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白い衣を着てキリストとともに(ヨハネの黙示録3章1~6節)

 


「白い衣を着てキリストとともに」(黙示録3:1-6)

はじめに

 サルディスはアジア(今のトルコ)南西にある内陸の町です。当時は、毛織の染め物で知られる商工業の町でした。大変豊かな町でした。サルディスは、手紙が宛てられた七つの町の中でも最も古く、かつては、その一帯を支配した王国の都だったとか。都に相応しく、町の守りは堅かったようです。小高い丘の上にある天然の要害でした。けれども、守りが堅いはずのその町が、歴史において二度も敵の手に落ちて陥落したことがあったのです。いったい何があったのか。原因は油断です。敵に攻められているのに守りを怠って眠りこけてしまう。夜の闇に乗じて敵が忍び込み、やすやすとサルディスを奪い取って陥落させたのです。そう、目を覚ましていることができなかった。

 そんな歴史を持つサルディスの教会に、主イエスは繰り返し「目を覚ませ」と語ります。果たしてサルディスのキリスト者たちは目を覚ますことができるのか。手紙の中身に目を留めましょう。

 

 「1 また、サルディスにある教会の御使いに書き送れ。『神の七つの御霊と七つの星を持つ方が、こう言われる──」。

 ここで示されたキリストの姿は、「七つの御霊と七つの星を持つ」お方です。七つの御霊とは、七つの教会それぞれに聖霊を遣わしたキリスト、との意味です。そして七つの星は、七つの教会でした。七つの教会に御霊を遣わし、それぞれの教会を主権をもって導いていく。イメージは、教会のまことの羊飼いでしょう。黙示録を記したヨハネ自身が筆を取ったヨハネ福音書の10章は、羊と羊飼いについて語っています。「その羊たちはわたし(キリスト)の声に従います」と。それと重なるかのように、主イエスは教会に御霊を遣わして語るのです。「耳のある者は、御霊が告げることを聞きなさい」と。サルディス教会は、御霊を通して語る大牧者キリストの声に応答することができるでしょうか。そして私たちはどうでしょう。私たちにも語るキリストの声に敏感でしょうか。

 

1.    実は死んでいる

「1b わたしはあなたの行いを知っている。あなたは、生きているとは名ばかりで、実は死んでいる。 2  目を覚まし、死にかけている残りの者たちを力づけなさい。わたしは、あなたの行いがわたしの神の御前に完了したとは見ていない」。

「生きているとは名ばかり」とあります。「名」とは評判です。サルディス教会は「生きている」と評判の教会でした。生きて活気のある教会、との良い評判です。でも実際はどうだったのでしょう。人の評判はともかく、キリストの前には「死んでいる」。これが実態でした。自らの信仰生活であれ、自分の教会であれ、私たちは人の評判を気にします。人目によく見られたいと願う。それをすべて否定するつもりはありません。人の評判をまったく気にしないのも、時には問題かもしれない。しかし、私たちが最も大事にすべきは、キリストの前に「どうか」という事です。2節終わりにも「神の御前に」と出てきますね。主キリストの前に、そして神の御前に私は、私たちの教会はどうだろう。このことを心に留め置くならば、私たちの生き方は、一本筋の通ったものとなるでしょう。キリストの前にごまかしは効かないのです。

 「あなたは… 実は死んでいる」。何ともショックな言葉です。これだけ読むと、サルディス教会は終わった… と一瞬思ってしまう。しかし、終わってはいませんでした。2節「目を覚ませ」と辛うじて語ることができました。まだ間に合うかもしれない。助かるかもしれない。そんなギリギリの所で、「目を覚ませ」と主は語ります。

 もちろん、時間の余裕があるわけではないのです。周りには他にも死にかけている人々がいたのです。だから主イエスは懸命です。早く目を覚ませ。もし覚ましたら、残りの者たちをも力づけるように、と。

 残りの者たちを力づける…。ある場面が記憶によみがえりました。十字架前夜、ペテロが三度イエスを知らないと言う予告のあった場面です。あの時イエスさまは、ペテロが信仰を失くさないようにと祈った後、ペテロを励ましたのでした。「あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」。十字架前夜も事態は緊迫していました。でもとりなすキリストは、ペテロが立ち直ると信じていた。そんな思いを込め、主イエスはサルディス教会にも語ります。目を覚ませ。まだやるべきことがある。あなたの行いは、まだ神の前に全うされていないのだ、と。

