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ユダとタマル(創世記38章1~30節)

 「ユダとタマル」

創世記38章1~30節

37章で「ヨセフ物語」に入り、さあこれから、ヨセフの波乱万丈の生涯をたどっていくことを楽しみにしていた皆さん、残念でした。今日開いた38章では、ヨセフ物語とは全く関係のないユダのエピソードが挿入されています。しかも、なんとも暗い、どろどろしたエピソードです。思わずスキップしたくなるのですが、「聖書はすべて神の霊感によるもので、教えと戒めと義の訓練のために有益です」(Ⅱテモテ3章16節)とありますので、この章も、神さまからのメッセージが込められていると信じて、ごいっしょに読み進めていきたいと思います。

さて、この章の終わりで双子の男の子が生まれます。助産師が先に生まれてきた赤ちゃんの手に真っ赤な糸を結ぶのですが、なんと、そこまで来て、もう一人の赤ちゃんが、その子を押しのけて、先に出てきたというのです。こうして、押しのけて生まれてきた子は「ペレツ(割り込み)」と呼ばれ、もう一人はゼラフ(ヘブル語の動詞「ザラハ」に由来しており、太陽が昇ることや、光がパッと差し込んで輝く様子を表す言葉で、赤い糸と関連付けられたと思われる)と名付けられました。

38章のこの結末を見ると、この章のテーマは「割り込み」ではないかと思わされました。ここには3つの「割り込み」が見られます。一つは、先ほども触れたように「ヨセフ物語」への「割り込み」です。前の37章までは、ヨセフがエジプトに売られるまでを見ました。ちなみに、ヨセフを売るという提案をしたのはユダでした。そして39章以降、舞台はエジプトへ移って、ヨセフはエジプトの最高権力者(宰相)となり、エジプトばかりではなく近隣諸国を飢饉から救うのですが、その時に、ヤコブ一族を飢饉から救うために、体を張ってヤコブを説得したのが、実はユダなのです(43:8~)。彼は、ヨセフを売りましたが、最後には同じ父の寵愛を受けていてベニヤミンの身代わりになろうとするのです。このユダの変化は、38章の出来事なくしては語れません。ですから、割り込みのように見えますが、ユダのエピソードはここに入れられなければならなかったのです。

 

そして、二つ目が、神の救済のご計画への割り込みです。人が罪を犯してから、神の救済のご計画が始動しました。神はアブラハムを選んで、アブラハムの子孫から、救い主イエス・キリストを誕生させようという壮大なご計画を持っておられました。神さまのこのご計画は、聖書の初めから終わりまで貫かれている、揺るぎない一本道です。皆さんご存知のように、38章の主人公ユダの子孫から、ダビデ王が生まれ、そして果てには、イエス・キリストが生まれるのです。マタイの福音書1章2-3節「アブラハムがイサクを生み、イサクがヤコブを生み、ヤコブがユダとその兄弟たちを生み、ユダがタマルによってペレツとゼラフを生み、ペレツがヘツロンを生み、ヘツロンがアラムを生み、…」しかし、神のこの人類救済のための愛のご計画に対して、人はいつも割り込み、邪魔をしようとします。

この時のユダを見てみましょう。1節「ユダは兄弟たちから離れて下って行き」ユダは、父の家、神の約束の一族から一人離れていきます。どうしてでしょうか。それについては詳しく書いていないのでわかりません。けれども、ヨセフを売った張本人のユダです。あの時以来、父はずっとふさぎ込んで泣き暮らしています。誰が慰めても、その慰め事態拒む有様。そして言うのです。「私は嘆き悲しみながら、わが子のところに、よみに下って行きたい」と。ユダは、そんな父を見るたびに心刺され、もうこの家にはいられない…そう思った可能性もないでしょうか。

