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主がヨセフとともにおられ(創世記39章1~23節)

 


「主はヨセフとともにおられ」

創世記39章1~23節

 

父の愛を一身に受けて、何不自由なく育ったヨセフでしたが、兄たちの嫉妬を受けて、エジプトに奴隷として売られてしまいました。エジプトはアラビア語を使います。言葉も文化も分からないエジプトで、ヨセフはどんなに心細かったことでしょう。

彼は、この時17歳でしたが、6節を見ると、「体格も良く、顔だちも美しかった」とあります。兄たちからイシュマエル人、つまりミデヤンの商人たちに売られたときには、銀貨20枚でした。けれどもその体格の良さ、顔だちの美しさ、そして、ここには書いてはいないですが、なんとも言えない品格もあったのでしょう。ヨセフを買ったのは(競り落としたのは?)、なんとエジプトの王ファラオの廷臣で侍従長でした。相当お金を積んだのではないでしょうか。そしてヨセフは、この侍従長ポティファルの家の奴隷となったのです。

2~6節

「【主】がヨセフとともにおられたので、彼は成功する者となり、そのエジプト人の主人の家に住んだ。彼の主人は、【主】が彼とともにおられ、【主】が彼のすることすべてを彼に成功させてくださるのを見た。それでヨセフは主人の好意を得て、彼のそば近くで仕えることになった。主人は彼にその家を管理させ、自分の全財産を彼に委ねた。主人が彼にその家と全財産を管理させたときから、【主】はヨセフのゆえに、このエジプト人の家を祝福された。それで、【主】の祝福が、家や野にある全財産の上にあった。主人はヨセフの手に全財産を任せ、自分が食べる食物のこと以外は、何も気を使わなかった。」

 

ヨセフは、奴隷の身分でありながら、他のすべての奴隷や雇人の上に立つ者となりました。主人ポティファルはヨセフをとても気に入って、全幅の信頼を彼に置いたのです。そして、奴隷の身分でありながら、主人の家に住むという特権も与えました。それはもう、家族の一員と言ってもよいほどの好待遇でした。けれども、ヨセフはそれに甘んじることなく、身を低くして主人に仕え、それがまた主人の好感を得るという好循環が生まれたのです。

これほどまでヨセフが、愛され、信頼され、やることなすこと成功したのはなぜでしょうか。それは、「主がヨセフとともにおられた」からでした。そして「主がともにおられること」は、まわりの人の目にも明らかだったのです。ポティファルは思いました。「ヨセフのやることなすこと、これほど祝福されるのは、彼の信じている神のおかげに違いない。神がヨセフとともにおられるのだ。それなら彼にすべてを任せるのがよいだろう!そうすれば、自分たちも神の祝福の恩恵に与れるのではないだろうか。それにしてもいい買い物をした!」こうして、ポティファルは、ヨセフを「ドル箱」のように丁重に扱い、自分が食べる物以外は、すべてヨセフに任せ、家の財産、召使たち、家畜の一切を管理させたのです。このように家の全財産のすべてをヨセフに任せてからというもの、ポティファルの家はますます豊かになっていったのでした。

ここでまた一つ、アブラハムへの祝福の約束の成就を見ます。ヨセフの先祖アブラハムへの神さまの約束を覚えているでしょうか?神さまは、アブラハムとアブラハムの子孫を祝福するだけでなく、祝福の基とすると約束されたのです。彼らのゆえに、まわりの国民(くにたみ)も祝福するという約束です。ご自身の約束に忠実な神さまは、その約束を守られたのです。

 

しかし、よい時は長く続きませんでした。なんと、主人の奥さんがヨセフに目をつけたのです。体格も良く、顔だちも美しい、若い青年ヨセフに、ポティファルの妻は夢中になりました。そして何とか彼を自分のものにしたいと思ったのです。彼女は、自分にはその権利があると思いました。自分はヨセフの主人の妻ですし、彼は奴隷だったからです。そして彼女は、執拗にヨセフを誘いました。けれどもヨセフは、落ちませんでした。女主人の誘いを丁重に拒絶し、距離を取ったのです。

聖書には誘惑に勝つ秘訣が書いてあります。Ⅰコリント6:18 「淫らな行いを避けなさい。」Ⅱテモテ2:22 「あなたは若いときの情欲を避け、きよい心で主を呼び求める人たちとともに、義と信仰と愛と平和を追い求めなさい。」

このように誘惑に対しては向き合い、戦うようにとは書いてありません。その場を離れること(物理的にも精神的にも)、言葉と態度できちんと拒絶すること、そして、自分の意思を相手に表明することです。そして、先ほど読んだⅡテモテ2:22にあったように、私たちの視線をイエスさまに向け、「義と信仰と愛と平和」に向けるのです。ヨセフは言いました。8-9節「ご覧ください。ご主人は、家の中のことは何でも私に任せ、心配せずに全財産を私に委ねられました。ご主人は、この家の中で私より大きな権威をふるおうとはせず、私がするどんなことも妨げておられません。ただし、あなたのことは別です。あなたがご主人の奥様だからです。どうして、そのような大きな悪事をして、神に対して罪を犯すことができるでしょうか。」

ヨセフが断った理由は二つです。一つは、主人の信頼を裏切りたくないということ。そしてもう一つは、神に罪を犯すことはできないということでした。けれどもポティファルの妻はもう意地になっています。プライドが傷ついたのでしょう。そして頑として自分の支配に服さないこの奴隷をなんとか罠にかけようとするのです。