 

2. 悔い改めなさい

 このような瀕死のサルディス教会です。でも、それに気づいているのは主イエスだけ。いったい何が起こっていたのでしょう。

 これまでに目を留めてきた四つの教会の問題はなんでしたか。エペソ教会は異端と戦っていましたね。スミルナの教会は、ユダヤ人会堂による激しい、実に激しい迫害でした。ペルガモンでは、偶像との戦いがあり、その背後にはサタンがいた。ティアティラ教会は偶像、そして性的な乱れの中で揺さぶられていました。さて、サルディス教会は、と目をやると、問題が一切書かれていないのです。どんな問題に直面していたか、手紙を読む限りでは何も分からない。

実はこれが問題なのです。問題がないことが問題だった。

 山上の説教でイエスさまは言われます。「わたしのために人々があなたがたをののしり、迫害し、ありもしないことで悪口を浴びせるとき、あなたがたは幸いです」。もし迫害があったら、喜べ、というイエスさま。天の報いは大きいと。使徒パウロも弟子のテモテに書き送っています。「キリスト・イエスにあって敬虔に生きようと願う者はみな、迫害を受けます」。教会が真剣にキリストに従おうとすれば、そこには必ずこの世との摩擦や衝突が起こるのです。神の国の価値観と、この世の価値観が違うからです。少しの違いではなく、ある部分においては、真っ向からぶつかってしまうこともある。

 サルディス教会は、この世との関係において問題がなかったのです。この世に同化していました。それは教会に「キリストのいのち」が無かった、というのに等しい。教会に生きる信仰者の生き方、価値観が、もし世の人々と違わなければ、摩擦は起こらない。迫害が起ころうはずもない。そう、「死んでいる」のです。ある注解者が言っています。サタンはいつも「生きている」教会を苦しめる。教会に「いのち」があれば、神から引き離そうと誘惑する。サタンは「死んでいる」教会については誘惑しない。「死んでいる」教会には安らぎと休息を与え、「自分たちはこれでいい」と思わせるのだ、と。

 「死んでいる」教会、信仰者には「これでいい」と思わせる。私は、思わず自分の信仰生活を振り返りました。幸い…「今の自分でいい」との満足感はなかった。幸いにして(笑)。「まだまだダメだ」と、落ち込むことも実は多い。もし程ほどの教会生活、信仰生活に満足していたら危ない、危ない。ましてや、「新船橋キリスト教会は最高だ」等と思ったら、少しクールダウンが必要かもしれません。大事なのは、人や自分がどう感じるかではない。「キリストの前にどうか」。とにかく、サルディス教会は眠りこけ、死にかけていたのです。

 さあ、どうしたらいいのか。どうすれば目を覚ますことができるのか。

 

「3  だから、どのように受け、聞いたのか思い起こし、それを守り、悔い改めなさい。目を覚まさないなら、わたしは盗人のように来る。わたしがいつあなたのところに来るか、あなたには決して分からない」。

 目を覚ますために、思い出すことがある。それは「御言葉」でした。御言葉を、かつての自分がどのように受けて聴いたのかを思い出す。信仰の原点に帰れ!やっぱりこれです。自分があの日、あの時に受け取った御言葉を握りなおしていく。いつもこれです。エペソ教会には、「初めの愛に帰れ」でした。サルディス教会には、初めの御言葉に帰れ、と。キリストの教会、そしてキリスト者には、かつて受け取った大事な御言葉がある。そこに戻って、それを守る。でも、それを生きようとすれば、すぐに、御言葉を生きることのできない自分に気づくでしょう。御言葉は人の心を映し出す鏡。御言葉の前に立つと、それを生きられない自分に気づき、信仰者は悔い改める。悔い改めとは生き方の転換、180度の回れ右です。神の言葉に帰る度、人は目を覚まして、息を吹き返す。そして生き方の転換、悔い改めが起こっていくのです。

 

3. 衣を汚さなかった者たち

 御言葉に帰り、目を覚まして、悔い改めよ。言うは易く行うは難し。サルディス教会は不安になったのではありませんか。何しろ、眠りこけて二度の陥落を経験した町の歴史があるのです。またもや目を覚ますことなく、しかも今度は、盗人のようにキリストご自身が来られるのではないか。