湿っぽい父親のもとを離れ、彼は心機一転、自由に、心軽やかに過ごそうと思ったことでしょう。クリスチャンホームの子どもたちが、大学進学を機に親元を離れ上京し、ああ、これでもう自由だ、もう教会に行けとうるさく言われなくていい、さあ、人生を楽しむぞ! そう思いながら、教会にも行かずに、クリスチャンの交わりからも遠いたとき、どうなるでしょうか。そこに自由はあったでしょうか。父から生前相続をしてもらって、故郷を離れた弟息子は、どうなったでしょうか。幸せになったのでしょうか。神のいない生活の虚しさは、孤独は、失ってみてはじめてわかるのかもしれません。

こうしてユダの生活は暗転していきます。彼はカナン人の妻を娶ります。家にいたら、父ヤコブから小言の一つも言われたかもしれません。何しろエサウおじさんは、カナン人のお嫁さんもらい、両親の不評を買いました。でも今彼は、自由です。神さまのみこころなんて考えなくても、自分の好きな人と結婚すればいい。こうして続けて3人の男の子が生まれます。エルとオナンとシェラでした。幸せな結婚生活だったでしょうか。ところが、7節を見ると、まずは長男エルが死にます。その理由は「主の目に悪しき者であったので」、神が彼を打ったというのです。いったい彼は何をやったのでしょうか。いえ、何かをやったからその罰ということではない、彼の状態が「主の目に悪しき者」だったというのです。つまり悪が常態化していたのです。

この長男エルはすでに結婚していました。タマルと言います。タマルの意味は「ナツメヤシ(デーツ)」です。美しさや優雅さ、子孫繁栄の意味を持つ名前のようです。きっとその名の通りの人だったのでしょう。けれども、結婚して間もなく、夫エルを亡くし、未亡人になります。

ユダは、当時の慣例(レビラート婚)に従って、タマルを弟オナンに嫁がせ、オナンに兄の家系を絶やさないように、タマルと子をもうけるように言います。ところが、オナンは面白くありません。たとえ、タマルとの間に子をもうけても、その子は亡くなった兄エルの子となるからです。当時の慣習では、長男は、他の兄弟の2倍の遺産を親から引き継ぐことになっていました。ですから、もし、兄に子どもがいなければ、自分が2倍の遺産をもらえるのですが、兄に子どもがいれば、その子に2倍の遺産が行くことになります。それは割に合わないということで、彼は子どもが生まれないように操作することしました。ところが、彼のしたことは「主の目に悪しきこと」(10節)でした。そして主は、オナンをも打ったのです。

この二人に共通して言えることは何でしょうか。それは「主の目に悪」(7節、10節)だったということです。「主の目に悪」であることが、人の目にも悪だとは限りません。神さまは私たちが見えないところも見ておられる方だからです。ですから、私たちは、表面だけ見て、神は不公平だとか横暴だとか言うことはできないのです。「神のさばきは真実で正しい」のですから。(黙示録19:2)

ところがユダは、息子たちの罪を自分の罪とし、神の前に悔いあたらため、ゆるしを求めることはしませんでした。それどころか、息子たちの死の原因はタマルにあると判断し、本来三番目の息子のシェラにタマルを娶らせなければならなかったのに、それをしないで、彼女を家から遠ざけたのです。大義名分は、「わが子シェラが成人するまで、あなたの父の家でやもめのまま暮らしなさい」(11節)ということでした。けれども本音は、「シェラもまた、兄たちのように死ぬといけないと思ったから」だったのです。

かわいそうなのはタマルです。お家存続のために子を産む道具のように扱われるタマル。古代オリエント社会では、女性が一人で経済的に自立することは極めて困難でした。夫を亡くした未亡人は、孤児や寄留者と並んで「社会的に最も弱い立場(守るべき対象)」とされていたため、レビラート婚の制度は、未亡人を守るための重要な手段だったのです。タマルは、離縁されるでもなく、三男シェアに嫁ぐでもなく放置されます。その間、ユダ一族の嫁として、何年も喪服を着せられたまま、実家暮らしを強いられていたのです。

 

