで、私たちは改めて、まずはこの“自分自身”が神様に救われ、愛されている存在であることを思い起こしたいのです。3節から14節でともに見てきた、三位一体の神様の働きは、私たち自身になされた救いのみわざです。私たちと神様との間にあった罪による深い断絶は、三位一体の神様によって回復されたのです。人間にはどう逃れることもできない自己中心の罪を、神様はキリストの義の衣で覆ってくださり、私たちは神の子どもとされ、御前に聖なる、傷のない者とされました。そして今、キリストの救いを信じる私たちは、その回復の途上にも置かれているのです。私たちは改めて、その救いがどれだけ神様のダイナミックな働きの中で受けた恵みであるのかを、しっかりと思い出したいと思うのです。

 

カルト問題に関わる働きに召されて

先日の証しで少しだけ触れましたけれども、私はカルト問題に関わる働きに対して思いが与えられ、今、TCUでの学びに導かれています。その思いが与えられたのは、私の母がエホバの証人の信徒であった過去があるからだと思います。しかし、母がエホバの証人だったことは、私にとってはずっと特別なことではなく、ただ家族の昔の出来事の一つでした。この経験が、神様に特別に与えられたものであると知ることができたのは、クリスチャンになり以前の大学に入学した後でした。

それは、大学でエホバの証人と関わりだした後輩の学生と出会ったからです。彼は私が所属していたキャンパスクルセード(CCC)というクリスチャンサークルにも顔を出していました。そのサークルのスタッフが、彼がエホバの証人と関わり出していることに気づいたようです。私はそのスタッフから相談を受け、その後輩と話をする機会が与えられたのです。未熟な準備だったと思いますが、私は彼にエホバの証人やカルトについて話して、彼らとの関わりを止めるように伝えました。彼はよく理解してくれたようで、数日後に集会に来た彼は「エホバの証人との関係を切りました」と報告をしてくれました。後日談ですけれども、彼はその後クリスチャンとなり、CCCの集会の中心メンバーになっていくのです。私は、神様が彼を正しい道に導いてくださったことがわかり、とても嬉しく、心から感謝をしました。

それと同時に、今も異端やカルトに、知らず知らずのうちに迷い込む人が大勢いることに大きな痛みを感じました。迷い込んだが最後、カルトからはなかなか抜け出すことはできません。社会的にも、精神的にも、霊的にも苦しみを覚えます。しかし、その助けを組織以外の何かに求めることができません。それは、彼らにとって不信仰だからです。その中にあって、お金も時間も、様々なものが組織に搾り取られ、傷がどんどん深くなっていく。傷は本人を悩ませるだけでなく、その家族をも蝕んでいきます。しかし、それも誰にも言えない。誰にも癒してもらえない。彼らは自分の救いのために「彼らの神」を本気で信じます。自分が削られるほどに誠実に仕えます。しかし、それは歪められた福音であって、本当の神様はそこにはおられず、本当の救いはそこには無いのです。そのような人がいることは、私にとって本当に痛く、悲しいものでした。

私の母がエホバの証人から救われ、今や家族全員がクリスチャンになっていること。これがどれだけ大きな、どれだけダイナミックな神様の救いの御業だろうか、と思います。カルトという暗闇のなかに置かれた彼らであっても、社会や人間関係の断絶の中にいる彼らであっても、ただ神様だけは、そのところに行って介入することができる。そのみわざに救い出されたのが私の母であり、私の後輩であり、そして私自身なのです。神様は、その救いのみわざを、私が生まれる前から、いや、世界の基が据えられる前から、キリストにあって私たちを選び、御前に聖なる、傷のない者にしようとされたのです。エペソ14節。これが私のカルト問題に関わる働きを、神様の召しとして受け取ったみことばです。

私にもおそらく、過去の母から受けた影響「カルトの後遺症」のようなものが、わずかではありますが、残っているように思います。「カルト的」なものへの恐れから、強制や強要などに対して敏感に反応してしまいます。何かを信じることに対して純粋に向き合えなかったり、一方的な権威を示されることへの反発は自分が思っている以上に大きく現れたりします。罪悪感や罪責感も強くあり、周囲の評価を気にしすぎてしまうこともあります。もちろん、これらすべてが「後遺症」というわけではないかもしれませんけれども、自分に根強く残る傷であり、弱さであると思っています。