 幸いに、サルディス教会にも、わずかながら信仰の模範とすべき人たちがいました。彼らを見よ、と主は言葉を続けます。

 

「4  しかし、サルディスには、わずかだが、その衣を汚さなかった者たちがいる。彼らは白い衣を着て、わたしとともに歩む。彼らがそれにふさわしい者たちだからである」。

 「衣を汚さなかった者たち」。この書き方にご注意ください。「罪を犯さなかった」とも、「きよさを保った」とも言っていない。模範となる人々とは言え、やっぱり人間です。罪を犯すことはある。黙示録を記したヨハネ自身が、第一の手紙で言っていましたね。「もし罪を犯したことがないと言うなら、私たちは神を偽り者とする」のだ、と。罪はある。でも、罪を犯す度に立ち返って悔い改めれば良い。「衣を汚さなかった」人たちは、そういう人たちです。ヨハネは第一の手紙1章9節で書いています。有名な御言葉。「もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます」。主に立ち返って悔い改めればよい。そうすれば不義から「きよめられる」。衣を汚さなかった彼らとて、完璧な人たちではないのです。自分の罪に気づく度に悔い改め、罪と戦い、何度も衣を洗ってきた人たち。そのように御言葉と悔い改めの中を歩むなら、やがて罪なき「白い衣」を与えられ、いつもキリストとともに歩む日が来るのです。

 

「5  勝利を得る者は、このように白い衣を着せられる。またわたしは、その者の名をいのちの書から決して消しはしない。わたしはその名を、わたしの父の御前と御使いたちの前で言い表す。 6  耳のある者は、御霊が諸教会に告げることを聞きなさい。』」

この手紙の書かれた当時、ローマの軍隊は戦いに勝利すると「白い衣」を身に纏ったそうです。勝利と栄光のしるしですが、キリストがお与えになる「白い衣」は罪なききよさのしるしでした。

 

 今年の墓前礼拝では、山口陽一先生がハイデルベルク信仰問答の第42問を読んでメッセージをしてくださいました。キリストの十字架によって贖われた私たちが、どうして死ぬ必要があるのか、と信仰問答は問うのです。それに対する答えが印象的です。私たちの死、地上の生涯の終わりは、「罪の死滅であり、永遠の命への入口なのです」。

 「罪の死滅であり、永遠の命への入口」。慰め深い言葉です。私たちにもやがて、生涯戦い続けた「罪」から解放される日が来る。そこではキリストご自身が、私たちに「白い衣」を着せようと待っておられる。これがゴールです。御言葉に立ち返り、悔い改めながら生きる信仰者、完璧ではないけれど、いつも御言葉に立ち返る信仰者が、最後に手にするものがこれなのです。

 

結び

 御言葉に帰りながら、いつも悔い改めて生きる。罪と戦い続ける生き方を「しんどい」と感じる方もあるでしょう。それでも、私たちは罪を真剣に見つめる必要があります。そして、その都度悔い改めるのです。でも、時にはしんどいときもあるかもしれない。大丈夫です。私たちを励ますお方の声は、実に温かいのです。5節です。「わたしはその名(あなたの名)を、わたしの父の御前と御使いたちの前で言い表す」。かつてイチジク桑の木の下で、イエスさまが「ザアカイ、急いで降りて来なさい」と呼んだように、その日、イエスさまは白い衣を着る私たちの名を親しく呼ぶ。あなたを愛し、命を犠牲するほどに愛し抜いたお方が、あなたの名前を親しく呼ぶ日を待っている。それは喜びの日、慰めのときです。その日、地上の生涯の重荷も傷もすべてが癒される。このお方の声を聞きたいのです。このお方を待ち望むなら、きっと歩いていける。だから御言葉に立ち返り、悔い改めながら生きていきたい。そんな励ましを受けた、御言葉のひとときでした。お祈りします。

 

5節(読む)

天の父なる神さま、感謝します。あなたは今なお弱い私たちに聖霊をお送りくださいました。聖霊の助けの中、御言葉に聴き、悔い改めの生涯を送ることができますように。落ち込んだときには、私たちが神の子どもであることを思い起こさせてください。

「わたしはすぐに来る」と言われた救い主、まことの牧者、キリスト・イエスのお名前によってお祈りします。


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