以上のことは、人による神のご計画への「割り込み」です。ユダ自身が、神の救いのご計画に用いられるとは思っていなかったから仕方がないと言えば仕方がないのですが(ユダは四男でした)、先に見たように、神はユダを通して、ダビデ王やイエス・キリストに続く家系をつなぐ計画だったのです。ユダがこのままカナン人と同化して、堕落していくのを見ているわけにはいかなかった。ユダの子孫を途絶えさせるわけにはいかなかったのです。そこで、三つめの「割り込み」、神の割り込み、神の介入が行われます。

タマルが、ある知らせを受けます。13節「ご覧なさい。あなたのしゅうとが羊の群れの毛を刈るために、ティムナに上って来ます」彼女は、シェラが成人したのに、自分は彼の妻にされないこと、また、ユダ自身が妻を亡くしたことを聞きます。そして、決死の覚悟をもって策略を練るのです。その策略とは、ユダが一人でいるときに、遊女の装いをして近づき、彼と寝て、彼によって子をもうけるというものでした。もしユダに妻がいたら、タマルはこのような手段はとれなかったのですが(姦淫になるので)、今ユダは妻に先立たれ、喪の期間も明け、独り身だったので、この策略を実行に移すことにしました。ユダは「羊の毛を刈る祭り」で浮き足立ち、警戒心が緩んでいるタイミングだったのでしょう。いとも簡単にタマルの罠にかかったのです。彼は、遊女に贈り物として子ヤギをプレゼントすると言います。けれども後払いになるので、担保として、身につけていた印章と杖をタマルに渡します。

こうしてタマルはしゅうとユダによって妊娠します。そしてその知らせは、すぐにユダのもとに届きます。するとユダは怒って、「あの女を引き出して、焼き殺せ!」(24節)と言うのです。立場的には、タマルはユダ一族の嫁でした。そして未だ喪中だったのです。もし、喪が明けないまま、他の人と姦通するならば、それは立派な不貞、姦淫だというのです。

けれども、タマルは賢い女性でした。実家にいた彼女は、ユダの使いの者に引き出されるのですが、彼女は彼に言うのです。25節「この品々の持ち主によって、私は身ごもったのです」「これらの印章とひもと杖がだれのものか、お調べください。」ユダは使いの者が、タマルから預かって来たそれらの品々を見て、血の気が引きました。「これらの印章と杖は、まさしく自分が遊女に渡した物だ。タマルを妊娠させたのは、自分だったのか!」彼は言います。26節「あの女は私よりも正しい。私が彼女をわが子シェラに与えなかったせいだ。」こうしてユダは、タマルを家に戻し、生まれてくる子を、ユダ一族の継承者としたのです。ユダが嫁のタマルと以降関係を持たなかったのは、相手がだれか知らなかった上での関係であったことを証明するため、また義理の父と娘との近親相姦の罪を避けるため、そして子孫を残すという目的が果たされたためでしょう。けれどもそれだけではない。何よりも、ユダの悔い改めの表明だったのではないでしょうか。「あの女は私よりも正しい」という告白に、その思いが表れています。

 

神さまの「なんとしても人を救いたい」という熱心とご計画は、時に人の思いや策略、罪さえも巻き込んで実現していきます。この38章では、誰も神さまのことなど考えていません。神の愛、神みこころなんて、誰も考えていないのです。これが罪人の姿です。罪人の本質は自己中心です。人はみな、自分の生活、自分の家族、自分の財産、自分の将来が何よりも大切。そして自分を守ること、自分の好きなものを周りに置くこと、自分のこだわりを通すことで必死です。

けれども神さまは、そんな人間の状態に関わらず、愛を貫かれるお方です。何とか一人でも救おうと、全力を傾けるお方です。そんな神さまを思うときに、神さまの救いのご計画に割り込む人生ではなく、神さまの思いを自分の思いとして、神と共に人を愛し、人々を救いに導く者でありたいと心から思わされます。そのために、神さまは、私たちの人生に割り込んで(介入して)くださいます。そしてユダを悔い改めに導いたように、私たちをも悔い改めに導き、神さまの救いのみわざの一端を担わせてくださるのです。お祈りしましょう。

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