しかし、キリストはそんな私のために十字架の贖いを成し遂げてくださった。そして、今もこの回復の歩みの中にともにいてくださっている。聖霊は私のために遣わされて、今、私の内に住んでくださっている。これがどれだけ、私の安らぎと希望になっているでしょうか。そして私は、カルトに苦しむ方々に、本当の神様の愛、本当の福音を届けたい。魂や霊の傷は必ず回復されること、神様との関係は必ず回復し、すべてが一つに集められることができる、そのことを伝えたいと思っているのです。

神様によって天地創造の前から計画されている、御前に聖なる傷のない者にされるという、このご計画。それは、今の私にも与えられ、そして私のまわりにいる人々にも与えられているのです。イエス様がご計画の実行者であったように、私という小さな一人も、キリストにならうことで、その計画の実行の一端を担っていることを確信しています。それは、私自身が、御前に聖なる傷のない者にされているからです。神様の救いと回復のみわざは、主に救われた私自身を“通して”、世界全体に広がっているのです。天にあるものも地にあるものも、一切のものが、一つに集められる。そこに今、私は、遣わされているのです。

 

○まとめ

私たちの世界にある、罪による断絶、隔たり、破れというマイナスの方向の力は、今もなお、苦しみと悲しみによって、さらに広がる方向に働いています。何も進展しない現実に期待ができなくなったり、奉仕に疲れを覚えたりすることがあるかもしれません。誰かを疑ったり、責めたり責められたり、傷を負ったり傷を負わせてしまうこともあるかもしれません。人が集まるとき、私たちは苦い思いを持つことがあるのです。

しかし、私たちは、神様の愛による救いのみわざの実現を、この身をもって知っている者たちなのです。「私を救いに招いてくださった」。神様の救いをこの身を通して知る私たちは、三位一体の神様のダイナミックなみわざのゆえに、安心して自分の役割を果たしていくことができるのです。世界を一つに集めるすべての計画は神様にあります。そして、私たちは神様のみことばに聞き従うなかで、キリストにならって実行していくなかで、私たちのうちに住まわれる聖霊が導かれるなかで、主の働きに忠実に仕えていく。世界は本当に、あらゆるものが、一つに集められていくのです。神様がそれを約束してくださっているからです。

新船橋キリスト教会の皆さんもまた、キリストに贖われた者、神様の救いの恵みを受けた者として、今、世の中に遣わされています。「伝道する教会」。今年の教会のテーマです。神様のまことの救いの道を宣べ伝えること。これは、牧師だけの働きではありません。私たち一人ひとりが、生き方を通して神様を証しできる“伝道者”なのです。この教会の地域福祉の働きは、神様の回復に期待をして、祈りを重ねてきた、一つの大きな結実だと思います。フードシェアしんふな、無料塾しんふなベース。地域にある問題に向き合い、姿と行動をもって神様の回復のみわざを実行しています。しかし、それでも、まだまだ私たちのまわりには、問題を背負いながら、声を挙げることができない人がいるのです。職場、学校、地域、家庭、教会、すべてのところに、神様の回復の実現が必要な場所が、今もなお、たくさんあります。聖霊が注がれた私たち一人ひとりが、神様の回復の約束を覚え、神様を証しする“伝道者”となる時、私たちを中心として神の国が広がり、世界は回復し、一つに集められ、平和が実現されていくのです。

私たちは、そのためにどのような判断と決断ができるでしょうか。社会に遣わされる一人の伝道者として、言葉を通して、また生き方そのものを通して、何を証しすることができるでしょうか。三位一体の神様は、この船橋の地に、この教会に、そしてそれぞれお一人お一人が住んでおられる場所に、大きなご計画を持っておられます。神様が世界の基を据えられる前から持たれている、「一切のものが、キリストにあって、一つに集められること」、そのご計画に期待をして、私たちは今週も歩みを進めて参りたいと思います。

 ○祈祷


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