ある日、実力行使に出ました。おそらく計画的に、彼女は家の中にいる奴隷や召使いをすべて外に出したのでしょう。そして、12節「彼女はヨセフの上着をつかんで、『一緒に寝ましょう』と言った。しかしヨセフはその上着を彼女の手に残し、彼女から逃れて外へ出た。」

誘惑に対しては「逃げるが勝ち」、「逃げるは恥だが役に立つ」(ハンガリーの格言)。話しても分からない相手からは逃げましょう。そして自分の身を守るのです。けれども、このことはポティファルの妻のプライドをさらに傷つけました。そして、彼女は今度こそあきらめたのです。けれどもあきらめと同時に憎しみがわいてきました。「愛」のない「恋愛感情」があります。それが「愛」かどうかは、相手の人格と意思への尊重があるかどうかで見分けることができます。ポティファルの妻のヨセフへの感情は、「愛」ではなく、「欲」でした。「性欲」というより「支配欲」でしょう。そのような感情は、自分の思い通りにならないと、一転「憎しみ」に変わります。

ポティファルの妻は、ヨセフが残していった上着を掴みながら、叫びます。「誰か来て! ヨセフが私にいたずらをしようとしました!」そして家の者たちを呼び集め、その現場の証人にしようとします。そして、主人が帰ってくると、そのヨセフの上着を示し、「あなたが私たちのところに連れて来た、あのヘブル人の奴隷は、私にいたずらをしようとして私のところに入って来ました。私が声をあげて叫んだので、あの男は私のそばに上着を残して、外へ逃げました。」(17-18節)ポティファルは、妻の言葉を聞いて怒りに燃えて、その勢いに任せて、ヨセフを監獄にぶちこんでしまったのです。

言うまでもなく、ポティファル家の祝福は失われたでしょう。もう、自分の全財産を任せられるような信頼できる者は誰もいません。時間が経ち、落ち着いて考えると、ヨセフが自分の妻を侵そうとするとは、到底思えませんでした。また、古代エジプトの法的な文献によると、既婚女性と姦通を犯した男性への罰は、未遂や状況によって以下のように分かれていました。①死刑(火刑やワニに食べさせるなど)②身体刑(鼻をそぎ落とす、去勢、鞭打ちなど)。それを思うとヨセフへの罪は軽すぎます。ポティファルは、エジプトの王ファラオの廷臣、しかもファラオの側近くに仕える侍従長でしたから、20節にあるような「王の囚人が監禁されている監獄」も、彼の管理下にあったと思われます。そう思うと、彼は自分の目が届く安全な場所にヨセフをかくまったとも解釈できるのです。

ともあれヨセフは、監獄に入れられました。境遇的には「天から地に落ちた」と言っても過言ではないでしょう。ヨセフはどんな気持ちだったでしょうか。世の理不尽を嘆いたでしょうか。「正直者はバカを見る」と自分の人生を呪ったでしょうか。いいえ、彼は再び立ち上がり、淡々と自分の仕事をしたのです。自分の境遇をのろうのは簡単です。「神がいるならなぜ!?」と神に抗議するのも簡単です。けれども、私たちがコントロールできないことは、すべて神の御手にあります。私たちにはわからない、神さまのお考え、ご計画があるのです。そんな時には、愛の神さまに信頼し、淡々と目の前のなすべきことを忠実に果たすことをお勧めします。自分でコントロールできないことを思い悩むのではなく、自分ができる目の前のことを淡々としながら前に進むのです。

21‐23節「しかし、【主】はヨセフとともにおられ、彼に恵みを施し、監獄の長の心にかなうようにされた。監獄の長は、その監獄にいるすべての囚人をヨセフの手に委ねた。ヨセフは、そこで行われるすべてのことを管理するようになった。監獄の長は、ヨセフの手に委ねたことには何も干渉しなかった。それは、【主】が彼とともにおられ、彼が何をしても、【主】がそれを成功させてくださったからである。」

この章のはじめと終わりに「成功」という言葉が出てきます。ヨセフの生涯は果たして成功でしょうか。もちろん、見るからに成功していると見える時もあります。けれども、同じぐらい逆境もあったのです。兄たちの冷たい仕打ち、奴隷として売られたこと、そして今回投獄されたことなどは、とても「成功」とは思えません。

聖書の言う「成功」はどうやらこの世の「成功」とは違うようです。それは、「逆境のない人生」ではなく、どんな逆境の中であっても、神がともにおられ、神の計画のために私たちが整えられ、用いられていくプロセスそのものなのです。だからこそヨセフは、奴隷の服を着ていても、囚人の服を着ていても、聖書では「彼は成功者だった」と評されているのです。

そう思えば、私たちも人生の成功者です。なぜなら、神さまは私たちとも、ともにおられるからです。「神さまがともにいる」ということは、単に孤独じゃない、寂しくないということ以上に、神の子どもとして私たちが造り変えられていくこと、成長することを主が助けてくださっていることを意味します。神さまは私たちの人生に目的をもっておられ、私たちを通して、ご自身の栄光をあらわそうとしておられるからです。ですから、順境のときも逆境のときも、主が私たちによいご計画を持っておられることを信じて、淡々と今日の務めを果たしていきたいと思います。祈りましょう。


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